「うちは下請けだからどうせダメだ」そう卑下する人に稲盛和夫が必ずかける"ある言葉"
※本稿は、稲盛和夫述・稲盛ライブラリー編『経営のこころ 会社を伸ばすリーダーシップ』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。
■毎年、何度も「値段を安くしてほしい」という交渉が…
中小企業経営者の多くが、下請けで儲からないような仕事をもらい、ウチは技術もない、何にもない、結局は大手企業の下請けをやっている。それで自分を卑下して、ダメだなとお考えだと思います。そうではありません。事業家として成功していった人は、そういう下請けから始まっているのです。
これは私のケースですが、大学を出て最初に就職した会社でファインセラミックスの研究をしていて、最初につくったのがU字ケルシマという製品です。
当時、松下電子工業(以下、松下)がテレビのブラウン管をつくり始めていました。ブラウン管に必要な絶縁材料に適したものがないというので、私が開発したものを使ってくれた。それが京セラ創業の製品でもありました。
その製品は「私しかつくれないものだ」と私は思っていましたが、松下側からしてみると、すでにオランダのフィリップス社から輸入をしていたため、日本で買えなければオランダから輸入して買えばいいと思っておられた。
そのなかで日本では私が安くつくるので、私に依頼があった。つまり松下の下請けをやっていたのです。
すると、松下からは毎年、何回となく「値段を安くしてほしい」という交渉があるわけです。
ブラウン管の生産がどんどん増えていくと、「今まで毎月五万本発注していたけれど、今度は六万本、七万本になって量が増えたのだから、値引きをするように」と言われるのです。
さらに、十万本になったから、十五万本になったから、あるいは生産を始めて二年経ったから、と値下げを言ってくる。
「もう、いよいよ下がりません。これ以上は下がりません」と言うと、「だったら確かめるため、決算書を持ってきなさい」と言われる。もう腹が立って、腹が立って、「もう下がらないのです」と言って喧嘩をしたこともありました。
■「常に厳しい値下げを要求されるのが下請け」と覚悟を決めた
そうしたなかで、松下の下請けの仕事をしている人たちの会がありました。
私はセラミックスをやっていましたが、ほかにも打抜きの金属のパーツやプラスチックの成型など、いろいろな下請けをやっている人たちが集まった席で、あるとき、「もう値切られて困ってます」と言うと、そこに集まった下請けの人がみんな「稲盛さんもそうですか。ウチもですわ。だいたい松下だってもともとは中小企業で小さかったのに。我々のような中小零細企業をいじめて大きくなった会社ですよ」と膨れっ面をしている。
「そうかもなあ」と思ったけれども、みんなそのわりには立派な背広を着ていました。また、そういう人たちを見て、「ちっとも死にそうなほど苦しい顔はしていないな」とも思いました。やっぱり、松下の仕事をして儲かっているのでしょう。
ところがその人たちはいつもブツブツ文句を言っている。どうもそれはおかしいのではないか。だから私は、不満を言って喧嘩をするのではなく、常に厳しい値下げを要求されるのが下請けというものだと思うことにして次のように訴えたのです。
■「値段はお客様が勝手に決める」
「それなら松下さん、値切り倒してください。私はあなたが値切るなら、値切る先をいきます。値段はいくらにしろ、と言ってください。言った通りにします。そのかわり今後、決算書を持ってこいとは言わないでください。私がいくら儲かろうと、それは私の才覚です。あなたがほしい値段で売ります。その値段よりもはるかに安い値段でつくるのは私の才覚、技術者としての私の才能ですから、文句を言わないでくださいよ」
しかし、そう言ってみたものの、これからどうすればいいのか。会社に帰ってから、私は幹部社員を集めてこう言ったのです。
「値段はお客様が勝手に決める。だから、これからは原価がいくらで適正利潤をいくら乗せて、いくらで売るというような呑気なことは言っていられない。いくらと松下さんに言われれば、それよりも安い値段でつくらないと仕方ない。言われた値段よりもはるかに安い値段でつくることが、我々幹部社員の責任だ。そのことを日夜考えよう」
ですから、当社のフィロソフィの中には「値段はお客様が決める」という考え方があるのです。つまり、我々では決められない。お客様が決められた値段よりもはるかに安い値段でつくる、その努力をするのが技術屋の仕事だと位置づけて頑張りました。
■厳しい要求をしてきた相手を「恩人」だと思った
その結果、こちらはものすごく鍛えていただいているだけに、他の電機メーカーに行ってみても、松下ほど厳しくはない。「本当にこの値段でよろしゅうございますか」と、こちらが言わなければならないぐらいの値段です。
剣道でも柔道でも、達人に激しい練習で鍛えられると、どんな相手にも楽々と勝てるのと同じです。さらにその勢いをかって、アメリカやヨーロッパへ出て行って競争し、勝っていったのです。
私はつくづく思いました。他の下請けの人たちは「松下は中小企業の生き血を吸って大きくなった」と言うが、「何を言うか」と。
松下さんには本当にいくら感謝しても足りないぐらいだ。あの厳しさがあったからこそ、今日の京セラがあるのであって、「よくぞここまで鍛えてくださいました」と手を合わせなければならない。「足を向けては寝られないな」と思いました。
松下を逆恨みしてつぶれていった会社も、大阪の下請けにはありました。しかし私のように、厳しい要求をしてきた相手に感謝し、京セラ発展の恩人だと思っていると、そのつらさをポジティブに受け止めて、いいほうにいいほうにと考え、努力していきますから、それがさらに血肉となって発展していくわけです。
同じ厳しい条件、極端にいうと、この世の地獄のような条件にあって、ある人はそれを地獄と取り、ある人は自分を極楽へ連れていく道だと取る。その受け取り方によって百八十度、経営も人生も変わっていくのです。
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稲盛 和夫(いなもり・かずお)
京セラ名誉会長
1932年、鹿児島県生まれ。55年京都の碍子メーカーである松風工業に就職し、ファインセラミックの研究に邁進。59年、27歳のときに、京都セラミック株式会社(現・京セラ)を設立。通信自由化を受けて、84年に日本初の異業種参入電気通信事業者となる第二電電企画(現・KDDI)を設立。2010年には民事再生法の適用となった日本航空(JAL)の会長に就任。無給で再建に尽力し、12年に再上場を果たす。
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(京セラ名誉会長 稲盛 和夫)