「理想の夫婦」とSNSで話題の2人に生じ始めた陰り。妻が抱える心の闇とは
大抵どんな夫婦にも、互いに“秘密”があるものだ。
『愛しているからこそ、全てを知りたい』
そう考えた一人の男がいた。
愛しすぎることは、罪なのか……?
◆これまでのあらすじ
里紗の夫・毅はストーカー行為をして里紗と結婚までこぎつけたことが発覚した。そのことを知った里紗は、「離婚したくないなら私のワガママをすべて受け入れること」という条件を突きつけ、毅はそれを受け入れたが…。

毅との話し合いが終わったことで、里紗の中で「夫がストーカーだった問題」は、一応の解決を見た。
それからの里紗は、仕事に没頭する毎日が続いた。
成人の日が過ぎ、いよいよ週末からフードデリバリー事業が始まる。色彩豊かな和風イタリアンを中心したメニューは、年明けから告知を始めたSNSでも反応は上々で、スタッフも気合が入っている。
「やっとここまできましたねっ!」
週末からは料理教室で使う“キッチンスタジオ”はなく、フードデリバリー事業で使用する“厨房”と化すこの場所で、スタッフの一人である加奈子は、洗い物をしながら満面の笑みで言った。
嬉しくて仕方ない様子の加奈子とは対照的に、梓はいつもどおり黙々と、そして淡々とキッチンを清掃している。
― 梓さん、何を考えているのかしら?
パソコンを広げて事務作業をしている里紗は、視界の隅で梓を気にしながらも、加奈子に返事をした。
「あっという間だったね。うまくいくといいんだけど」
「大丈夫ですよ!うまくいきますよ!」
毅がストーカーだった話や、自分たちが一時期別居していたことについて、加奈子にはもちろん話していない。
それに、3人しかいない厨房でギクシャクすることは避けたくて、梓に対しても努めて今までと変わりなく接するように心がけていた。
だが里紗の気遣いは、梓の前では意味をなさないようで、休憩時間になり加奈子が外に出た途端に、梓が例の話を振ってきたのだ。
梓の中では全く終わっていないようで…。彼女が放った言葉に、里紗は愕然…!?
「里紗さん、ご主人とは順調ですか?」
挑発するような梓の問いかけに対し、里紗はできるかぎり平静に答える。
「ええ。おかげさまで」
事実、“梓のおかげ”だ。
告げ口のような梓の情報提供がなければ、夫婦が互いに抱えていた秘密を知ることはなく、二人の間の微妙な距離感が縮まることはなかっただろう。
だから無難に里紗はそう言った。
その言葉を聞いた梓が、「こちらこそ、ありがとうございます」と片方の口角をいびつに吊り上げて返事をする。
― 梓さんに感謝される筋合いなんてあったっけ?
彼女の言葉の意味を里紗が理解できないでいると、彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、続けた。
「お二人の夫婦生活が破綻していくのを、近くで見届けることができそうで楽しみです」
あまりの言葉に愕然とする里紗を置いてけぼりにして、梓はキッチンの清掃を淡々と続けている。
そんな彼女に『何か言い返してやりたい』と憤りを感じたが、言葉が出てこない。そのうち、加奈子が外から戻ってきたので、里紗は感情を抑え込むしかなった。
梓は、毅と昔付き合っていたが、彼のストーカー気質に嫌気が差して別れた。
しかしその後、毅が里紗と結婚し幸せに暮らしていること知ると、わざわざ毅がストーカーだったという過去を里紗に暴露してきた。
その理由も最初は“里紗を助けるためだ”と言っていたが、今は“夫婦が破綻するのを見るのが楽しみだ”と言っている。
梓の真意は理解できないが、彼女が複雑な感情を里紗に対して抱いていることだけは、よくわかる。
― こっちだって黙ってないわよ。幸せな結婚生活を送っていることを見せつけてやるわ。
里紗は心の中で誓った。
そして数日後、さっそくその機会が訪れる。
フードデリバリーの開業が明日に迫った金曜の昼、キッチンスタジオでささやかなオープニングパーティーが開かれ、毅の仕事関係者が集まった。
もちろん時世柄、人数は多くないが。
招待客は、毅がオフィスのインテリアや内装などをプロデュースした会社のトップばかりで、管理栄養士として過ごしてきた梓にしてみれば、あまり出会う機会のない人たちだ。
そこで毅が、みんなの前で挨拶をしたのだ。

「今の私があるのも、妻である里紗のおかげです」
空間プロデューサーとして成功したことも、幸せな結婚生活を送っていることも、すべて里紗と出会ったからだと毅は説明し、みんなの前で堂々と妻への愛を語ってくれた。
ストーカーだったことはもちろん伏せているが、毅は何も間違ったことは言っていない。
スピーチの最後に、毅が里紗を呼び寄せてハグをすると、拍手で祝福された。
里紗はそのとき、梓からの視線を感じたが、決して彼女のほうを見ようとはしなかった。
この様子がSNSでアップされると、里紗と毅のことを「理想の夫婦」と表現するコメントがついた。
そのことも影響したのか、開業したフードデリバリー事業は、予想をはるかに上回る売り上げを記録していく。
ポジティブな空気は、仕事だけでなく、プライベートでも流れた。
「離婚したくないなら、願いごとを全部叶えて欲しい」という里紗の条件を毅がのんでくれて以来、日常生活において里紗は遠慮することがなくなった。
大事な時期だからと仕事に励み、それ以外の時間は怠けに怠け毅に甘えた。
日中の業務に疲れたらエステに行き、自宅では家事をせずに身体を休ませることに専念した。
毅は嫌な顔ひとつせず、むしろ嬉々として、エステを予約しては代金を払い、家事代行サービスを手配する。
仕事場のキッチンスタジオと自宅はそう遠くないのに、毅が車で送り迎えをしてくれたし、彼のスケジュールが空いていないときは、タクシーを手配してくれた。
絵に描いたように寵愛を受ける日々だった。
だが、その状況に甘えていた里紗は、自分の“変化”に気づけなかった。
夫婦生活は持ち直したはずなのに、どんな変化が…?
好調なフードデリバリー事業。
承認欲求が満たされるSNSでの評価。
ストレスフリーな仕事以外の時間。
里紗にとって、これ以上ない幸せな日々が続いていた。
しかし、結婚生活を続けると決意してから2ヶ月が経ったころ、毅から「最近、暗い顔をしていることがあるけど、何かあった?」と不意に言われた。
「暗い顔なんてしてる?」
意外な毅の言葉に驚くが、里紗に心当たりはない。
「してるような気がしたけど…。特に心配事とかはないんだね、安心したよ。気のせいならいいんだ」
毅は頬を緩ませたが、その目は笑っていなかった。納得いってない証拠だ。
その後も、たびたび「暗い顔してるよ」と言われるようになったが、里紗は「そうかな?困ってることとかないけど」とその都度答えていた。
仕事やプライベートに何も不満はないから、暗い顔をする理由が本当に見当たらない。
だが毅は、出会う前から――そして出会い、交際し、結婚した後も――里紗をつぶさに観察している。そんな毅だからこそ、本人すら気づかないわずかな変化に気づくことがあるのかもしれない。
そう思った里紗は、無意識のうちに“暗い顔をしてしまう理由”について真剣に考えてみることにした。

◆
その日は、どうしても避けられないリモート打ち合わせがあるとのことで、仕事終わりの里紗を車で迎えに行けないから、タクシーを手配すると毅からLINEが届いた。
フードデリバリーのラストオーダーは22時で、今日の売り上げの計算や、明日の仕込み、そして片付けなどをこなして帰宅する頃には23時となる。
遅い時間だからと言って、毅はいつも車で送り迎えをしてくれるのだが、里紗はその日、夜道を散歩したくて徒歩で帰ることにした。
『今日はタクシーいらないよ。歩いて帰るね』
毅にLINEしたが、すでにリモートでのミーティングが始まっているのか、返事はない。
桜の季節が訪れつつある目黒川沿いを行きながら、「暗い顔をしている」と毅に指摘される理由について考えた。
橋を渡ると桜の枝葉の間から夜空が見える。
日中に吹きすさんだ強い春の風のせいか、澄み渡った夜空に、東京では珍しいほどの星々が輝いている。
その瞬間、どういうわけだか“答え”が見えた。
意外なほどあっさりと、なぜ「暗い顔をしている」と毅に言われるのか、わかってしまったのだ。
― 私、ぜんぜん充実感がないのかも…。
これまでの里紗は、毅がお膳立てしてくれた料理教室の仕事にひたむきに取り組み、自宅では完璧な夫に見合うため懸命に家事にも取り組んだ。
その時は、一つひとつに達成感や満足感を得られていたような気がする。
でも今は大した努力もせず、すべてがうまくいっているのだ。
疲れも溜まらないが、その分、達成感を味わうこともない。
何の努力もせずに好きな物を食べ、好きな服を着てやりたい仕事をやり、夫に甘え自分の希望はすべて叶えてもらっている。
満たされているのに、簡単に手に入ってしまうから、どこか満たされてない気持ちになるのかもしれない。
ー だとしたら私は、それに無意識に気づいていたから“暗い顔”だったのかも…。
◆
めずらしく毅からLINEの返事がないままに、里紗は自宅に到着した。鍵を開けて「ただいま」と言って、玄関をあがる。
その声は、心なしか、いつもの自分より張りがない。
暗い顔になっていた理由に感づいた今、それを毅に伝え、相談すべきか、迷ったままの帰宅だった。
だが、その迷いは無用なものだと、程なくして里紗は気づかされる。
自宅にいるはずの毅がいない。
しばらく家の中を捜してみる素振りをみせたが、いないことは空気でわかっていた。すぐに毅に電話をしてみたが、コール音だけが虚しく耳に響く。
里紗を溺愛・寵愛していたはずの夫は姿を消し、その夜を境に一切連絡が取れなくなった…。
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毅が突然に消えた理由に、里紗の心は乱されて…。

