古市憲寿 芥川賞落選は「立候補したわけではないので」

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『平成くん、さようなら』に続いて『百の夜は跳ねて』を芥川賞候補に送り込み、小説家として活動の幅を広げている古市憲寿さん。

惜しくも受賞はならなかったが、候補作となった『百の夜は跳ねて』は現代の都市生活を書く、冷たく鋭利な視点が際立つ長編。古市さんはこの作品をどのように構想し、作り上げていったのか。そして、社会学者として活動していた古市さんはなぜ小説を書くようになったのか。ご本人にお話をうかがい、さまざまな疑問をぶつけさせていただいた。

■連続芥川賞候補入りも受賞はならず みやぞんに言われたひと言

――『百の夜は跳ねて』は、『平成くん、さようなら』に続いて芥川賞の候補に挙げられましたが、受賞はなりませんでした。残念でしたね。

古市:そうですね。でも、この間日本テレビにいたら、みやぞんさんに「おめでとうございます!」と言われ(笑)。「残念でした」は言われ慣れているから返答できるんですけど、「おめでとう」と言われると、どう返していいかわからなかったです。

――古市さんが受賞したと勘違いしていたんですか?

古市:ノミネートと受賞を混同されたのかもしれないですね。みやぞんさんではないですが「二回連続おめでとうございます」と、僕が二回受賞したと勘違いしている方もいましたし。

――『平成くん、さようなら』で受賞を逃したということで、「今回こそは」という思いはあったのでしょうか。

古市:いやー…。立候補したわけではないので、「今度こそ」というのはありませんでした。そもそもこの小説を書いたのは3月で、発表されてからももう何ヶ月も経っていましたし。選挙のように政治活動をするものでもないですしね。

――『百の夜は跳ねて』は、就職活動で挫折し、高層ビルの窓掃除の仕事に就いた翔太と、不思議な老女との交流が描かれています。実は私も少しだけこの仕事をやったことがあるのですが、作業の描写がとてもリアルでした。もしかして古市さんも経験者ですか?

古市:いや、経験者ではないです。どちらかというと建物の中にいた側で、タワーマンションに住み始めた頃に、清掃員の方の作業を見ておもしろいなと思っていました。

「今月はいつ清掃が入ります」という連絡が毎月くるので、はじめのうちは気にしてカーテンを閉めたりしていたんですけど、そのうちにカーテンが開いたまま、目の前で清掃作業が行われていても気にならなくなった。そういう自分の心境の変化から物語を考えていきました。

――作業用のゴンドラが上下するにしたがって、清掃員は違う部屋の中を目にすることになります。様々な物語が考えうるモチーフだと思います。

古市:そうですね。いろんな部屋をのぞき見ながら何かの事件を解決していくという、『家政婦は見た!』のような推理小説でもいいと思いましたし、清掃中にガラス越しに経営者と親しくなって、部外者なのに会社の中で暗躍する話も考えましたね。

色々なパターンが考えられたのですが、人と人との交流を書きたいと思って、最終的に今回のような形におさまりました。

――高層マンションの掃除を通して様々な部屋の中をのぞき見る主人公の翔太の視線が冷めていて、現代的だと感じました。何を見ても驚かず、まるで一台のカメラのような。彼の人物像はどのように決めていったのでしょうか。

古市:どれくらい冷めた人物にするか、どのくらい世の中を悲観しているか、ということは難しかったのですが、今回については何年のいつからいつの出来事で、登場人物は何歳でという小説の構造を最初に作ったんです。翔太についてはそうやって小説世界を作ったら勝手に動き出した感じです。キャラクターを意識して作り込んだりはしていないですね。

――彼のキャラクターはどことなく古市さんが投影されているようにも思えました。

古市:それはあると思います。以前に書いた『絶望の国の幸福な若者たち』という本のあとがきで「全く違う世界の人には感情移入できないが、自分と自分の周りには関心がある。ただ、自分といってもこの世界にたまたま生きている自分だけではなくて、違う人生を歩んでいたかもしれない自分に対してもシンパシーを感じる」という趣旨のことを書いたんです。

たまたま大学に受かったり、たまたま修士論文が本になって今ここにいるのですが、それは偶然が重なっただけで、違った人生もありえたはずです。その違った人生を見られるとして、それが今の自分より幸せだったら嫉妬するし、不幸だったら応援したいと思うはずで、翔太はその延長なのかなと思っています。投影といっていいのかわかりませんが、「ここにいなかった自分への応援」のような気持ちはあります。

――富の象徴のような高層マンションと、それを掃除する就活に失敗した若者というコントラストが鮮やかです。翔太は高層マンションもそこに住む人もシニカルに見ていますが、それでもそこに通わざるを得ない…。

古市:太宰治の『富岳百景』という小説が頭にあったんです。富士山のことをシニカルに見ていた主人公が、人との交流を通して「富士山って悪くないな」と考えるようになっていくのですが、同じようなことを現代の東京で書けないかと考えました。

――富士山ではなく高層ビルで、ということですね。

古市:高層ビルもそうですし、東京の街並みもそうです。翔太は東京の街並みを醜いものだと思っていて、同じように東京を俗っぽいと考える老婆と出会う。その後の交流を通して、その印象が変わっていきます。

――老婆と翔太が大量の箱を積み上げて「街」を作るシーンはぐっとくるものがありました。

古市:他人からみたらゴミにしか見えない箱であっても、当事者にとってはすごく大事なものかもしれません。これは生き方も同じで、他人からどう見られようとかではなくて、自分にとって好きなもの、大切なものを見つけることが、実は幸せになるために一番大事なんだと思います。

――「偏見は取り下げる覚悟がある限りにおいて悪いものじゃない」など、老婆の言葉には印象に残るものが多くありました。彼女の言葉に古市さんの思いを託したという部分もあるのでしょうか。

古市:モデルというほどではないのですが、この老婆には「この人みたいな感じかな」と自分の中で思っている人がいて、その人が勝手に動き出したイメージです。

僕の思いや主張が入っていないとは言えませんが、彼女のセリフはあくまで、作品世界の中でその人が言いそうなこととして考えています。僕が言うのも何ですが、いい言葉ですよね(笑)。

後編につづく

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