騙されたのは女か、それとも男か?
「恋」に落ちたのか、それとも「罠」にはまったのか?

資産200億の“恋を知らない資産家の令嬢”と、それまでに10億を奪いながらも“一度も訴えられたことがない、詐欺師の男”。

そんな二人が出会い、動き出した運命の歯車。

200億を賭けて、男と女の欲望がむき出しになるマネーゲームはやがて、日本有数の大企業を揺るがす、大スキャンダルへと発展していく。

男が最初の駒に選んだのは、令嬢の部下だった。そしてその男の計画通り…令嬢はジワジワと追い詰められているように見えたが…




ドクン、ドクン、ドクン。

耳に直接流れ込んでくる、男の心臓の音。それは一切乱れず、穏やかで規則正しい。

そのことに気がついた時、私は我に返り自分でも驚くほど大きな声を出してしまった。

「離してください」

その勢いのまま小川親太郎の胸を押し返すと、あっさりと解き放たれた。

まるで私が望んでそこにいたかのように…。そんな気まずさで居たたまれなくなるが、ともかく場の主導権を取り戻さなければならない。

穏やかに微笑む美しい男の視線に焦らぬよう、静かに呼吸を整える。そして自分の間合いが整ったところで、真っ直ぐに彼を見つめて口を開いた。

「慰めて下さったことには感謝しますが、小川さんは女性との距離が近すぎるように思います。今みたいに、誰彼構わず急に抱き込んだりするのは、やめるべきです。

過剰なハグやボデイタッチは、恋人を不安にさせる行為だと認識した方が良いと思いますよ。例え悪気はなくても、あなたにとってそれが特別な意味を持たなくても、誤解を生みます。そして誤解というものは多くの場合、人を傷つけてしまう」

責める口調にはなり過ぎず、でもシリアスに冷静に、と意識して話しているうちに、私は自分のペースを取り戻していく。

「だれ彼構わずってつもりはないんですけど…葉子がそう言ってましたか?僕のこと」

少し表情を曇らせた彼にそう聞かれて、私は、はい、と即答した。この小川親太郎という人を相手に、これ以上隠し事をしたり、その言葉や行動の意図を詮索したりすることは無意味で、全てが裏目に出る気がしたからだ。

彼から視線をそらさず返事を待っていると、彼は、参った、と小さなため息を吐いた。

「神崎さんって、手強いんですね。僕の予想…というか想像とは随分違う人だ」


思わず本音をもらした詐欺師。図らずも2人の距離は近づいていく。


強い女だと言われることには、慣れている。けれど、手強い、とはどういう意味なのか。質問しようとした時、彼が先に口を開いた。

「神崎さん、幽霊とかって信じてます?」

「信じませんけど…」

脈絡もなく唐突で、ふざけた質問だと思いながらも即答した私に彼は、そうだと思いました、と笑いながら続けた。

「なぜ信じていないのか、聞かせて頂いても?自分の目で見えないものは全て信じない、という単純な理由でもなさそうですから」

チラリと腕時計を見て、あと20分あります、といたずらっ子の様な、ふざけた表情を作られると、質問の意図を聞くことすらバカバカしくなる。そうかと言って、素直に答えるのも悔しい。




「小川さんも、さっきまで私にとって、幽霊だったのかもしれません」

悪意を込めた言葉を選んだ私に、彼はキョトンと呆気に取られた顔になった。彼の素の表情というものを初めて見た気がして、胸がスッとし、私の言葉は勢いを増した。

「父に教えられたことなんですけど、こんな話があるんです。

江戸時代に、ある地を治める藩主が、他人には絶対に入って欲しくない山がありました。宝物を隠したか何かで。それで、藩主は噂を流したんです。

この山に入ったものは、ここで戦死した兵士たちの呪いを受けて死ぬ、と。馬鹿げた話ですよね。でも、効果抜群だったそうです。なぜだかわかりますか?」

「全くわかりません」

「人々が勝手に、そこで幽霊を見たと騒ぎだしたからなんです。首のない男を見たとか、地を這うような唸り声を聞いたとか、山自体が歩いたって言った人もいたらしいです。みんな、とにかく化け物を見たと。

で、噂は一気に広がって、藩主の目論見は成功しました。でも、それは藩主の作り話なわけですから、本当に、そこに幽霊が出るわけはないのです。

でも人々も、別に嘘を言ってるわけではなく、見た、見た、と騒いでいる。腰を抜かして、そこから動けなくなった人もいたそうですから。何を言いたいか、わかります?」

「…いえ、まださっぱりです」

素直な反応を続ける彼に、私は笑って続けた。


詐欺師を翻弄し始めた令嬢。詐欺師が選んだ次の言葉とは?


「私もこの話を人にしたのは初めてで、きちんと話せているかわかりませんが…。ただ、これはある藩の記録に、きちんと記してある史実なんです。私が言いたいのは、幽霊を作りあげたのは、恐怖心を煽られた人々の心理だったってことです。

首の無い兵士に見えたのは、切り株だったかもしれない。唸り声は、ただ風が通り抜ける音だったかもしれない。とにかく得体の知れないものが存在していると思い込ませることで、人は勝手にその姿を想像してくれた。

私の父は、別に幽霊について語りたかったわけではありません。これを人間や物事に置き換えろと教えてくれたんです」

「人間に?で、僕と関係あるんですか?」

「父は、人や物を見極める時の教訓として、この話をしたわけです。恐れが勝つと、事実や事象を見る目が狂い、勝手にそこに化け物を作ってしまう。

ありもしない妄想をして、本当は怖がる必要のない、大したことのない、のどかな山が化け物に見えてしまうわけです。

そうなると、もうその山の何もかもが怖くなる。小鳥がさえずるだけでもね」

「あれ?ってことは、神崎さんには、俺が化け物に見えてたって事?いや、ちょっと待って、幽霊みたいってことは、俺のことが怖かったってこと?」

慌てたのか、繕うのをやめたのか“僕”が“俺”に変わった彼に、私はゆったりと答える。

「どうでしょう?でも、かき乱され、勘ぐっていたのは事実です。なぜかあなたの言葉や行動は、私の弱点にビジビシと刺さりましたから」

―疑え、けれど怖れるな。

一見矛盾するけれど、幼い頃から大切にしてきた父の教えを、私は彼と出会って、翻弄され見失っていた気がする。

「…かっこいいっすね、神崎さん。貫禄というかなんというか…」

砕けたこの口調が彼の素なのだろうかと思いながら私は、腕時計を見た。約束の1時間を5分ほど過ぎている。

帰りますと告げて立ち上がった私の手首を、彼の手が掴んだ。

「小川さん、さっき注意したばっかりですけど」

掴まれた手首を指差し睨みながらそう言うと、あ、ごめんなさい、と答えたくせに、彼は手を離さず早口で言った。




「離しちゃうと、神崎さん帰っちゃうと思うから、俺の話が終わるまで、あと少しだけ許してください。俺今まで女の人って、幸せにしてあげなきゃいけないものだと思ってました。守ってあげて、望みを叶えてあげなきゃって。でも…」

「でも?」

「…うまく言えないですけど、神崎さんみたいな女の人、初めてだ。また相談にのってもらってもいいですか?多分俺、もうすぐ葉子にフラれちゃうし」

「…あなたが、フラれる?」


完敗。そう思った詐欺師が、次に選んだ、意外な手段とは?


この男性のことを、大好きだと言い切った彼女の方から別れを告げるなどありえない。そう言おうかと迷っているうちに、彼が続けた。

「俺いつも、女の人から別れを告げられちゃうんですよ。だから、その時が近づくと気配でわかるんです」

「あなたが、信用できないからでしょ」

つい出てしまった本音に、彼が爆笑した。そんなにはっきり言われたのも初めてだ、と言いながらも、笑いは止まらなかった。

「神崎さんの携帯番号を聞くのは無理そうだから…今日は諦めます。でも、もし気が向いたらアドバイス下さい。僕が葉子にフラれないように。僕の携帯番号は、名刺に書いてあるので。…前にお渡しした時に、捨てられてなければ、ですけど」

そう言って、今日一番の笑顔を見せた彼が、ようやく私の手を離した。

「ここは、ご馳走になっていいわよね」

もちろん、という彼に背を向け、気配を消してくれていた店長さんに礼を言って階段を上り、帰路についた。




誰かと飲食を共にして、自分が支払いをせずご馳走になるなんて、いつぶりだろうと思ったのは、ほんの一瞬。すぐに、空車のタクシーが見えて、娘と夫の顔を思い浮かべながら右手を挙げた。



小川親太郎は、神崎智の後ろ姿を見送りながら、1人バーに取り残され…不思議な気分を味わっていた。

気配を消してくれていた店長に、同じものをもう一杯注文した後、さっきまでのやりとりを反復する。

― 想像とは違う ー

そう言ったのは、本音だった。孤独を引き出せば、堕ちる。いや、すぐには堕ちなくとも、その傷に寄り添うチャンスは来る。そのはずだったのに。

彼女を抱きしめていた時間はほんの一瞬で、すぐに親太郎の腕をすり抜けていった。そして聞いたのは、幽霊の話。

思い出すだけで笑いがこみ上げてくる。色っぽい展開になるどころか、親太郎は、幽霊が出る山と同じだと言われたのだ。

―彼女のような女性は、初めてだ。

それも、紛れもない本音だった。

言葉遣いを砕けてみせても、葉子の名前を出しても、大した揺さぶりはかけられず、今夜の結果だけなら、完敗と言うしかない。何の成果もないまま、彼女をこの店から出してしまったのだから。

普段の親太郎なら、この初めての体験を喜び、手強い彼女との駆け引きを楽しんだだろうが…。不測の事態というものは、常に起こるものだ。

―タイムリミットができるなんてな。

その一つは、神崎智が自らの資産の使い道として、寄付ができる団体を選び始めているということ。マサの情報だと、元々自分が贅沢をする思考のない神崎智は、かなりの額を寄付してしまうつもりらしい。

そしてもう一つは、親太郎自身の問題だった。

―少し、強引に行くか。

親太郎は、次の作戦を決めた。

―夫を…揺さぶってみよう。

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タイムリミットのもう一つの理由…そして、夫にしかけられる罠とは?