平成3年(1991年)に発売された宮沢りえのヌード写真集『Santa Fe』は大ベストセラーになった

写真拡大

 4月30日で「平成」は幕を閉じ、5月1日から新元号へと変わる。結婚、離婚、不倫に訃報、自殺や事件にトラブルと、平成の30年間の芸能史を振り返ってみると、様々な出来事があった。平成の幕開けとともに芸能記者となった筆者が見てきた、芸能界の30年間の喜怒哀楽。第3回は「平成3年」。

平成3年

 今では誰もがインターネットのURLで使用しているWWW(ワールド・ワイド・ウェブ)。それが世界で初めて開設運用されたのが平成3年。

【写真多数】貴りえ、『Santa Fe』新聞広告他、りえのプライベートショット&森田剛との私生活ほか

 東京都庁が有楽町から新宿に移転。バブル期に計画された、豪華な御影石の建造物は、税金の無駄使いと批判の的になった。

 相撲界では横綱・千代の富士が引退し、藤島部屋の若貴ブームの真っ只中。今では当たり前となった外国人力士が増え、相撲界は大いに盛り上がっていた。

「当時の貴花田は入門からわずか3年で新入幕を果たし、史上最年少で千代の富士から金星をあげ、引退へ追い込みました。最終的に、若貴兄弟は揃って横綱まで登りつめたわけですが、あれから30年が経ち、両親、兄弟ともに離婚。そして貴乃花は母親と兄と絶縁状態。当時、兄弟が相撲界を離れ、部屋が消滅するなんて想像すらできませんでした」(スポーツ紙相撲担当記者)

 現在、相撲界を退職してもなお、貴乃花は注目を集め続けている。

 普通のOLをターゲットとしたジュリアナ東京もオープン。ワンレン、ボディコン姿でジュリ扇を持ってお立ち台に上がる“リアル平野ノラ”な人々が続出し、VIPルームを押さえることがステータスとなった。

 また、女の子を送迎する男達を「アッシーくん」と名付け、彼らの乗るBMWが東京・六本木あたりに頻繁に確認されたことから、当時、大衆のベストセラーだったトヨタ・カローラになぞらえ、それらは「六本木カローラ」と呼ばれていた。

 SMAPがCDデビューしたのもこの年。

「ジャニーズが仕掛けたアイドルでは珍しく、デビューしても3年間はまったく売れず、初動が悪いグループでした。平成5年秋に木村拓哉がドラマ『あすなろ白書』で注目を集めだし、翌年にやっとグループに注目が集まりましたね」(アイドル雑誌編集者)

 当時のキムタク人気はすさまじく、まさに木村拓哉がSMAPを引っ張っていたと言っても過言ではない。先の編集者が続ける。

「木村くんも、自分がSMAPを引っ張っているという意識が強く、当時はかなり天狗になっていました。

 インタビューでも“あぁ”、“まぁ”、という態度で、ある日、女性ライターさんが『仕事でしょ! あなたもアイドルで商売してるんだから、ちゃんと話しなさいよ!』と、キレたんです。それ以来、木村くんの取材がまともになったのは、有名な話です(笑)」

 写真集業界に“ヘア解禁”という衝撃が走ったのも平成3年だった。

 樋口可南子(当時31歳)の写真集『water fruit』に写り込んでいたヘアーが、日本の出版・映像業界における事実上の“ヘア解禁”となり、本木雅弘(当時26歳)の『white room』、そして累計165万部以上を売り上げた、宮沢りえ(当時18歳)の『Santa Fe』(いずれも撮影は篠山紀信)が発売された。

 なかでも宮沢りえは衝撃的だった。

りえママの判断力

 一般紙の朝刊一面でヘアヌード写真集の広告が出るなんて、前代未聞。

 しかも人気絶頂のアイドル写真集だ。撮影した時期が18歳ではなく17歳の時だったなど、児童ポルノ論争にもなったが、さらに驚いたのは“りえママ”の言動だった。

「自分の娘とはいえ、マネージャーとしての判断は異常なほど早く、思いきった決断が多かった。この写真集を作るときも、篠山紀信が別の撮影時にいつもの挨拶のように、『もう18歳になるんだから、りえのヌード撮らせてよ』と言うと、りえママが『連休明けかな、撮るんなら』と即答。これには、篠山も驚いたと聞いています」(芸能事務所関係者)

 さらに驚いたのが、りえママが本人にヌード撮影の了解をとったのも、撮影ギリギリのタイミングだったという。

「りえちゃんが嫌がるとか、考えもしないんですよ。彼女もママの言うことが絶対で、逆らうこともしなかったようです。嘘か誠かわかりませんがその昔、仕事で海外のホテルにビートたけしと宿泊中、突然、りえちゃんが『ママに言われて来た』とたけしの部屋を訪れてたようなんです。

 たけしは『早く寝なさい』と、慌てて部屋に返したという話が出回っていました。もし本当だったら、娘に枕営業を仕向けるなんてママは相当、強烈なキャラクターですよ」(前出・芸能事務所関係者)

 そんな宮沢りえも、写真集発売翌年に当時の貴花田(現・貴乃花)と婚約するも破局。彼女の言動は、次々とファンを心配させた。

「仕事でどんなことがあっても、ママの言うとおりにしてきたりえちゃんが、唯一、ママに“(貴と)絶対に別れたくない”と逆らったと聞きました。

 ママなら何とかしてくれると思っていたのに、信じていたママはおかみさんとまともに話ができないまま時間だけが過ぎ、貴はおかみさんの指示通り、一方的に破局を発表してしまったのです。それ以来、りえちゃんは心身のバランスを崩し、不安定な時期がありました」(当時の藤島部屋関係者) 

 その後、故・中村勘九郎さんとの不倫報道に自殺未遂騒動。市川海老蔵やDA PUMPのISSA、中田英寿など、数多くの恋愛話が浮上したが、2009年2月に「私の大きな夢でもあった赤ちゃんを授かりました」とマスコミ各社に報告。妊娠6か月であることを発表した。

「お相手はハワイ在住の実業家でした。関係がギクシャクしていたママも“彼女がやっと女としての喜びに出会えた出来事と、心から喜んでおります”とコメントして、祝福しました。でも、りえは離婚し、ママは14年に肝腫瘍で亡くなりました」(前出・芸能事務所関係者)

 そんな宮沢りえは、現在V6の森田剛と再婚し、幸せな家庭を築いているのは周知の事実。

 あのとき、人気絶頂の中で、当時の貴花田と宮沢りえがスムーズに結婚をしていたら、一体どんな人生になっていたのか。どうであれ、30年経っても騒がれ続けている存在であったことは間違いないだろう。

<取材・文/宮崎浩>