蕎麦屋が汁をこぼさずに出前できるワケ
誰もが一度は目にしたことがあるはずだ、バイクや自転車の荷台で揺れる緑色のマシーンの姿を。その名前は……出前のときに使う、あれだよね、あれ。おそらく、そんなふうに記憶に留めているに違いない。発明から半世紀以上。日本の蕎麦文化を変えた“あれ”について話すときが来たようだ。
見よ、あふれんばかりの機能美を。ブリキのおもちゃを想起させるレトロな佇まいを。これこそが、蕎麦屋の出前を一変させた大発明、出前品運搬機(通称・出前機)の全貌だ。
見たことがない? いやいや、そんなことはないはずだ。最近でこそ出前をする蕎麦屋も減ってきたが、まだまだ現役バリバリ。蕎麦屋の前を通れば、ホンダのカブや自転車の荷台に鎮座する出前機を目にする機会は少なくない。あまりにも普通だから記憶に残りにくいだけだ。いささか据わりの悪いデザインも、荷台に載せれば乗り物と一体化し、抜群の安定感を発揮する。
「初期からこのデザイン。バイクのサイドに岡持ちを下げるものなど、幾つかタイプがありますが、蕎麦屋とくればこの1型出前機が定番です」
出前機の製造と販売を手がけるマルシンの森谷庸一社長が目を細める。業務用調理道具を幅広く扱うマルシンは、ずっと出前機をメインに商売をしてきた。そもそも、このために会社をつくったそうだ。
「シンプルで頑丈だから、買い替え需要はそんなにないんですよ。交換部品も取り扱っていますから、お店のほうで部品交換もできるんですね。だから今は、出前機をどんどんつくっているという感じじゃないです。ところで、これで運ぶと汁がこぼれない理由、わかりますか?」
そこだ。長年の疑問だったのである。いくら慎重に運転しても、道路にはカーブもあれば信号もある。路面の微妙な凹みも至る所に出没する。それなのに、前後左右、そして上下の揺れを潜り抜け、蕎麦は無事に届けられる。ラップをかけているから程度の理由じゃ説明がつかない。ではなぜ? 難問だ。
「コンビニでおでんを買ったと考えてみてください」
森谷社長が言う。さっそく、コンビニでおでんを買った姿を思い浮かべてみる。
「手に持って運ぶと汁がこぼれやすいですよね。でも、ビニール袋に入れて運ぶとこぼれにくい。それと同じ原理なんです」
安定させようと、両手で抱えるように器を持ってゆるりと歩いたとしてもおでんの汁は波打つ。それがビニール袋に入れて、袋の紐の部分を持って歩くと、三角形の頂点のみ固定された状態になり、おでんの器は水平を保ちやすくなる、ということだ。
「カーブすれば車体は斜めになりますが、出前機の荷台は常に水平なんです。どうぞ触ってみてください」
荷台を横から押すと、フワッと抵抗なく左右に揺れた。いかつく見えるが、上部2カ所が留められているだけなのだ。揺れすぎ対策にスプリングが装着されているものの、蕎麦の入った巨大な袋をぶら下げているようなものである。また、前後にもするする動く工夫がなされている。海を漂うクラゲのように、出前機は徹底して揺れに逆らわない。
上下の揺れを受け持つのは大小の空気バネ3基。これがまた驚くほど敏感に振動を吸収してしまう。衝撃を感じると同時に自ら軽く伸び縮みすることで“被害”を防ぐのである。バイクのエア・サスペンションより先に開発されたという説もあるくらいの優れものなのだ。
凄い。まるで、人数をかけずに鉄壁のディフェンスを行なうサッカーチームではないか。出前機が出現するまでは、“外番(そとばん)”と呼ばれる出前持ち職人が自転車で蕎麦を届けていたのだから、業界を狂喜させる画期的な商品だったのではないですか、森谷社長!
「いや、当初はそうでもなかったと聞いています。なにしろ手で持って配達することが普通だった時代だし、専門のスタッフもいたわけですからね」
出前機が商品化されたのは昭和30年代前半のこと。考案者は都内の蕎麦屋店主。増え始めた車に、出前持ちの自転車が接触する事故が相次ぐ状況を改善するのが目的だった。ただ、出前に力を入れる店は外番を抱えているため、すぐには切り替えられない。出前機の導入はリストラにつながるからだ。高く積んだ蕎麦を片手で持ち、自転車で颯爽と動き回る出前持ちは、蕎麦屋の象徴でもあったのだ。
普及のきっかけは何だったのだろう。
「東京オリンピックで聖火を運ぶ際、途中で消えたら困るので、予備の聖火を出前機で運んだ。それが話題となって……ということになっていますが、実際は違うようです。車をかき分けるように走る蕎麦屋の出前の姿を目にした外国人観光客が、日本では何であんな危険な行為が許されるのかと訴えたことで、警察からの指導が入ったようですよ」
それ以前から自転車の片手運転は禁止されていたが、事情を鑑みて目こぼしされていたようだ。外からの指摘を受け、警察も動かざるを得なくなったということらしい。そこから一気に出前機が普及していくわけだ。
マルシンの創業は昭和40年。業界変革の最中に乗り込み、たちまちトップメーカーになった。昭和47年に開催された札幌オリンピックの聖火運搬では、マルシンの出前機が採用されている。
「ただ、ピークは短かったんです。昭和50年代に入ると、もう行き渡っちゃった」
森谷社長、苦笑い。そう。出前機、あまりにもよくできた製品だったのだ。めったなことで壊れない。それは買い替え需要がないことを意味するのである。
さらに外的要因も出前機の勢いを削いでいく。ファストフードやファミレス、コンビニの台頭である。出前そのものが先細っていくのだ。元気に町を走るオートバイの姿も減って、出前機は冬の時代に突入する。
しかし、汁をこぼさずにドアトゥドアで食べ物を運ぶという大発明を神は見捨てなかった。今世紀に入ると宅配ピザが広まり、追随するように宅配寿司が伸びを見せる。宅配ビジネスが隆盛を誇ることで、出前機は息を吹き返していく。大きなセカンドウェーブがやってきたのだ。
「いやもう、てんてこ舞いの日々でした。宅配寿司は出前機じゃないと運べないことがあるみたいで、シャリが転がってしまうようなんですね」
優れた発明は時代を超える。出前機が素晴らしいのは、企業の開発部ではなく、蕎麦屋の店主が考え出した点にある。必要は発明の母だったのだ。
町で出前機を見つけたら労いのまなざしを向けてほしい。雨にも風にも負けず、汁一滴もこぼさずに蕎麦を運び、出前という日本独自の食文化を守り続けてきた功労者なのだ。
出前機を背に颯爽と町を走る鯔背な姿を見て思う。久しぶりに出前でも取ってみるか、と。
(コラムニスト 北尾 トロ 文・北尾トロ 撮影・金子山)