第1回中等野球大会の準優勝は名誉ある輝く歴史となっているが…(秋田県)

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 第1回中等野球大会で秋田中(現秋田高)が準優勝している。当時は全国的にレベルがどうだということはあまりなかったのだろうが、その後、100年を経過しても、それに匹敵する成績はあげていない。全国で優勝するということはことのほか難しかったのである。

常にリードしてきた秋田高校

早稲田カラーの秋田商

 結局、秋田県の高校野球は第1回大会の記録が最高の結果ということになってしまっている。しかし、その伝統を維持して秋田が現在でも県のリーダーシップをとっているというのはさすがに名門校である。「あっぱれ」と評価していいだろう。

その秋田は県内で一番の進学校ということもあって、人気も高い。まさに高校野球ファンの好きな文武両道という形を絵に書いたような、地方の名門校ということがいえよう。

 この秋田の名実共にライバルとしてそれこそ戦前から競い合ってきたのが秋田商だ。ユニホームも純白に黒ゴシック文字で「AKITA」と慶応スタイルの秋田に対して秋田商は白にエンジと早稲田スタイルで「AKISHO」となっている。

 この両校の対戦は、秋田県の早慶戦とも言われる。球場は両校のどちらかに二分されたというくらいだ。言うならば、地場産業としての高校野球の原点でもあるのだ。同じような力の者同士が競い合うというのは、競技レベル向上の原則でもある。ことに、その土地一番の旧制中学系と商業系との試合というのはやはり注目となる。

 秋田県の場合は、その勢力地図が今日まで継続している。現在の全国的な高校野球の構図からすれば稀有に近いともいえる。

[page_break:秋田経法大付が明桜に校名変更後、09年に甲子園へ]秋田経法大付が明桜に校名変更後、09年に甲子園へ

こまちスタジアム の屋根はお米型

 その両校の対戦に割って入ってきたのが金足農だった。チームカラーが紫というのもいかにも秋田と秋田商の中間という感じがして面白い。新潟の新発田農と並んで、もっとも甲子園に近い農業高校という存在になっていた。その金足農が全国的にももっとも注目を浴びたのは、1984(昭和59)年の夏だった。

 エース水沢 博文投手を擁して広島商などを倒してベスト4に進出。準決勝では、桑田 真澄(2013年インタビュー)・清原 和博らのいたPL学園を相手に7回までリードして、あわや大番狂わせの期待もあったが、8回裏に桑田 真澄に逆転2ランを浴びて沈んだ。それでも、甲子園の満場のファンは、敗れた金足農の大健闘を称えた。そして、全国のファンに強烈に「秋田に金足農あり」ということを印象づけた。水沢をリードしていた長谷川 寿捕手はその後、青山学院大へ進み活躍。卒業後は本田技研でもプレーし、現在はHondaの監督を務めている。

 公立優位で進んできた秋田県で、私立としては秋田経法大附が気を吐いた。好投手を輩出して、投手力のチームで甲子園のファンに印象付けられた。07年に母体の大学がノースアジア大と改称したのを機に明桜と校名変更した。この新校名で09年に出場を果たして全国にアピールした。

 その後も県内では秋田商をメインに能代商(現能代松陽)、角館、大曲工などが出場を果たしている。また、21世紀枠代表としては大館鳳鳴も甲子園出場を果たした。東北地区では、唯一、公立校勢に大いに余地のある県となっているのも確かだ。そういう意味では、かつては秋田市立の校名で甲子園に出場して、その後県立に移管した秋田中央や能代、秋田南なども健闘している。

 ちなみに、15年秋季県大会のベスト4は秋田、能代、能代松陽、大館鳳鳴の4校で秋田が優勝。しかし、東北地区大会では能代勢2校も併せていずれも初戦で敗退している。

(文:手束 仁)