OASISとイギリスを2分していたブリットポップの旗手・BLUR

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CDが売れない時代と言われて久しいが、逆に90年代はCDがバカ売れしていた時代だった。
当時は今ほど趣味嗜好が細分化されておらず、「とりあえず、この一枚は誰もが持っている」という作品が確かに存在したのだ。

1994年には、英国バンド・BLURがリリースした『PARK LIFE』が売れに売れていた。音楽に造詣の深いダイノジ・大谷ノブ彦氏は、音楽雑誌「CROSSBEAT」に以下のような文章を寄稿している。
「19年前に上京したとき、渋谷のHMVで『パークライフ』がバカ売れしてた。本当に大げさではなく二人に一人はレジに持っていってたもん」(『ダイノジ大谷ノブ彦の俺のROCK LIFE!』より)

好調なスタートを切るも、未だ開花しない素養


デビュー前に行われたBLURインタビューにて、ヴォーカルのデーモン・アルバーンは「10年以内に僕らは世界一のバンドになるよ」と豪語し、実際、91年8月にリリースされたデビューアルバム『Leisure』は全英7位に到達。新人としては、上々の成績を収めている。
しかし、この作品は批評家から「マッドチェスターとシューゲイザーのいいとこ取り」と評され、未だ方向性を模索している段階だと言っていい。

そして、92年3月にBLURはシングル「Popscene」を発売。のちに世を席巻するブリットポップの発端となった曲とも言われているが、チャート上は全英32位の成績に留まった。

アメリカツアーで打ちのめされ、反動でイギリスに目覚める


92年の初め、BLURのマネージャーが4万ポンド(当時のレートで約880万円)を使い込み、更に6万ポンドの負債を残していたことが発覚。彼らは資金調達のため、44公演という過酷な日程のUSツアーをスタートさせた。

しかし、この時のアメリカといえばニルヴァーナが世界的ブレイクを果たしたばかり。BLURは現地の観客に全く受け入れられず、冷たい仕打ちに晒されている。バンド内の雰囲気は最悪で、メンバー間の殴り合いもしばしば。ライブの評判は下降していき、彼らは自暴自棄となる。

だが、これが糧となった。ツアーでの惨敗体験とグランジブームが要因となり、彼らの中にアメリカへの反骨精神が生まれたのだ。そして2ndアルバムの方向性は、徹底的な英国性の追求が貫かれることとなる。
「僕達、(ニルヴァーナの)『ネヴァーマインド』がリリースされた日にアメリカに到着したんだよ。まさにその日に。BLURは突如、完全に余りもの、要らないものになってしまった。あの疎外感、あれがブリットポップのビッグバンだった」(ベーシストのアレックス・ジェームスの発言)
「アメリカに呑み込まれそうになって、自分達なりのアイデンティティをみつけなきゃならなくなったんだよ」(デーモン・アルバーンの発言)
「アメリカから帰ってきてみたら、イギリスでも猫も杓子もニルヴァーナになってた」(ギタリストのグレアム・コクソンの発言)

しかし、あまりにトレンドとかけ離れたサウンドを志向するバンドの姿勢に、周囲は全く理解を示さず。
「フード(当時所属していたレーベル)の連中がスタジオに来て、あごをさすった。彼らは僕らの演奏をすべて聴き、首を横に振った。これだけの可能性を持つバンドがこれほど頑固にブリティッシュなレコードを作るのはばかげていると言った」(アレックス・ジェームス著『ブラー ブリット・ポップと100万ポンドのシャンパンの日々』より)

結果、93年5月に発表されたアルバム『Modern Life Is Rubbish』はデビューアルバムより劣る全英15位という成績に終わっている。
しかし本人らは内容に満足しており、デーモンは「BLURは『Popscene』から始まり、『Modern Life Is Rubbish』がファースト・アルバムってことになるんだ」と発言。イギリス至上主義を宣言したかのようなこの作品では、ビートルズ、デヴィッド・ボウイ、キンクス、ディアドロップ・エクスプローズ、セックス・ピストルズ、ジャム、フー、ピンク・フロイドといった偉大な英国アーティスト達の精神的遺産が受け継がれつつ、イギリスのモダン・ライフが歌われている。今では、BLURの最高傑作に挙げるファンも多い一作だ。
なお、リリース当時、このアルバムはメンバーの希望でアメリカでは発売されていなかった。

カート・コバーンの死去とともにライバルが出現


前年夏に着手し、遂に完成した3rdアルバムからの第1弾シングル「Girls And Boys」が94年3月に発売されるや、この曲は全英5位の大ヒットに。BLURに熱い注目が集まる中、世に放たれた3作目『PARK LIFE』は全英初登場1位を獲得! イギリス内だけで125万枚以上を売り上げる大ヒット作となった。
「すごく妙だったのは、一夜にしてインディー・バンドからメインストリーム・バンドに変わってしまったってこと。それも、こっちが違うことをやり始めたんじゃなく、メインストリームの方が変わって僕達に合わせてきたんだ」(ドラマーのデイヴ・ロウントゥリーの発言)

同年4月、音楽史に残る大事件が起きる。
「あらゆる音楽雑誌の表紙を二つの顔が独占していた。一人はデーモンであり、一人はカート・コバーンだった。その片方が、突如としてこの世を去った」(『ブラー ブリット・ポップと100万ポンドのシャンパンの日々』より)
その翌週、OASISが「Supersonic」でシングルデビューを果たす。

メディアが煽りに煽った「BLUR vs OASIS」


メディアが「ブリットポップ」という呼称を使い始めたのは、94年半ばから。BLURは英国で最も権威のある音楽賞「Brit Awards」で、最優秀アルバム、最優秀バンド、最優秀シングル、最優秀ビデオを受賞し4冠を達成。イギリスを制覇したかに思われたBLURだったが、94年後半よりOASISとの対立の構図を深めていった。特にOASIS側からの口撃は激しく、ノエル・ギャラガーはデーモンとアレックスに対し「エイズで死ねばいい」とまで発言する始末。

この舌戦に狂騒したメディアは「BLUR vs OASIS」を煽りに煽り、ファンのBLURに対する態度もエスカレート。
「あの頃は、イギリスのどこも歩けやしなかった。歩く度に人が窓を開けて『オアシス―!』とか怒鳴るんだぜ! 店に入れば店員がOASISかけるし、パブに行けばOASIS。もうどこに行っても僕はOASISのことを聞かなきゃいけない、みたいな状況だった」(デーモン)

構図としては、ロンドンの中産階級出身・BLURと地方の労働者階級出身・OASISによる対決……という様相か。
「中産階級って決めつけられるとゾッとしたよ。嬉しくなかったな。だって僕は私立の学校に行ったわけでもないし、財産もないし、うちは両親とも美術教師だぜ! あれはフェアじゃなかった」(デーモン)

とは言え、両バンドの音楽性や体質を冷静に比較すると、その性格はあまりに違う。
「彼ら(OASIS)のアルバムは飛ぶように売れ、音楽マスコミは二つのバンドを並べて比較し始めたが、僕は彼らについて何ら強烈な印象を持たなかった。シンガーはいい声をしていたが、音楽が白人的だった。彼らはBLURとは全く別ものだったが、彼らのほうが僕らについて言いたいことがたくさんあるようだった」(『ブラー ブリット・ポップと100万ポンドのシャンパンの日々』より)

両者のライバル合戦は95年8月、両バンドがシングルを同日発売した直接対決でピークを迎える。BLURからは「Country House」が、OASISからは「Roll With It」がリリースされたのだ。これは、意外にもそれまで防御型だったBLURが仕掛けた対決である。
「OASISが『Some Might Say』(95年4月のシングル)で1位を達成した後、リアムとパーティで偶然出会い、『俺らは1位〜』と挑発されてカチンときた」(デーモン)
何しろ、この時点でのBLURのシングル最高位は5位だったのだ。

直接対決を目前に控えた頃、音楽雑誌「NME」の1面には「British Heavyweight Championship」なる見出しが踊り、BBCでも特集が組まれ、「ビートルズvsローリング・ストーンズの再現」とマスコミは騒ぎ立てている。
結果、約274,000枚を売り上げた「Country House」がチャート1位に、約216,000枚を売り上げた「Roll with It」が2位にランクインし、この対決はBLURの勝利で幕を閉じた。……かと思われたが、BLURの4thアルバム『The Great Escape』はOASISのアルバム『(What's the Story) Morning Glory?』にセールスで劣り、OASISの同作はイギリス歴代アルバムセールスで3位(当時)を記録。この戦争は、OASISが勝利を収めている。

ブリットポップを捨て、アヴァンギャルドになっていくBLUR


95年に最高潮を迎えたブリットポップは長年の不況から脱し上向きとなっていく英国内の機運と相乗効果を起こし、音楽界にとどまらず国をあげての社会現象へと変貌していく。
このムーブメントを牽引していたのは、紛れもなくBLUR。しかし、4thアルバムを「行き過ぎ」と感じていたグレアムは、B面曲のレコーディング中にデーモンと衝突。その後はメンバー間で距離を取る期間が置かれ、休暇中にデーモンがグレアムのUSロウファイ/オルタナ/ハードコア趣味に理解と共感を示すようになる。

そうして完成した5thアルバム『BLUR』は、デーモンの「ブリットポップは死んだ」の台詞とともにリリースされた。剥き出しの生々しい音が響く内容は、まさにブリットポップとはかけ離れた音楽性。発売当初は「商業的自殺ではないか?」と揶揄された同作であったが、結果的に彼らにとって最大の世界的ヒット作となっている。特に、2ndシングル「Song2」は「WooHoo!」の咆哮がリスナーのハートをガッチリとキャッチ。BLURにとって鬼門であった全米では、ビルボードの「モダン・ロック・チャート」で最高6位にランクイン。あらゆるCM、番組BGM、テーマ曲として用いられ、彼らの国際的な名刺代わりともなった1曲である。

99年3月にリリースされた6th『13』では更に実験性が推し進められ、BLURが完全に別世界へ行ったことを一聴して察することができる。普遍性が持ち味であるOASISと音楽的実験に専念し始めたBLURを比較する風潮は既に消え去り、同じ土俵に乗ることはほとんどなくなる。

活動休止から再結成 そして、OASISのリーダーとの和解


かねてからのアルコール問題が深刻化していったグレアムは、他メンバーとの人間関係が悪化。2002年、遂に「グレアム脱退」の報が公となり、3人のメンバーで制作された『THINK TANK』が2003年4月にリリースされる。
そして、BLURは活動を休止。

グレアムは職人的なソロミュージシャンとして活動を開始。アレックスは田舎暮らしを始めてチーズ製造業に乗り出し、チーズ業界のアワードを獲得。デイヴは資格を取得して刑事弁護士に転向。
そしてデーモンは、2001年に結成したサイドプロジェクト「ゴリラズ」が大当たりする。イギリスは言うに及ばず、アメリカにおいてはBLURを遥かに凌ぐ大ブレイクを果たす。それに飽き足らず、デーモンはオペラなど舞台の音楽まで手掛けるように。国を代表する文化人へと成長した。OASISのノエル・ギャラガーは「奴は素晴らしい“芸術家”だ。俺とは違う」「ブリットポップからオペラなんて脱帽だよ。俺には無理だ」と、素直にデーモンを認める発言を残している。

そして2008年、遂にBLURが再結成。2012年には「ロンドン五輪閉会記念コンサート」でBLURがヘッドライナーを務め、2013年3月のチャリティ公演ではデーモン&グレアムとノエルが共演! BLURの名曲「Tender」をプレイしている。
遂には、2015年にはBLURの8thアルバム『The Magic Whip』がリリースされた。

現在の4人は各々が“ホーム”となる場所を保持しつつ、良きタイミングに適度なテンションでBLURの活動を謳歌しているようだ。
(寺西ジャジューカ)

※イメージ画像はamazonよりCROSSBEAT Special Edition ブラー (シンコー・ミュージックMOOK)