ビートたけしから長嶋茂雄へのラブレター『野球小僧の戦後史』

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清原和博、逮捕。その一報はフジテレビ「すぽると」冒頭での速報テロップで知った。

だが、その後に「すぽると」内で続報はなし。生放送なのに? そんなだから終わっちゃうんだよ……とやきもきしつつ、思ったのは、ビートたけしはこのニュースを何とコメントするのか、ということだった。

今でこそとんねるず・石橋貴明がいて、渡部建、ナイツ・塙などさまざまな「野球芸人」がいる。高校野球、プロ野球の開幕時には彼らが野球界を盛り上げる。だが、その第一号こそビートたけしだった。富田勝やアニマル・レスリーなどは、現役時代よりも「ビートたけしのスポーツ大将」での印象の方が強い。

昨年末、テレビ番組の対談で憧れの長嶋茂雄からサイン入りユニフォームをプレゼントされたビートたけしは、「俺んち、ちゃんとセコムしなきゃいけない」とジョークを飛ばしつつも、とにかく嬉しくて仕方がない、という笑顔を見せていた。野球小僧に戻った瞬間だった。

そんな永遠の野球小僧・ビートたけしが、野球を通して戦後ニッポンを振り返った一冊が『野球小僧の戦後史』(祥伝社)だ。


ビートたけしが野球で振り返る日本の戦後


本書が上梓されたのは昨年末。2015年は戦後70年の節目の年、ということもあり、「戦後」をキーワードにした番組や書籍が多かった。『タモリと戦後ニッポン』(近藤正高/講談社)などがその代表例だろう。

《そこでオイラにも、「戦後七十年の締め括りとして、日本の戦後史を、たけしさん流にまとめてくれませんか」とお鉢がまわってきた。(中略)団塊の世代って、自分の人生がほとんどそのまんま戦後の七十年に重なる。何だよ、じゃあ俺もガキのころから今まで、身のまわりに起きた出来事を思い出していけば、戦後史になるんじゃないの》(本書「はじめに」より)

ビートたけしは終戦から2年後の1947(昭和22)年1月18日生まれ。69歳になったばかりだ。いわゆる「団塊の世代」が1947年〜1949年だから、その先頭集団として走り続けてきたことになる。

そんな団塊の世代がもっとも熱中し、自身もガキの頃から夢中になったエンターテイメントこそが「野球」だった。

《というわけで思いついたのが、野球で振り返る日本の戦後。題して『野球小僧の戦後史』。どうだい、これで》

以降、少年時代の草野球から始まり、なぜ今、野球人気は衰退してしまったのかまで、「ヨイトマケと宅地ブーム」「学生運動」「高度経済成長」「漫才ブーム」「フライデー事件」なども絡めながら、自身の記憶とともに「戦後ニッポン論」を展開していく。

ビートたけしが語る「長嶋茂雄論」


「戦後ニッポン論」と書いてみたものの、実際にこの本で熱く展開されているのは「長嶋茂雄論」だ。

長嶋茂雄とビートたけし、といえば、長嶋からゴルフに誘われたにもかかわらず、ゴルフ場で会うや「たけしさんもゴルフですか?」と挨拶されたやり取りが有名だ。

本書ではこのエピソードについての前後譚はもちろん、投手・たけしvs.打者・長嶋、2013年の長嶋茂雄・国民栄誉賞にビートたけしの口添えが重要な役割を果たしていたことなど、場面場面における「私と長嶋茂雄」が描かれている。「長嶋茂雄のエラー=ジャグリングという伝統芸」など、たけしならではの考察も多い。

冒頭で、長嶋茂雄の前では“たけし少年”に戻っていたエピソードに触れたが、ビートたけしを構成する上でも、北野武を構成する上でも、長嶋茂雄がいかに重要だったかが見えてくる。

同様に、戦後ニッポンを構成する上でも、長嶋茂雄というスターが必要不可欠だったことを綴る。

《敗戦から高度経済成長に向かう時代、日本人同士が上を向くために用意されたエンターテイメントは良質なものだった。その中で生まれくべくして、やっぱり美空ひばりさんから石原裕次郎さん、高倉健さんというスターが生まれてきたんだ。エンターテイメントは時代がつくって、時代とリンクする(中略)いかにもスターが必要な時代にスターが出てきて、野球では長嶋さんという絶大なスターが現れた》

スターは、スターの重要性を知る。

ビートたけしが漫才を辞めずにすんだホームラン


《俺個人としては日本のプロ野球が大人気で全員がスターだった時代の、さらに飛び抜けた人なの》《今はAKB48の総選挙とかで人気投票をやっているけど、長嶋さんはダントツの一位であって、投票すらできない》などなど、まるでビートたけしから長嶋へのラブレターのように、熱い想いが続く。

そんな本書ではあるが、長嶋以外の野球人とのエピソードも多い。王貞治、落合博満、野茂英雄、松井秀喜、イチロー……名立たる選手たちにまつわる思い出が並ぶ中で、特に印象深いのが漫才をやめようと思ったビートたけしを思い止まらせた選手について。その選手の名は阿部淳一。一般的には無名の選手だ。

1978年の夏、漫才に行き詰まり、仕事をさぼって訪れた神宮球場で行われていた東東京大会決勝、早稲田実業対帝京戦。その試合で、4点リードされた7回に代打で登場し、逆転のきっかけとなる3ランホームランを放ったのが早稲田実業の一年生選手、阿部淳一だった。

《とにかくすごいホームランで、これが一年生かと思ったもの。ああ、これなら次の選抜はこの子が四番だなって、ずっと気にしてたんだけど、次の大会には出てこなかった。聞いたら、交通事故で亡くなっていたの。(中略)俺は阿部選手の、生命力を燃焼させたようなホームランを見て、漫才を続けようと思った》

稀代のスーパースターの心を動かしたのは、無名の高校球児だった。この一点にこそ、野球の奥深さと可能性が満ちているような気がしてならない。
(オグマナオト)