『坂の途中の家』角田光代/朝日新聞出版

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我が子を手にかける鬼のような母親、という物言い。
ベビーカー論争に代表される、公共マナーとしつけを巡る果てしない議論。
「イクメン」という言葉に見られる、ジェンダーの非対称性。

1冊の小説を読み始めてから本を閉じるまで、さまざまな言説が脳裏を掠めて消えていった。
角田光代『坂の途中の家』である。とても恐いサスペンスであると同時に、考えるための種を読者に植えつける、示唆に富んだ作品でもあった。これほどまでに読んでよかったと思わせる小説はない。性別や職業、年齢などの立場を問わず、多くの人に手にとってもらいたい。

平凡な主婦が平凡な主婦を裁く場に出る


構成は入り組んだものではなく、あらすじを簡単に書くことができる。
ある日、山咲里沙子の元に裁判所からの手紙が舞い込んだ。裁判員候補者として選ばれたというのだ。乳幼児の虐待死を巡るもので、都内に住む30代の女性が浴槽で8ヶ月になる長女を死に至らしめた事件であるという。現在の里沙子は専業主婦で、2歳になる娘の文香の育児に追われている。自分とさほど代わらない立場の人が裁かれる場にいるということに不安を覚えつつ、彼女は毎日裁判所に足を運び始める。

これだけ。あとは「公判一日目」「二日目」といった具合に裁判の状況が淡々と描かれていくだけだ。いや、それと同等の重みをもって里沙子の生活も描かれる。彼女の家はJR中央線沿線にあると思われるが、地方裁判所のある霞が関の前に夫の父母が住む浦和まで行き、文香を預けなければいけない。乗り換えが2回ある、と書かれているので、中央線から武蔵野線経由で京浜東北線に乗るか、新宿で埼京線に乗り換えるかしていると思われるが、毎日幼児を連れて行くには大変な道のりである。仮に吉祥寺〜浦和だとしても1時間弱だ。それを往復しなければならないのである(しかも帰りに『裁判で忙しくてろくな物も食べられないだろうから』と義理の母にお惣菜の詰まった重い荷物を持たされたりする)。このへんの描写には非常に現実味があり、読んでいるこちらまで疲れてくる。

里沙子は初め、「我が子を殺す親なんて」と先入観のある目で被告人を見ていたが、公判が進むにつれて心が揺れてくる。本書は法廷ミステリーとして優れているのはその点で、中立の人間が検察と弁護側の両方の言い分に耳を傾け、実際には何があったのかを自身で考えるという形になっている。証人喚問を聴いているうちに里沙子が「これはあくまで証言に過ぎず、実際に何があったのかは当人にしかわからないのだ」という意味のことを考える場面があり、印象に残った。虐待死のような痛ましい事件が起きると、それについての報道はどうしても一面的なものになる。そこで話が「作られている」可能性について、どうしても思いを馳せずにはいられなくなったのである。

育児について「わからない」と言うのは簡単だ


裁判という場が明らかにする、もしくは明らかにはできない真実や物の見方とは何かを読者に示す小説である。同時に重要なのは、里沙子の胸中に生じる変化を描いているという点だ。被告と彼女の間には共通点が多すぎる。妊娠したときにそれまでのキャリアを捨て、専業主婦になるという決断をしたこと、自身の親とは縁遠く、むしろ夫の実家と濃い付き合いをしなければならない状況であること、などなど。里沙子は出産後、母乳で我が子を育てないと悪い影響がある、という思いに取り憑かれ、精神の均衡を壊しかけたことがあった。被告人にも似たような経験があることが判り、他人事ではないという思いが彼女の中に芽生える。しかし裁判員の中に子育て中の専業主婦は他におらず、気持ちを共有してくれる人はいないのだ。そのために外に出すことができなくなった思考が、里沙子の中で渦を巻き、肥大し始める。

本書の最大の特徴は、実際に育児を経験したか否かで読み方が大きく異なることでではないか。ベビーカー論争などにも見られることだが、痛みや疲労を伴う思いは未経験者に共有されにくい。この小説を読みながら感じたのは「子育てとはそういうものだ」ということだった。この「そういうもの」という感覚には事態を矮小化しようという意図はない。自分の体験に照らし合わせ、いい面も悪い面も含めて「そんなものだった」という実感があるだけなのだ。しかし子育て経験のない人には「そういうもの」という呟きが別の意味で伝わる可能性がある。「そういうもの」に過ぎないのに大袈裟に騒ぎすぎだ、というように。その難しさを本書は浮き彫りにするのである。

「母親」「妻」の自明さを問う


ここまで書かずに来たが、里沙子が投げ込まれた状況は1つの問題提起につながっていく。彼女の中に、子育てという名目で家に縛りつけられた自分の境遇についての疑問が芽生えるのである。それは夫・陽一郎への眼差しを変化させることにもなる。実は裁判の帰趨以上にこの部分が刺激的だ。
角田光代は過去にも複数の小説で「母親」や「妻」という関係性で語られる立場の女性を描いている。映像化もされた誘拐小説『八日目の蝉』、子を持つ母親同士の諍いが悲劇を引き起こすさまを描いた『森に眠る魚』、横領の罪を犯した女性を主人公とする『紙の月』などだ。本書はその系譜に連なるものであり、かつ、それらを総括するような幅の広さ、考えさせられる深度を持つ小説だ。
本書を読むと、一連の作品で角田が描きたかったのは、「母親」「妻」といった役割ではなく、一般的な女性がそうした関係性に縛られずに生きていくことが難しいという、境遇そのものだったのだと痛感させられる。なぜ「母親」であり「妻」であることを求められる、あるいは強制されるのか。さらに言うならば、なぜそれは1つの性の側だけに求められるのか。そうした女性からの単純極まりない問いが、本書で起きる出来事の背後で響き続ける。

物語の後半、里沙子はある結論に辿り着く。それは「母親」であり「妻」であるはずの自分を揺るがす、衝撃的なものだった。一応ミステリーの範疇に属する小説でもあり、それについて触れるのは避けておく。実際に読んだ人に自分と同じように驚き、考えてもらいたいからだ。内容から女性読者が手に取ることが多いと思われる作品だが、ぜひ男性読者にも、いや男性読者にこそ読んでもらいたい。主人公たちから発せられる声にならない声、無音の叫び。それに気づかない鈍感さこそが真に裁かれるべき対象なのだから。
(杉江松恋)