転がっている死体を13歳の女の子がふんづける「でも生きなきゃいけない」漫画家おざわゆきに聞く
自身の父親の物語『凍りの掌 シベリア抑留記』につづき、おざわさんが取り掛かったのが母親の体験をベースにした『あとかたの街』(「BE・LOVE」連載中)。描かれるのは銃後の人々のていねいな生活とひたひたと迫る戦争。異色と言われる作品について話を聞いた。(part1はこちら)
--1巻は直接的な戦争のシーンがありません。ご飯や縫い物といった日常のシーンばかりなのはなぜでしょう?
おざわ 戦時中だからと言って当時の人々が常に緊張していたとは思いません。家族で囲む食卓があり、笑いもあったのではないでしょうか。食べ物の話が多いのは、配給制の時代ではちょっとしたものでも食べられるとすごくうれしかったでしょうし、主人公のあい達が幸せそうな顔をしてくれたら救いがあるのではと思って。私自身が食べることが好きというのもあるんですけどね(笑)。
--ふかふかの卵焼きに色めき立つ三姉妹はとても可愛らしかったです! 見ていてお腹が空きました(笑)。食べ物のトーンはおざわさんがやっているそうですね。
おざわ 「そこは私がやるからとっておいて!」とアシスタントさんにお願いしてあります(笑)。
--衣服にまつわるエピソードも多いですよね。2巻の表紙は戦闘機柄の着物を着た女性が描かれています。おざわさんも今日お着物ですが、お好きなのですか?
おざわ 好きですね。最近では家でも着物を着て漫画を描いています。
--すごいですね!
おざわ ストレス解消なんですよ。物語としては、差を描きたかったというのがあります。舞台となった昭和19年は衣料品総合切符制により、服や糸を買うことも自由にはできませんでした。各家庭割り振られた点数の中でやりくりしなければならなかったので、手持ちの帯や着物を仕立て直して服をつくっていたそうです。女学校に行ける裕福な家の子は華やかな柄で生地も正絹、そうでない家の子は綿でかすりといった風に防空頭巾の柄を描き分けています。こういった日常を描きながら、それらがだんだんと戦争に侵されていく変化を描こうと思っていました。
--『あとかたの街』を読んだ時、音の表現の多彩さに驚きました。あいちゃんがいた鋲版(びょうばん)工場の班長が出征する時の音が、糸が絡まったようなタッチの文字で描かれていたりして。文字のビジュアルがその場の落ち着かない雰囲気をあらわしているのだ! と。
おざわ オノマトペで表現する楽しみを竹宮惠子先生の本で拝見して、試しに色々やってみたらとても好評だったんですよ。音だけを見て◯◯っぽいと感じてもらえたら面白いですよね。
--難しかった音はありますか?
おざわ サイレンですね。何パターンも描いているのですが、サイレンが持つ声音というか、音質を絵で表現するのはとても難しかったです。あまりうまくいかなかったな……と今でも思っています。
--ビジュアル的な面白さもさることながら、音を形容する言葉も印象的です。焼夷弾が降ってくる様子を「雨の音」としたのは、おざわさんが考えたのですか?
おざわ あれは証言として聞いた言葉をお借りしています。実際に空襲に遭ったことがない私達が、爆弾が落ちてくる音を表現するとしたら、ヒュ〜だと思うんです。ザアアアという音なんて想像もできません。爆弾が爆ぜる時の「豆を炒ったような音」というのも同様で、あれはそこにいた人だけが表現できる生の音なんです。
--3巻からは空襲の標的が軍事施設から市街地にうつり、本格的な戦争に突入していきます。あいちゃんが見たB-29はずいぶん大きいですよね。
おざわ そうですね。あれはただのB-29ではなくて、“あいちゃんが見たB-29”なんです。実際は両翼で30メートルあるものを資料通り忠実に描くのではなく、その場にいた人がどう感じて、どう見えたのかという当時の感覚を優先しています。『あとかたの街』は記録を描いた物語ではありません。事実をただ描き連ねるだけなら証言集で十分です。記憶にある感覚を写し取ることで、五感と感情に訴えかけたいと思っています。
--日常を描き続けていた『あとかたの街』で、友達の死は1つ大きなターニングポイントとなったと感じました。
おざわ 本格的な空襲はまだ先だったので死をどう描くかについて考えました。畳の上に寝かされて布団がかけられている友達の遺体。頭があるはずのところには不自然な凹み。手足があるはずのところに何もなくって、明らかに小さい。何かがおかしいということに一瞬で気がつく怖さってあると思うんです。
--『凍りの掌』でも、病人に群がっていたシラミが、宿主が死んだ瞬間ザザザザザ…と移動するシーンがありましたね。気持ち悪さとともに、突きつけられた死に鳥肌がたちました。ちなみに、描けなかったことや、あえて描かなかったことはありますか?
おざわ そうですね……描けなかったわけではないのですが、ショッキングな表現は意識的に抑えたというのはあります。昭和20年3月19日の名古屋大空襲をメインにした『あとかたの街』の4巻では、道端に炭化した死体が転がっていて、それをあいが踏んでしまいます。死体をホラーチックに描こうと思えばいくらでも描けますが、そういったものがそこらじゅうにあったという状況を描くことのほうが作品のテーマとしては大切かなと思いました。
--防空壕で蒸し焼きになった人々の死体も静かな怖さがありました。
おざわ 母は一瞬見たそうですが、すごく特徴のある死体だったそうです。死んでいるのに全身ピンク色できれいだったと…。焼死体の中にそういう死体がごろごろしているなんてどう考えても異様です。けれど、それが現実だったんです。
--4巻は色んなことが起きてとても目まぐるしい巻です。執筆中、印象深かったことはありますか?
おざわ とにかくずっとつらかったです。この巻で一家は家を焼かれ、あいは大切な人の死に直面します。私には家を焼かれた経験がありません。どんな感覚なのだろうと彼女の気持ちになって描いていたら、どんどんどんどん気持ちが入っていってしまって……。最終的には、ただただ「嫌だ、燃えないで」と思うのでは……という考えに辿り着きました。また、あいだけでなくお母さんの気持ちも考えましたね。彼女にとって、家はお父さんが建ててくれて自分に任されたもの。そして家族みんなが帰ってくる大切な場所です。それを守れなかった。ショックは計り知れません。
--強く気丈なお母さんが取り乱し、「お父さん…」と涙する姿は胸に迫ります。一方、あいちゃんは普段から喜怒哀楽の感情がストレートに出るタイプですが、大切な人を失った回の扉絵は形容しがたい顔をしています。
おざわ この回は悲しみの回なのですが、ただ泣いているだけではダメだと思いました。火の海になった街から今すぐ逃げなきゃいけないという差し迫った状況で、諦めなければならないことや、受け入れなければならない現実にあいは向き合います。現実を消化しなきゃいけない、でも、できない。「つらい」「苦しい」「どうしたらいいかわからない」「でも生きなきゃいけない」という様々な感情の中でもがいているんです。
part3では『凍りの掌』『あとかたの街』制作の舞台裏と、戦争を知らない世代のこれからについてうかがいます。
『あとかたの街』は「BE・LOVE」にて連載中(試し読み
細部にこだわった日常の感覚
--1巻は直接的な戦争のシーンがありません。ご飯や縫い物といった日常のシーンばかりなのはなぜでしょう?
おざわ 戦時中だからと言って当時の人々が常に緊張していたとは思いません。家族で囲む食卓があり、笑いもあったのではないでしょうか。食べ物の話が多いのは、配給制の時代ではちょっとしたものでも食べられるとすごくうれしかったでしょうし、主人公のあい達が幸せそうな顔をしてくれたら救いがあるのではと思って。私自身が食べることが好きというのもあるんですけどね(笑)。
--ふかふかの卵焼きに色めき立つ三姉妹はとても可愛らしかったです! 見ていてお腹が空きました(笑)。食べ物のトーンはおざわさんがやっているそうですね。
おざわ 「そこは私がやるからとっておいて!」とアシスタントさんにお願いしてあります(笑)。
--衣服にまつわるエピソードも多いですよね。2巻の表紙は戦闘機柄の着物を着た女性が描かれています。おざわさんも今日お着物ですが、お好きなのですか?
おざわ 好きですね。最近では家でも着物を着て漫画を描いています。
--すごいですね!
おざわ ストレス解消なんですよ。物語としては、差を描きたかったというのがあります。舞台となった昭和19年は衣料品総合切符制により、服や糸を買うことも自由にはできませんでした。各家庭割り振られた点数の中でやりくりしなければならなかったので、手持ちの帯や着物を仕立て直して服をつくっていたそうです。女学校に行ける裕福な家の子は華やかな柄で生地も正絹、そうでない家の子は綿でかすりといった風に防空頭巾の柄を描き分けています。こういった日常を描きながら、それらがだんだんと戦争に侵されていく変化を描こうと思っていました。
感覚を写し取るとは
--『あとかたの街』を読んだ時、音の表現の多彩さに驚きました。あいちゃんがいた鋲版(びょうばん)工場の班長が出征する時の音が、糸が絡まったようなタッチの文字で描かれていたりして。文字のビジュアルがその場の落ち着かない雰囲気をあらわしているのだ! と。
おざわ オノマトペで表現する楽しみを竹宮惠子先生の本で拝見して、試しに色々やってみたらとても好評だったんですよ。音だけを見て◯◯っぽいと感じてもらえたら面白いですよね。
--難しかった音はありますか?
おざわ サイレンですね。何パターンも描いているのですが、サイレンが持つ声音というか、音質を絵で表現するのはとても難しかったです。あまりうまくいかなかったな……と今でも思っています。
--ビジュアル的な面白さもさることながら、音を形容する言葉も印象的です。焼夷弾が降ってくる様子を「雨の音」としたのは、おざわさんが考えたのですか?
おざわ あれは証言として聞いた言葉をお借りしています。実際に空襲に遭ったことがない私達が、爆弾が落ちてくる音を表現するとしたら、ヒュ〜だと思うんです。ザアアアという音なんて想像もできません。爆弾が爆ぜる時の「豆を炒ったような音」というのも同様で、あれはそこにいた人だけが表現できる生の音なんです。
--3巻からは空襲の標的が軍事施設から市街地にうつり、本格的な戦争に突入していきます。あいちゃんが見たB-29はずいぶん大きいですよね。
おざわ そうですね。あれはただのB-29ではなくて、“あいちゃんが見たB-29”なんです。実際は両翼で30メートルあるものを資料通り忠実に描くのではなく、その場にいた人がどう感じて、どう見えたのかという当時の感覚を優先しています。『あとかたの街』は記録を描いた物語ではありません。事実をただ描き連ねるだけなら証言集で十分です。記憶にある感覚を写し取ることで、五感と感情に訴えかけたいと思っています。
激しい表現≠悲惨さ
--日常を描き続けていた『あとかたの街』で、友達の死は1つ大きなターニングポイントとなったと感じました。
おざわ 本格的な空襲はまだ先だったので死をどう描くかについて考えました。畳の上に寝かされて布団がかけられている友達の遺体。頭があるはずのところには不自然な凹み。手足があるはずのところに何もなくって、明らかに小さい。何かがおかしいということに一瞬で気がつく怖さってあると思うんです。
--『凍りの掌』でも、病人に群がっていたシラミが、宿主が死んだ瞬間ザザザザザ…と移動するシーンがありましたね。気持ち悪さとともに、突きつけられた死に鳥肌がたちました。ちなみに、描けなかったことや、あえて描かなかったことはありますか?
おざわ そうですね……描けなかったわけではないのですが、ショッキングな表現は意識的に抑えたというのはあります。昭和20年3月19日の名古屋大空襲をメインにした『あとかたの街』の4巻では、道端に炭化した死体が転がっていて、それをあいが踏んでしまいます。死体をホラーチックに描こうと思えばいくらでも描けますが、そういったものがそこらじゅうにあったという状況を描くことのほうが作品のテーマとしては大切かなと思いました。
--防空壕で蒸し焼きになった人々の死体も静かな怖さがありました。
おざわ 母は一瞬見たそうですが、すごく特徴のある死体だったそうです。死んでいるのに全身ピンク色できれいだったと…。焼死体の中にそういう死体がごろごろしているなんてどう考えても異様です。けれど、それが現実だったんです。
--4巻は色んなことが起きてとても目まぐるしい巻です。執筆中、印象深かったことはありますか?
おざわ とにかくずっとつらかったです。この巻で一家は家を焼かれ、あいは大切な人の死に直面します。私には家を焼かれた経験がありません。どんな感覚なのだろうと彼女の気持ちになって描いていたら、どんどんどんどん気持ちが入っていってしまって……。最終的には、ただただ「嫌だ、燃えないで」と思うのでは……という考えに辿り着きました。また、あいだけでなくお母さんの気持ちも考えましたね。彼女にとって、家はお父さんが建ててくれて自分に任されたもの。そして家族みんなが帰ってくる大切な場所です。それを守れなかった。ショックは計り知れません。
--強く気丈なお母さんが取り乱し、「お父さん…」と涙する姿は胸に迫ります。一方、あいちゃんは普段から喜怒哀楽の感情がストレートに出るタイプですが、大切な人を失った回の扉絵は形容しがたい顔をしています。
おざわ この回は悲しみの回なのですが、ただ泣いているだけではダメだと思いました。火の海になった街から今すぐ逃げなきゃいけないという差し迫った状況で、諦めなければならないことや、受け入れなければならない現実にあいは向き合います。現実を消化しなきゃいけない、でも、できない。「つらい」「苦しい」「どうしたらいいかわからない」「でも生きなきゃいけない」という様々な感情の中でもがいているんです。
part3では『凍りの掌』『あとかたの街』制作の舞台裏と、戦争を知らない世代のこれからについてうかがいます。
『あとかたの街』は「BE・LOVE」にて連載中(試し読み