正論とはクソリプである「ねえ、私の話聞いてる?」と言われない方法
人の相談ごとを聞くのが得意ではない。
ついつい「クソバイス」((c)犬山紙子さん)をしてしまう。
どうやらこう思っているのは僕だけではないらしい。多くの人がひそかに気にしているみたいだ。
「クソバイス」に近い英語はmansplainingだろう。man(男)とexplain(説明する)を合わせた造語だ。
この語を造った人・使う人は、「教えたがり男」からよほどピント外れの助言(という体裁のマウンティング)をさんざんされてきたと思われる。この単語は、籠もりに籠もった恨みの深淵を覗かせる。
男性憎悪(ミサンドリー)的なれっきとした差別用語だと思うが、僕個人のことを言っていると思って、この語はありがたくいただきました。
とはいえクソバイスは、男の特権ってわけでもないらしい。
先週行った飲み会では、「正論のどこが悪いの?」と問うた女子2名が男子に
「正論を聞きたかったらYahoo!知恵袋か発言小町に訊くだろうが。なんのために人間に相談してると思ってんだ」
「このクソリプ女」
と爽やかに罵られていた。なんてひどいことを言うんだ!
今後は正論のことを「クソリプ」と呼ぶことが、その席で急遽閣議決定された。
正論はクソリプの一種である。
言われた側(元ツイートの発信者)はたいてい、そのくらいの正論は自問自答済みのうえで相談ごと・愚痴を言っている(元ツイートを投稿している)。
だから、正論というクソリプをつけられると、
「お前が言ってることくらい検討済みなんだよ、そういう話じゃないんだよ」
と思ってしまう。
こんな世のなかだから、阿川佐和子さんの『聞く力 心をひらく35のヒント』、『叱られる力 聞く力2』が売れたりする。
1巻目は僕も読んだ。阿川さんが「聴ける人」だってことはわかったけど、話を聴くコツはとくに書いてなかった。
先述の飲み会の前日に、カウンセラー岩松正史(まさふみ)氏の著書『「ねえ、私の話聞いてる?」と言われない「聴く力」の強化書 あなたを聞き上手にする「傾聴力スイッチ」のつくりかた』(自由国民社)を読んだ。
聴くということがどういうことか、そこにバッチリ書いてあった。
本書は僕のような一般人向けの本として読める。
著者がカウンセラーなので、もちろん、カウンセリングや臨床心理学を勉強中の、つまり「傾聴」を修行中の人も読者として想定されている。
となると、人の話を聞くということを、相手を助けるためのものとついつい思ってしまうが、著者は、
〈「傾聴」は、あなたが楽になるために、いいとこ取りして使えるもの〉
と言う(以下引用中の太字は原文ママ、下線は原文では傍点)。
僕も、自分が苦しいのは人の話を聴くのが下手だからだと思っている。
クソバイス問題をクリアにするコツは、根本的な発想の転換を要する。
本書の提案はかなりの荒療治だ。
相手の話のうち、頭のなかでイメージ化できる情報を、著者は〈事柄〉と呼ぶ。
〈「いつ、どこで、だれが、何を、なぜ、だれに、どうやって、いくらで、どのくらい」という6W3H(when, where, who, what, why, whom, how, how much, how many)、いわゆる状況や事情のことです〉
いっぽう、そうやってイメージできない部分が、話者の〈気持ち〉だという。
そして、傾聴とは〈事柄〉ではなく〈気持ち〉のほうをわかろうとするということだ、と述べるのだ。
〈既婚の女性が「昨日お母さんが家に来たんだけれど」と言いました。
それを聞いた瞬間に、「ちょっとまって。それはあなたのお母さん? それともご主人のお母さん?」という具合に、わからない事柄の穴埋めをして事情がわかると「わかった」と思います。
でも話している人はどうでしょう。
ここで「お母さん」が義理の母か、それとも本当の母かを知ってもらったところで、嬉しくなるでしょうか。
「事柄がわかる」とは、事情を知ったというだけのことで、「気持ち」がわかるのとは違います〉
これは新鮮だった。
この話を飲み会でクソリプ女たちにしたら、彼女たちも僕と同じように驚いていた。
僕も彼女たちもいままで、相手の話をちゃんとわかろう、と思って(つまり、よかれと思って)、
「それは実家のお母さん? それとも旦那さんのお母さん?」
みたいな質問、必ずしてた。
しかも速攻で話の腰を折って。
あまつさえ
「不明瞭な話しかたしやがって。手間のかかる奴だ」
と3分ギレ、ときには半ギレな感じでな!
だって、そこがわからないと叙述トリックみたいなことになっちゃうじゃん。
ところが、それが「ちゃんと聴く」にならない、どころか正反対になるかもしれない、ということなのだ。
〈事柄ではなく
その事柄について感じている気持ちをわかってほしくて話しているのですから、
途中で事柄が見えないからといって、途中で話をさえぎって質問してはいけません〉
偶然だが、飲み会の翌々日に池見陽(あきら)の『心のメッセージを聴く 実感が語る心理学』を読んでたら、こんな箇所があった。
心理学のワークショップで、ある男性が上司との関係の悩みを言語化するときに、リスナー(聴き手役)は、
〈一般論を話したり、慰めたり、世間的なアドバイスをしたりしない。ただ、〔…〕男が実感から逸れるようなとき、逸れないように見守る〔…〕。
上司は何歳なのか、どういう立場の人なのか、男性なのか女性なのか、そんな基礎知識でさえも、この場合は不要であった。
そういうことを質問すると、実感から遠ざかってしまう恐れがある〉(引用者の責任で改行を加えた)
また新鮮だった。またこれか!
驚いたはずみで、まったく関係ない初期仏典の、南伝中部経典63「摩羅迦小経」にある「毒矢の譬え」まで思い出してしまった。
このお経は増谷文雄編訳『阿含経典』第3巻(ちくま学芸文庫)などで読める。
マールンクヤプッタ(摩羅迦子)が
「世界は有限か無限か……うむむ、答えが出ない」
などと哲学的に悩んでいた。これにたいしてゴータマ・ブッダ(釈尊)はこう言った──
毒矢を射られたときに、射手の身分や所属、弓矢の材質を気にしていたら死んでしまう、まずは傷の手当が先だろう。あなたもそんなことを考えていたら、なにも修行しないまま死んでしまうんじゃないかな?
この譬えはそもそも、のちにカントが『純粋理性批判』で、yesともnoとも答えられる、あるいはyesでもnoでもない二律背反(アンチノミー)として挙げたようなタイプの問いを、紀元前5世紀のインドの哲学オタクも悩んでいた、という話。
だから、ここで引き合いに出すのは、はっきり言って的はずれかもしれない。矢だけに。
でも、どうだろう。
人の悩みごとを訊いているときに、その話のなかに登場する〈お母さん〉が実母か姑か、〈上司〉が男か女かといった問題は、当人がわざわざ言わないかぎりは、当人の心の痛み・実感(矢の毒)に比べたら「世界は有限か無限か」くらいに無縁な話なのだ!
と考えてみる。
いったんこう考えると、よかれと思ってクソバイスしたくなってしまう気持ちを思い切ることができそうだ。
この記事につくクソリプを予想するとしたら、
「そうは言っても商談とか賃貸契約のときは〈事柄〉も大事だと思うんだが」
「この記事自体がクソバイスwww」
とかいう感じでしょうか。
ほかにもこの本で感心したのは、聴き手が話者に共感するということについて、わかりやすく解いてくれていたこと。
共感という語を使うと、ときどき話がかみ合わなくなる。
共感というのはどうやらバズワードらしい。それだけ人は共感されたいと思っているのだ。
よくweb 上の読書感想文やAmazon「カスタマーレビュー」で、
「主人公(あるいは著者)に1ミリも共感できなかったので★ひとつ」
みたいなことを書いている人がいる。
僕はそういうのを見るたびに、
「共感共感うっせーよ。お前は一生本の帯だけ読んでろ!」
と4分ギレあるいは6分ギレの勢いで毒づいていた。
ところが、最初の共感信者の人も、それに反撥してたアンチ共感信者の僕も、共感と同感とをうまく区別していなかったらしい。
世間では同感(同意、賛成)のことを共感と言ってしまっている、と『「聴く力」の強化書』は言う。
少年犯罪者の面談で、少年が、
「あんなことされたらふつう殺すっしょ」
と言ったとして、カウンセラーは
「だね、当然殺すよね」
と少年に同意するわけがない。
「そうか、もう我慢できなかったんだね、いまやるしかないと思っちゃったんだね」
と認める。受け止める。それが共感だというのだ。これもわかりやすかった。
本書は本文240頁が全4章26節でできている。
そのなかの、第3章第5節だけが52頁(本文全体の約22パーセント)とバランスを崩して長大である。
その節は「自分と自分の関係をよくする」という節だ。
そこで書かれていたことを詳しく書く余裕はないが、つまりは先述の、
〈「傾聴」は、あなたが楽になるために、いいとこ取りして使えるもの〉
と密接に関係している。
別の節ではこうも書いている。
〈あなたの人格を否定するほど執拗に怒る人がいるとしたら、その人自身が何か自分と自分との関係の悪さを抱えているのでしょう。
そしてもしかしたら、自分と自分との関係がよくないのは怒っているその人だけでなく、あなた自身にも当てはまるかもしれません〉
また、家族や恋人など、親しい関係にあるほど、話す側も聴く側も相手への要求度(甘えともいう)が高くなって、感情的になってしまう。
〈「親子だから〔…〕わかってもらいたい」という思いが強すぎると、それが叶わなかった時はかえって感情的になります〉
〈私も家族の話は聴きにくいです〉
プロのカウンセラーでもそうなのか……。
〈実際のところ家族の話を聴くことは、人によってはエベレスト登頂と同じくらい難易度が高いのではないでしょうか〉
そこまでなのか……。
しかし著者は励ます。
〈新しいことに挑戦する過程では、型にはまったり失敗して恥ずかしい思いをすることがあるでしょう。そこを乗り越えてはじめて成長するわけです。
チャレンジして失敗した人に指を差して「できていない」と指摘するのは醜いことです〉
コミュニケーションのなかで、自他の感情を重視しなければならない場面は、思ったより多い。
事柄と感情、同感と共感をごっちゃにしないように気をつけることで、いつかはクソバイスをしないようになろうな俺。
(千野帽子)
ついつい「クソバイス」((c)犬山紙子さん)をしてしまう。
どうやらこう思っているのは僕だけではないらしい。多くの人がひそかに気にしているみたいだ。
クソバイスは男の特権ではない
「クソバイス」に近い英語はmansplainingだろう。man(男)とexplain(説明する)を合わせた造語だ。
この語を造った人・使う人は、「教えたがり男」からよほどピント外れの助言(という体裁のマウンティング)をさんざんされてきたと思われる。この単語は、籠もりに籠もった恨みの深淵を覗かせる。
男性憎悪(ミサンドリー)的なれっきとした差別用語だと思うが、僕個人のことを言っていると思って、この語はありがたくいただきました。
先週行った飲み会では、「正論のどこが悪いの?」と問うた女子2名が男子に
「正論を聞きたかったらYahoo!知恵袋か発言小町に訊くだろうが。なんのために人間に相談してると思ってんだ」
「このクソリプ女」
と爽やかに罵られていた。なんてひどいことを言うんだ!
今後は正論のことを「クソリプ」と呼ぶことが、その席で急遽閣議決定された。
正論はクソリプの一種である。
言われた側(元ツイートの発信者)はたいてい、そのくらいの正論は自問自答済みのうえで相談ごと・愚痴を言っている(元ツイートを投稿している)。
だから、正論というクソリプをつけられると、
「お前が言ってることくらい検討済みなんだよ、そういう話じゃないんだよ」
と思ってしまう。
話が聴けないことを、みんな気にしてる
こんな世のなかだから、阿川佐和子さんの『聞く力 心をひらく35のヒント』、『叱られる力 聞く力2』が売れたりする。
1巻目は僕も読んだ。阿川さんが「聴ける人」だってことはわかったけど、話を聴くコツはとくに書いてなかった。
先述の飲み会の前日に、カウンセラー岩松正史(まさふみ)氏の著書『「ねえ、私の話聞いてる?」と言われない「聴く力」の強化書 あなたを聞き上手にする「傾聴力スイッチ」のつくりかた』(自由国民社)を読んだ。
聴くということがどういうことか、そこにバッチリ書いてあった。
自分がラクになるために、人の話を聴けるようになる
本書は僕のような一般人向けの本として読める。
著者がカウンセラーなので、もちろん、カウンセリングや臨床心理学を勉強中の、つまり「傾聴」を修行中の人も読者として想定されている。
となると、人の話を聞くということを、相手を助けるためのものとついつい思ってしまうが、著者は、
〈「傾聴」は、あなたが楽になるために、いいとこ取りして使えるもの〉
と言う(以下引用中の太字は原文ママ、下線は原文では傍点)。
僕も、自分が苦しいのは人の話を聴くのが下手だからだと思っている。
事柄と気持ちを分離せよ!
クソバイス問題をクリアにするコツは、根本的な発想の転換を要する。
本書の提案はかなりの荒療治だ。
相手の話のうち、頭のなかでイメージ化できる情報を、著者は〈事柄〉と呼ぶ。
〈「いつ、どこで、だれが、何を、なぜ、だれに、どうやって、いくらで、どのくらい」という6W3H(when, where, who, what, why, whom, how, how much, how many)、いわゆる状況や事情のことです〉
いっぽう、そうやってイメージできない部分が、話者の〈気持ち〉だという。
そして、傾聴とは〈事柄〉ではなく〈気持ち〉のほうをわかろうとするということだ、と述べるのだ。
「事柄」を急いでクリアにしようとするな
〈既婚の女性が「昨日お母さんが家に来たんだけれど」と言いました。
それを聞いた瞬間に、「ちょっとまって。それはあなたのお母さん? それともご主人のお母さん?」という具合に、わからない事柄の穴埋めをして事情がわかると「わかった」と思います。
でも話している人はどうでしょう。
ここで「お母さん」が義理の母か、それとも本当の母かを知ってもらったところで、嬉しくなるでしょうか。
「事柄がわかる」とは、事情を知ったというだけのことで、「気持ち」がわかるのとは違います〉
これは新鮮だった。
この話を飲み会でクソリプ女たちにしたら、彼女たちも僕と同じように驚いていた。
僕も彼女たちもいままで、相手の話をちゃんとわかろう、と思って(つまり、よかれと思って)、
「それは実家のお母さん? それとも旦那さんのお母さん?」
みたいな質問、必ずしてた。
しかも速攻で話の腰を折って。
あまつさえ
「不明瞭な話しかたしやがって。手間のかかる奴だ」
と3分ギレ、ときには半ギレな感じでな!
だって、そこがわからないと叙述トリックみたいなことになっちゃうじゃん。
ところが、それが「ちゃんと聴く」にならない、どころか正反対になるかもしれない、ということなのだ。
〈事柄ではなく
その事柄について感じている気持ちをわかってほしくて話しているのですから、
途中で事柄が見えないからといって、途中で話をさえぎって質問してはいけません〉
なにも修行しないまま死んでしまう
偶然だが、飲み会の翌々日に池見陽(あきら)の『心のメッセージを聴く 実感が語る心理学』を読んでたら、こんな箇所があった。
心理学のワークショップで、ある男性が上司との関係の悩みを言語化するときに、リスナー(聴き手役)は、
〈一般論を話したり、慰めたり、世間的なアドバイスをしたりしない。ただ、〔…〕男が実感から逸れるようなとき、逸れないように見守る〔…〕。
上司は何歳なのか、どういう立場の人なのか、男性なのか女性なのか、そんな基礎知識でさえも、この場合は不要であった。
そういうことを質問すると、実感から遠ざかってしまう恐れがある〉(引用者の責任で改行を加えた)
また新鮮だった。またこれか!
驚いたはずみで、まったく関係ない初期仏典の、南伝中部経典63「摩羅迦小経」にある「毒矢の譬え」まで思い出してしまった。
このお経は増谷文雄編訳『阿含経典』第3巻(ちくま学芸文庫)などで読める。
マールンクヤプッタ(摩羅迦子)が
「世界は有限か無限か……うむむ、答えが出ない」
などと哲学的に悩んでいた。これにたいしてゴータマ・ブッダ(釈尊)はこう言った──
毒矢を射られたときに、射手の身分や所属、弓矢の材質を気にしていたら死んでしまう、まずは傷の手当が先だろう。あなたもそんなことを考えていたら、なにも修行しないまま死んでしまうんじゃないかな?
この譬えはそもそも、のちにカントが『純粋理性批判』で、yesともnoとも答えられる、あるいはyesでもnoでもない二律背反(アンチノミー)として挙げたようなタイプの問いを、紀元前5世紀のインドの哲学オタクも悩んでいた、という話。
だから、ここで引き合いに出すのは、はっきり言って的はずれかもしれない。矢だけに。
でも、どうだろう。
人の悩みごとを訊いているときに、その話のなかに登場する〈お母さん〉が実母か姑か、〈上司〉が男か女かといった問題は、当人がわざわざ言わないかぎりは、当人の心の痛み・実感(矢の毒)に比べたら「世界は有限か無限か」くらいに無縁な話なのだ!
と考えてみる。
いったんこう考えると、よかれと思ってクソバイスしたくなってしまう気持ちを思い切ることができそうだ。
この記事につくクソリプを予想するとしたら、
「そうは言っても商談とか賃貸契約のときは〈事柄〉も大事だと思うんだが」
「この記事自体がクソバイスwww」
とかいう感じでしょうか。
共感と同感は違う!
ほかにもこの本で感心したのは、聴き手が話者に共感するということについて、わかりやすく解いてくれていたこと。
共感という語を使うと、ときどき話がかみ合わなくなる。
共感というのはどうやらバズワードらしい。それだけ人は共感されたいと思っているのだ。
よくweb 上の読書感想文やAmazon「カスタマーレビュー」で、
「主人公(あるいは著者)に1ミリも共感できなかったので★ひとつ」
みたいなことを書いている人がいる。
僕はそういうのを見るたびに、
「共感共感うっせーよ。お前は一生本の帯だけ読んでろ!」
と4分ギレあるいは6分ギレの勢いで毒づいていた。
ところが、最初の共感信者の人も、それに反撥してたアンチ共感信者の僕も、共感と同感とをうまく区別していなかったらしい。
世間では同感(同意、賛成)のことを共感と言ってしまっている、と『「聴く力」の強化書』は言う。
少年犯罪者の面談で、少年が、
「あんなことされたらふつう殺すっしょ」
と言ったとして、カウンセラーは
「だね、当然殺すよね」
と少年に同意するわけがない。
「そうか、もう我慢できなかったんだね、いまやるしかないと思っちゃったんだね」
と認める。受け止める。それが共感だというのだ。これもわかりやすかった。
自分との関係が、もっとも基本的な人間関係
本書は本文240頁が全4章26節でできている。
そのなかの、第3章第5節だけが52頁(本文全体の約22パーセント)とバランスを崩して長大である。
その節は「自分と自分の関係をよくする」という節だ。
そこで書かれていたことを詳しく書く余裕はないが、つまりは先述の、
〈「傾聴」は、あなたが楽になるために、いいとこ取りして使えるもの〉
と密接に関係している。
別の節ではこうも書いている。
〈あなたの人格を否定するほど執拗に怒る人がいるとしたら、その人自身が何か自分と自分との関係の悪さを抱えているのでしょう。
そしてもしかしたら、自分と自分との関係がよくないのは怒っているその人だけでなく、あなた自身にも当てはまるかもしれません〉
親しいほど話は聞きにくい
また、家族や恋人など、親しい関係にあるほど、話す側も聴く側も相手への要求度(甘えともいう)が高くなって、感情的になってしまう。
〈「親子だから〔…〕わかってもらいたい」という思いが強すぎると、それが叶わなかった時はかえって感情的になります〉
〈私も家族の話は聴きにくいです〉
プロのカウンセラーでもそうなのか……。
〈実際のところ家族の話を聴くことは、人によってはエベレスト登頂と同じくらい難易度が高いのではないでしょうか〉
そこまでなのか……。
しかし著者は励ます。
〈新しいことに挑戦する過程では、型にはまったり失敗して恥ずかしい思いをすることがあるでしょう。そこを乗り越えてはじめて成長するわけです。
チャレンジして失敗した人に指を差して「できていない」と指摘するのは醜いことです〉
コミュニケーションのなかで、自他の感情を重視しなければならない場面は、思ったより多い。
事柄と感情、同感と共感をごっちゃにしないように気をつけることで、いつかはクソバイスをしないようになろうな俺。
(千野帽子)