「大学病院は悪者だ」という誤解『神様のカルテ0』夏川草介に聞く2
人気医療小説『神様のカルテ』シリーズ作者の夏川草介インタビュー、後編は新作『神様のカルテ0』の収録作についてもう少し詳しく話してもらいました。前編はこちら
──医療の現場や医療行政の実際を小説にした作品が最近は増えてきています。日本の医療行政には限界があるということが改めて言われるようになったのは、ここ10年のことだと思います。ただ「医療行政の限界」と「お医者さんのできることには限界がある」ということとが、世の中では混同されている面もある。はっきりさせておいたほうがいいと思うのは、夏川さんが今おっしゃった、お医者さんにはできないことがある、というのは、そういう外圧とは別なんですよね。
夏川 ええ。別ですね。その違いを意図的に混同して、それを理由に時間が来たら帰っていく医者というのはいます。彼らの言い分は「時代が違う」ということです。「昔のように何でもかんでもお金をかけて全部やればいいという時代ではない」というような言い方で自分の行動を理論武装している面がある。僕は、それは別の問題だと思っています。制度的な問題はたしかにたくさんあって、保険も厳しくなっているし、医療費もどんどん切られている。治療の選択肢はもちろん狭められてはいる。ですけど、それと僕のやろうとしている、「かっこいい医者」を目指すということとは、まったく別の問題として成り立つと思っています。
──ご自分の内面と言いますか、中で咀嚼するべき問題ということですよね。
夏川 そうですね。制限されようがされまいが、自分の基本的な方針は変わらないということだと思います。
──ここでもう一度、『神様のカルテ0』について、収録順に個々の作品のお話を伺いたいと思います。最初が「有明」で、栗原一止が信濃大学医学部6年生のときのお話です。
夏川 有明寮は僕がよく顔を出していた医学部の学生寮そのままですね。
──ああ、こういう感じだったんですか。
夏川 本当に壁が薄くて、隣の部屋の声がそのまま聞こえてくるような古い建物でした。
──国立大学の学生寮というと、昔の下宿屋みたいなイメージがあります。
夏川 信州大学って総合大学なんですね。最初の1年生と医学部だけは2年生までは「全学」といって、全学生が入るでかい学生寮があったんです。医学部生は3年生から「医学部寮」に移る。全学の建物はもう本当に苦情が出るぐらいひどくて。「中庭を壁沿いに歩いてはいけない」という教えがあるんです。なぜかというと、上からいろんなものが降ってくるから(笑)。確かに、机とかイスとかギターとかが庭にボンボン捨てられてました。今は少しきれいになってきましたけども。
──話は、一止たちが医師の国家試験のために勉強する場面から始まりますね。医学生というのは、いつごろからそういう極限状態になるんですか。
夏川 今の医学部教育はどんどん前倒しになってきていますから、もう4年生ぐらいから必死になって勉強し始めます。僕のころは6年生に入ってから慌てて勉強を始めたぐらいでした。憶えなきゃいけない量が普通ではないんですよね。何科に進むにしても、内科も外科も耳鼻科もどれも勉強しないといけない。医療の法律・倫理的な問題もありますし。
──そうか。そういうこともしなくちゃいけないですよね。
夏川 「ちょっとこれはどう考えても不可能だろう」っていう量を憶えなきゃいけないんです。海外の、ほぼ絶滅した寄生虫とかも、写真を見たらその寄生虫が何かわからなきゃいけない。それは何日ぐらいで死ぬのかを、何百ある寄生虫について全部憶えなきゃならないんですが、憶えても国家試験には1問出るか出ないかです。なのに辞書みたいな教科書を憶えなきゃいけない。最初に見たときは唖然としました。
──その知識が必要だから勉強しなくちゃいけないわけですよね。
夏川 そうです。確実に何かのときには役に立ちますから、きっちり国家試験を勉強した人ってやっぱり今もよくものを知ってる感じがします。
──その中で夏川さんはどのぐらいの優秀さだったんですか。
夏川 たぶん、100人いた中で40番ぐらいにいたんじゃないかと。真ん中よりちょっと上のつもりで。でも、「自分は真ん中よりちょっと上だ」と言う人はたくさんいましたね(笑)。
──まあ、どんな分布も真ん中が一番多いですもんね(笑)。
──次の「彼岸過ぎまで」は、一止さんが本庄病院に入る直前までの話ですね。これはどういうきっかけで書かれたんですか。
夏川 こっちはまったくスタンスが違ってですね、医療現場における事務方の人たちに焦点を当てたかったんです。
──この作品でいうと金山事務長ですね。
夏川 病院を回っているうちに事務方がどんなに重要なキーを握っているのかがわかってきました。最初にいた病院はすごく事務がしっかりしていて、医者は医療だけやっていればいい、という感じでした。そのありがたさに当時はまったく気付かなかったんですけども、事務の弱い病院に行くと、患者さんとはまったく関係ない仕事に振り回されるんです。腹部超音波の機械を買うときに、なぜか値段の交渉まで医者のところにやってくる。ようやく、「あの病院は事務がしっかりしてたんだなあ」と気付きました。それがずいぶん前から気になっていて、医療現場には横から支えている人がいて、その人のおかげで医療内容が格段に変わるということを書いておきたかった。
──医療小説の中には事務方対医師みたいな対立図式を持ってくるものもあります。お医者さんの立場からすると衝突することもあるでしょうし。でも、衝突するからといって別に敵同士ではないわけですよね。そこをきちんと書いておかれたかった、と。
夏川 『神様のカルテ2』で明確な対立図式を書いてしまったので、「こういう型にはまった解釈では、ちょっとやりたいことと違うな」という思いもあったものですから。
──表題作と言いますか、シリーズタイトルがつけられた「神様のカルテ」が執筆順では最後に書かれた作品ですか。「神様のカルテ」の意味についての作品と言うこともできます。
夏川 その通りですね。映画化のときはまた別の解釈をされていました。映画は別物なのでそれでいいのですが、自分の伝えたかったものとは違います。映画だけで「『神様のカルテ』ってそういう意味だったのか」と納得されてしまうのも困る。「神様のカルテ」という言葉は、僕の中では悲観的な言葉なんです。人間がどんなにがんばっても、神様は人間の命に対して決めているものがあるし、人の期待に対して応えてくれる存在ではない。神様に対する面当てぐらいの皮肉なイメージで僕は「神様のカルテ」という題名をつけているんですね。そのことを、そろそろ伝えておいたほうがいいかなと。
──医療小説において「神様」という言葉が出ると、どうしてもゴッドハンドじゃないですけど、「奇跡」というような言葉が浮かんでしまいそうです。しかし、医療の現場を見られている方からするとそういったものではない、ということは書かなくちゃいけない。
夏川 そうですね。「神様のカルテ」を無敵感のある言葉として受け止めたような感想を見ることが最近多かったので、「そうではない」という話をあえて書こうかなと思いました。
──最後の「冬山記」は、一止の奥さんである〈ハルさん〉こと榛名が冬山登山中に出会った人々の話です。これは医療小説ではないのですが、「冬山に登る」という行為を通じて、人の命の大切さみたいなものを描いた小説だと思うのです。
夏川 ずっと考えていることが出たんだと思います。もっと自然な山の風景を並べていくつもりだったのに、結局は生と死と孤独の話に流れていきました。医療現場でも僕が一番困るのは、患者さんの抱えている孤独の問題です。痛みや苦しみは何とかなるんですけど、最終的に残っているものは孤独です。それに対してどうやって声をかけるかというのはものすごく難しい。ときどきすごく、それこそ言葉は悪いですがかっこいい死に方をする人たちがいて、その人に「別に自分が孤独じゃないと思ってるわけじゃない。人間はみんな孤独なものだと思っている」と言っていただいたことがあります。
──その心境にはなかなか至れないですが、真理だと思います。
夏川 「1人じゃないよ。僕がいるから」とは、僕は患者さんに言えない。僕にも僕の生活があるので、24時間付き添うことはできないからです。「僕がいるから」という言葉は嘘で、やっぱり孤独なんですよ。家族がいる僕だって、自身の中に孤独を持っている。だったらその中で何をしていくのかが大事なんだという、自分なりの哲学が小説の中に出てきたのかと思います。
──この作品の中で榛名は「山が好きならここで死なないでください」とか、「(自分は)山に何度も助けられてきたから、ここを誰かが身勝手な死に場所にしてほしくない」と言います。この「山」というのが、今おっしゃられた孤独の問題といいますか、患者さん個々の心の中にあるものに対比されているように思いました。
夏川 実際にそういうことを言っていた登山家がいました。山を特別な自分の世界みたいに閉じた解釈をして、それこそ死にに来るとか、自分を試しに来るみたいな、そういう矮小化をして見ている人たちがすごく嫌だ、という意味のことを言っていて、「山はもっと神々しくて、威厳があって、うかつに踏み込めないものだ」と。
──さて。ファンを代表してどうしても聞かなければいけないのは「4巻はどうなるでしょうか」ということです(笑)。3巻の最後で、それまでの一止の、大学病院の医局制度と対立する姿勢に変化がありました。やはりその続きということになりますか。
夏川 はい。医療に対する誤解って、さっきの「ゴッドハンドのような医者がいる」と並んで「大学病院は悪者だ」があるんですよ。
──医局のヒエラルキーが医療制度の諸悪を生み出した、ということですね。
夏川 『白い巨塔』という言葉に代表されるように「医局制度は世の中の必要悪だ」というような解釈をされているのですが、全然そうではなくて、医局制度は素晴らしいものを支えているのだけど、その支えているものがあまりにも大きいからひずみが出ているだけなんです。たとえば、長野県はものすごく広大でど田舎が山ほどあります。それを支えているのは医局制度で、それがなくなったら、たぶん長野県の医療は一瞬で崩壊してしまいます。その人事の問題と、あとは大学には本当に天才的な医者たちがたくさんいるんです。「この分野だったら知らないことはない」という医者たちがいて、困ったときには必ず答えてくれる。なので、大学はそれに代わるシステムが提案できない限りは絶対的に必要なんです。そういう意味では従来の医療小説の逆をいくものを書くことになるかもしれないのですが、それを書きたいと思ってはいるのですが……ただ、医局に対して納得できない部分も山ほどありますので(笑)。
──ああ(笑)。
夏川 書き始めるとこう、負の感情とごちゃごちゃになって、とても苦心しています。
──そういう相反するものとか、矛盾みたいなものをきちんと小説のかたちに落とし込んで書くというのは大変な作業でしょう。一面的な書き方ではなくて、そこにいる人だけがわかる事実がきちんと書ければ小説になる、ということですね。そのためにはまだちょっとお時間がかかるかもしれないという。まあ、版元さんはもどかしいかもしれませんが、待ってもらうしかない。
編集 これだけお忙しいのに、そんなに催促もできませんし……。
──そりゃそうですよ(笑)。人命を預かるお仕事をされながらの執筆なんですから。現実の人間のカルテが優先です。
夏川 おそれいります。ゆっくり進めてはいますので(笑)。
──はい。お書きになりたいものを納得のいくかたちで書いてください!
(杉江松恋)
*著者サイン本プレゼントがあります。応募方法はこちら!
医者にできること、できないこと
──医療の現場や医療行政の実際を小説にした作品が最近は増えてきています。日本の医療行政には限界があるということが改めて言われるようになったのは、ここ10年のことだと思います。ただ「医療行政の限界」と「お医者さんのできることには限界がある」ということとが、世の中では混同されている面もある。はっきりさせておいたほうがいいと思うのは、夏川さんが今おっしゃった、お医者さんにはできないことがある、というのは、そういう外圧とは別なんですよね。
夏川 ええ。別ですね。その違いを意図的に混同して、それを理由に時間が来たら帰っていく医者というのはいます。彼らの言い分は「時代が違う」ということです。「昔のように何でもかんでもお金をかけて全部やればいいという時代ではない」というような言い方で自分の行動を理論武装している面がある。僕は、それは別の問題だと思っています。制度的な問題はたしかにたくさんあって、保険も厳しくなっているし、医療費もどんどん切られている。治療の選択肢はもちろん狭められてはいる。ですけど、それと僕のやろうとしている、「かっこいい医者」を目指すということとは、まったく別の問題として成り立つと思っています。
──ご自分の内面と言いますか、中で咀嚼するべき問題ということですよね。
夏川 そうですね。制限されようがされまいが、自分の基本的な方針は変わらないということだと思います。
医学部で勉強するということ
──ここでもう一度、『神様のカルテ0』について、収録順に個々の作品のお話を伺いたいと思います。最初が「有明」で、栗原一止が信濃大学医学部6年生のときのお話です。
夏川 有明寮は僕がよく顔を出していた医学部の学生寮そのままですね。
──ああ、こういう感じだったんですか。
夏川 本当に壁が薄くて、隣の部屋の声がそのまま聞こえてくるような古い建物でした。
──国立大学の学生寮というと、昔の下宿屋みたいなイメージがあります。
夏川 信州大学って総合大学なんですね。最初の1年生と医学部だけは2年生までは「全学」といって、全学生が入るでかい学生寮があったんです。医学部生は3年生から「医学部寮」に移る。全学の建物はもう本当に苦情が出るぐらいひどくて。「中庭を壁沿いに歩いてはいけない」という教えがあるんです。なぜかというと、上からいろんなものが降ってくるから(笑)。確かに、机とかイスとかギターとかが庭にボンボン捨てられてました。今は少しきれいになってきましたけども。
──話は、一止たちが医師の国家試験のために勉強する場面から始まりますね。医学生というのは、いつごろからそういう極限状態になるんですか。
夏川 今の医学部教育はどんどん前倒しになってきていますから、もう4年生ぐらいから必死になって勉強し始めます。僕のころは6年生に入ってから慌てて勉強を始めたぐらいでした。憶えなきゃいけない量が普通ではないんですよね。何科に進むにしても、内科も外科も耳鼻科もどれも勉強しないといけない。医療の法律・倫理的な問題もありますし。
──そうか。そういうこともしなくちゃいけないですよね。
夏川 「ちょっとこれはどう考えても不可能だろう」っていう量を憶えなきゃいけないんです。海外の、ほぼ絶滅した寄生虫とかも、写真を見たらその寄生虫が何かわからなきゃいけない。それは何日ぐらいで死ぬのかを、何百ある寄生虫について全部憶えなきゃならないんですが、憶えても国家試験には1問出るか出ないかです。なのに辞書みたいな教科書を憶えなきゃいけない。最初に見たときは唖然としました。
──その知識が必要だから勉強しなくちゃいけないわけですよね。
夏川 そうです。確実に何かのときには役に立ちますから、きっちり国家試験を勉強した人ってやっぱり今もよくものを知ってる感じがします。
──その中で夏川さんはどのぐらいの優秀さだったんですか。
夏川 たぶん、100人いた中で40番ぐらいにいたんじゃないかと。真ん中よりちょっと上のつもりで。でも、「自分は真ん中よりちょっと上だ」と言う人はたくさんいましたね(笑)。
──まあ、どんな分布も真ん中が一番多いですもんね(笑)。
病院の事務方という仕事
──次の「彼岸過ぎまで」は、一止さんが本庄病院に入る直前までの話ですね。これはどういうきっかけで書かれたんですか。
夏川 こっちはまったくスタンスが違ってですね、医療現場における事務方の人たちに焦点を当てたかったんです。
──この作品でいうと金山事務長ですね。
夏川 病院を回っているうちに事務方がどんなに重要なキーを握っているのかがわかってきました。最初にいた病院はすごく事務がしっかりしていて、医者は医療だけやっていればいい、という感じでした。そのありがたさに当時はまったく気付かなかったんですけども、事務の弱い病院に行くと、患者さんとはまったく関係ない仕事に振り回されるんです。腹部超音波の機械を買うときに、なぜか値段の交渉まで医者のところにやってくる。ようやく、「あの病院は事務がしっかりしてたんだなあ」と気付きました。それがずいぶん前から気になっていて、医療現場には横から支えている人がいて、その人のおかげで医療内容が格段に変わるということを書いておきたかった。
──医療小説の中には事務方対医師みたいな対立図式を持ってくるものもあります。お医者さんの立場からすると衝突することもあるでしょうし。でも、衝突するからといって別に敵同士ではないわけですよね。そこをきちんと書いておかれたかった、と。
夏川 『神様のカルテ2』で明確な対立図式を書いてしまったので、「こういう型にはまった解釈では、ちょっとやりたいことと違うな」という思いもあったものですから。
「神様のカルテ」とは何か
──表題作と言いますか、シリーズタイトルがつけられた「神様のカルテ」が執筆順では最後に書かれた作品ですか。「神様のカルテ」の意味についての作品と言うこともできます。
夏川 その通りですね。映画化のときはまた別の解釈をされていました。映画は別物なのでそれでいいのですが、自分の伝えたかったものとは違います。映画だけで「『神様のカルテ』ってそういう意味だったのか」と納得されてしまうのも困る。「神様のカルテ」という言葉は、僕の中では悲観的な言葉なんです。人間がどんなにがんばっても、神様は人間の命に対して決めているものがあるし、人の期待に対して応えてくれる存在ではない。神様に対する面当てぐらいの皮肉なイメージで僕は「神様のカルテ」という題名をつけているんですね。そのことを、そろそろ伝えておいたほうがいいかなと。
──医療小説において「神様」という言葉が出ると、どうしてもゴッドハンドじゃないですけど、「奇跡」というような言葉が浮かんでしまいそうです。しかし、医療の現場を見られている方からするとそういったものではない、ということは書かなくちゃいけない。
夏川 そうですね。「神様のカルテ」を無敵感のある言葉として受け止めたような感想を見ることが最近多かったので、「そうではない」という話をあえて書こうかなと思いました。
ハルさんの話「冬山記」
──最後の「冬山記」は、一止の奥さんである〈ハルさん〉こと榛名が冬山登山中に出会った人々の話です。これは医療小説ではないのですが、「冬山に登る」という行為を通じて、人の命の大切さみたいなものを描いた小説だと思うのです。
夏川 ずっと考えていることが出たんだと思います。もっと自然な山の風景を並べていくつもりだったのに、結局は生と死と孤独の話に流れていきました。医療現場でも僕が一番困るのは、患者さんの抱えている孤独の問題です。痛みや苦しみは何とかなるんですけど、最終的に残っているものは孤独です。それに対してどうやって声をかけるかというのはものすごく難しい。ときどきすごく、それこそ言葉は悪いですがかっこいい死に方をする人たちがいて、その人に「別に自分が孤独じゃないと思ってるわけじゃない。人間はみんな孤独なものだと思っている」と言っていただいたことがあります。
──その心境にはなかなか至れないですが、真理だと思います。
夏川 「1人じゃないよ。僕がいるから」とは、僕は患者さんに言えない。僕にも僕の生活があるので、24時間付き添うことはできないからです。「僕がいるから」という言葉は嘘で、やっぱり孤独なんですよ。家族がいる僕だって、自身の中に孤独を持っている。だったらその中で何をしていくのかが大事なんだという、自分なりの哲学が小説の中に出てきたのかと思います。
──この作品の中で榛名は「山が好きならここで死なないでください」とか、「(自分は)山に何度も助けられてきたから、ここを誰かが身勝手な死に場所にしてほしくない」と言います。この「山」というのが、今おっしゃられた孤独の問題といいますか、患者さん個々の心の中にあるものに対比されているように思いました。
夏川 実際にそういうことを言っていた登山家がいました。山を特別な自分の世界みたいに閉じた解釈をして、それこそ死にに来るとか、自分を試しに来るみたいな、そういう矮小化をして見ている人たちがすごく嫌だ、という意味のことを言っていて、「山はもっと神々しくて、威厳があって、うかつに踏み込めないものだ」と。
今後のお話
──さて。ファンを代表してどうしても聞かなければいけないのは「4巻はどうなるでしょうか」ということです(笑)。3巻の最後で、それまでの一止の、大学病院の医局制度と対立する姿勢に変化がありました。やはりその続きということになりますか。
夏川 はい。医療に対する誤解って、さっきの「ゴッドハンドのような医者がいる」と並んで「大学病院は悪者だ」があるんですよ。
──医局のヒエラルキーが医療制度の諸悪を生み出した、ということですね。
夏川 『白い巨塔』という言葉に代表されるように「医局制度は世の中の必要悪だ」というような解釈をされているのですが、全然そうではなくて、医局制度は素晴らしいものを支えているのだけど、その支えているものがあまりにも大きいからひずみが出ているだけなんです。たとえば、長野県はものすごく広大でど田舎が山ほどあります。それを支えているのは医局制度で、それがなくなったら、たぶん長野県の医療は一瞬で崩壊してしまいます。その人事の問題と、あとは大学には本当に天才的な医者たちがたくさんいるんです。「この分野だったら知らないことはない」という医者たちがいて、困ったときには必ず答えてくれる。なので、大学はそれに代わるシステムが提案できない限りは絶対的に必要なんです。そういう意味では従来の医療小説の逆をいくものを書くことになるかもしれないのですが、それを書きたいと思ってはいるのですが……ただ、医局に対して納得できない部分も山ほどありますので(笑)。
──ああ(笑)。
夏川 書き始めるとこう、負の感情とごちゃごちゃになって、とても苦心しています。
──そういう相反するものとか、矛盾みたいなものをきちんと小説のかたちに落とし込んで書くというのは大変な作業でしょう。一面的な書き方ではなくて、そこにいる人だけがわかる事実がきちんと書ければ小説になる、ということですね。そのためにはまだちょっとお時間がかかるかもしれないという。まあ、版元さんはもどかしいかもしれませんが、待ってもらうしかない。
編集 これだけお忙しいのに、そんなに催促もできませんし……。
──そりゃそうですよ(笑)。人命を預かるお仕事をされながらの執筆なんですから。現実の人間のカルテが優先です。
夏川 おそれいります。ゆっくり進めてはいますので(笑)。
──はい。お書きになりたいものを納得のいくかたちで書いてください!
(杉江松恋)
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