(※写真はイメージです/PIXTA)

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老後資金は、多いほど安心できるように思えます。しかし支出を抑えることが習慣になると、外出や交際に使うお金まで惜しくなることがあります。十分な貯蓄がありながら、毎日を楽しむ方法が分からなくなってしまうケースもあるのです。

「もったいない」と、誘いを断り続けた夫婦

「今日も予定はありません。明日も、その次の日もたぶん同じです」

そう話すのは、隆一さん(仮名・74歳)と妻の美代子さん(仮名・71歳)です。夫婦には約5,000万円の貯蓄があり、住宅ローンを完済した戸建てで暮らしています。年金も受給しており、日々の生活に困っているわけではありません。

それでも、2人はほとんどお金を使いません。

隆一さんは現役時代から家計簿をつけ、給与が入ると一定額を先に貯蓄していました。美代子さんも特売日を確認し、外食は記念日だけ。子ども2人の教育費や住宅ローンを抱えていたころは、その堅実さが家計を支えていました。

退職後も暮らし方は変わりませんでした。食料品は少し離れた安いスーパーで買い、冷暖房の使用も控えめ。衣類は傷むまで買い替えず、旅行の案内を見ても「今は高い」と閉じてしまいます。

数年前、学生時代の友人から温泉旅行に誘われた美代子さんは、3万円ほどの費用を理由に断りました。近所の友人から月2回の食事会に誘われたときも、「毎月となるともったいない」と参加しませんでした。

隆一さんも同じです。退職後、元同僚からゴルフや日帰り旅行の連絡が来ましたが、交通費や参加費を計算し、そのたびに断りました。やがて、誘いそのものが届かなくなりました。

夫婦は当初、「余計なお金を使わずに済む」と話していました。しかし、予定のない日が続くうちに、会話も減っていきました。

朝食後、隆一さんは新聞を読み、美代子さんは家事をします。昼食を終えると、それぞれ別の部屋でテレビを見る。夕方に近所を歩き、夕食を食べて眠る。それが毎日の繰り返しでした。

ある日美代子さんが「今週、何か予定あった?」と尋ねると、隆一さんはカレンダーを見たまま答えました。

「病院が来週にある。それ以外はないな」

壁のカレンダーには、通院日とごみ収集日しか書かれていませんでした。

総務省『家計調査報告〔家計収支編〕2025年平均結果』によると、65歳以上の夫婦のみの無職世帯では、月平均の可処分所得が22万1,544円、消費支出が26万3,979円となっています。老後は収支が赤字となり、貯蓄を取り崩す世帯も珍しくありません。だからこそ、夫婦は貯蓄を減らすことに強い不安を抱いていました。

5,000万円を守るうちに、失っていたもの

転機になったのは、美代子さんがかつて旅行を断った友人から、久しぶりに電話を受けたことでした。友人は足腰を悪くし、遠出が難しくなったといいます。

「前に誘った温泉、あのとき一緒に行けばよかったね」

電話を切った後、美代子さんは、断った旅行のパンフレットを保管していたことを思い出しました。「もう少し安い時期に行こう」と考えて取っておいたものです。しかし、その友人と旅行に行ける機会は戻ってきません。

「あのときは3万円がもったいないと思った。でも、一緒に行ける時間のほうが、ずっと貴重だったんだね」

美代子さんの言葉に、隆一さんも思い当たることがありました。元同僚から久しぶりに連絡があり、以前参加していた集まりが、メンバーの体調や家族の介護を理由に解散したと知らされたのです。

夫婦は初めて、貯蓄の使い道について具体的に話し合いました。

毎月の生活費や住宅の修繕費、将来の介護費用を試算し、それとは別に、1年間で使う「楽しみの予算」を40万円確保しました。使い切ることを目的にはせず、外食や旅行、習い事に使っても家計に影響しない金額として決めたのです。

最初に申し込んだのは、近隣の文化施設で開かれる歴史講座でした。受講料は数千円でしたが、隆一さんは申込画面を前に何度も迷いました。

「払えないわけじゃないのに、支払うボタンを押すのが怖かった」

美代子さんは以前断った食事会にも参加しました。すでに顔ぶれは変わっていましたが、帰宅後、「来月も行ってみる」と久しぶりに予定をカレンダーへ書き込みました。

内閣府『令和7年版高齢社会白書』では、何らかの社会活動に参加した65歳以上のうち、生きがいを「十分感じている」または「多少感じている」と答えた人は84.6%でした。いずれの活動にも参加していない人より23ポイント高く、社会との接点と生きがいには一定の関連がみられます。

夫婦の生活が急に華やかになったわけではありません。予定のない日もあれば、出費を見送ることもあります。それでも、貯蓄残高だけを見て一日を終えることは少なくなりました。

「節約してきたことを後悔しているわけじゃない。それで家も持てたし、子どもも育てられた。でも、もう守るだけの時期ではないのかもしれないね」

美代子さんはそう話します。

翌月のカレンダーには、歴史講座、友人との昼食、夫婦で出かける日帰り旅行の予定が書かれています。貯蓄を大きく減らしたわけではありません。それでも夫婦にとっては、貯めることだけに使ってきたお金を、残された時間にも振り分け始めた大きな変化でした。