日本と同じ? イギリスでも法律上は「軍隊の保持」が禁止されている――今こそ、自衛隊と憲法9条について議論しよう。リベラルが読むべき1冊、保守が読むべき1冊とは。

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ノンフィクション本の新刊をフックに、書評のような顔をして、そうでもないコラムを藤野眞功が綴る〈ノンフィクション新刊〉よろず帳。今回は、自民党と朝日新聞の双方から頼られる「憲法学界の権威」の矛盾を衝く木村晋介『九条の何を残すのか 憲法学界のオーソリティーを疑う』(本の雑誌社)と、日英の法制度に精通する異色の研究者、幡新大実の『憲法と自衛隊 法の支配と平和的生存権』(東信堂)の内容を突き合わせ、自衛隊と憲法9条について考える。

【画像】戦後の日本に大きな影響を与えた人物

 

8月15日の三文芝居

例年、この時期になると、日本人は「大日本帝国の最後の戦争」が侵略だったと反省し、その反省を理由にいま生きている誰かを責め立てる人々と、大日本帝国の最後の戦争がもたらした建設的な面にだけ目を向け、その栄光を理由にいま生きている誰かを責め立てる人々に二分される。

いや、二分することなど出来ない。人にはそれぞれ考え方に違いがあるのだから――この問題にかぎってはそうでもないだろう。ただし、「侵略と栄光」で区切る線引きは変更したほうがいい。

区切るなら「戦争に負けてよかったと考えている日本人」と「戦争に負けてよいはずがないと考えている日本人(この立場の前提は、負ける戦争は始めるべきではなかった、である)」だ。

「戦争に負けてよかった」と考える集団は、第一に「戦前の日本社会は暗黒で、まったく民主的社会ではなかった」という前提に立つ【1】。彼らはその暗黒社会が戦争に負けたことで、というより、負けたことによってのみ現在の民主化が達成されたと信じている。

他方、評者を含む「戦争に負けてよいはずがない」と考える集団は、第一に「戦前の日本は、現代に比較すれば不十分ではあるが、当時の国際社会の水準に照らせば民主的国家と誇るに足る程度の社会であった」という前提に立つ。

そして、たいていの者は、日独伊三国軍事同盟の締結をポイント・オブ・ノーリターンとして、当時の日本が勝てない戦争を始めたために、十全な民主国家を確立する時宜を逸したことを悔いている。

前者の日本人は「ほとんどがアメリカ人によって構成された占領軍」によって、「悪い日本人」が処罰・処刑されたことを喜ぶ。後者の日本人は「悪い日本人」であれ、「善き日本人」であれ、同胞が他国によって一方的に裁かれること、それ自体を是としない。

無能力者のための憲法9条

さて、日本国憲法は第9条によって、(率直に読めば)我々に戦力の保持を禁じている。前者「戦争に負けてよかった」の立場から見れば、憲法前文にはいささかの違和感もないだろう。

〈日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した〉【2】

占領軍が「悪い日本人」を処罰・処刑し、自分たちのような(前者の)「善き日本人」を守ってくれた。そして、まだ愚かな日本人たちを教育し、諭し、導いてくれたと信じるなら、正義はいつでも「日本以外の諸外国」に在る。戦力を放棄して無能力者になることで、ご立派な外国人たちに「守っていただく」というのが、「非武装平和」の基本的な考え方である。

警察予備隊から始まる自衛隊の歴史は明らかに「非武装平和」と隔絶しているが、マスコミや日弁連、アカデミア、公教育界の関係者たちが棲む上っ面の世界では、長らく「非武装平和」が存在し得るものと主張されてきた。

そんな中、「戦争に負けてよかった」という立場を堅持しながら、非武装中立のまやかしを自覚し、妄想的平和論愛好家たちの中で孤軍奮闘してきた存在が木村晋介である。

木村晋介という例外 

木村は、作家の椎名誠や沢野ひとしの親友であるということ以上に、硬骨漢の弁護士として知られる。オウム真理教による一連の事件では(殺害された)坂本弁護士一家の救出活動をおこない、柳美里『石に泳ぐ魚』をめぐる裁判では原告側の代理人を務めた【3】。

彼は日本共産党ときわめて密接な関係にある自由法曹団に属しているが、今から30年以上も前、当時は国会で少なからぬ議席を有していた日本共産党や社会党が「憲法9条に照らして、自衛隊は違憲である」などと主張していた1993年の段階で、自由法曹団の機関紙(団通信)に「自衛隊合憲論」(最小限の戦力保持は容認すべきだ)を投稿し、同通信のみならず、共産党の機関紙『赤旗』でも〈右転落者〉【4】として非難を受けていた。それでも彼は自由法曹団から離れず、団通信上で論戦を続けてきたのである。

評者はこれから、木村が上梓した『九条の何を残すのか 憲法学界のオーソリティーを疑う』(本の雑誌社)について、幡新大実『憲法と自衛隊 法の支配と平和的生存権』(東信堂)を用いて批判的なコラムを綴るが、この批判は「戦争に負けてよかった」と信じる集団の中で、木村が示す立場だけがほとんど唯一、「戦争に負けてよいはずがないと考えている日本人」とも議論と対話が成立し得るスタンスであるという、彼の誠実さに対する敬意に裏打ちされていることは強調しておきたい。

戦争に「善悪」は存在するのか

本書「九条~」は、木村晋介と謎の女性の対話によって構成されている。瑤子は、某大学法科を出た25歳のシングルであるというが、実在するかどうかはさしたる問題ではない。著者は木村なので、文責も彼にある。

第1章において木村は、この80年間近く、国会で、新聞やテレビや学校の教室で、訳の分からないデモやSNSで気軽に口にされてきた「すべての戦争はいけない」という逃げ道を否定する。

〈どんな場合でも戦争をしないという選択は合理的でないように見えますね。すべての戦争がいけないということになると、結局やったもん勝ちになってしまうという〉【5】

なるほど理解できるが、続く後段はどうだろう。

〈日本軍国主義やナチスとは戦わず、やりたいだけやらせればよかった、と本気でいう人は少ないでしょう〉【5】

ここに欠けている、というより木村が見ないことにしているのは、戦前の日本やドイツにかぎらず、どのような勢力が相手であれ、諸外国に〈やりたいだけやらせ〉ないためには「戦争を認めること」が肝心なのではなく、どのような手段や武器を使っても「戦争に勝つこと」が肝心である、という当たり前の事実だ。そしてまた、当事者性だけに気を取られていると「国際公共善のためには行わざるを得ない戦争」にも目をつぶることになるだろう。

木村は戦争を「悪い戦争(侵略)/善い戦争(自衛)」に色分けする思考法にからめとられ、なされてしかるべき「戦争では勝たねばならない」という言い方ではなく、「悪とは戦わねばならない」という表現を選ばざるを得ない隘路に迷い込んでしまっているように見える。

刑罰としての憲法9条

その心理を逆説的に照射するのが、幡新大実『憲法と自衛隊』である。1966年生まれの幡新は東京大学法学部を出て、1999年にイギリス・ランカスター大学で博士号を取得。2003年には英国法廷弁護士(インナー・テンプル)の資格も得た、日英両国の法制度に精通する異色の研究者である。前掲書において幡新は、憲法9条の「意味/性質」について3つの解釈の可能性を提示する。

その1:刑罰説。
その2:平和的生存権の担保説。
その3:良心的規範説。

ごく簡単に〝超訳〟すると、次のようになるだろう。

刑罰説:二度と連合国に逆らえないよう、日本を恒久的に弱体化させる目論見によるもの、という解釈。

平和的生存権の担保説:イギリス権利章典(1689年)の第6条「平時に、王国内で、議会の承認なく、常備軍を設置、保持することは違法である」と同様の規定と見做す解釈。

良心的規範説:〈二度と戦争は嫌だ。軍国日本を復活させたくない〉【5】と考えた当時の日本人たちの考えが反映されている、という木村晋介(説)と類似した解釈。基本的には、戦争は悪いことなので、その手段となりえる戦力を持たない、という良心の表明。

逸脱行為としての戦力保持

幡新が提示した3つの解釈の中で、歴史的事実に近いと思われるのは順番の通り、その1「刑罰説」である。

〈軍、戦力保持の禁止は、国の主権制限であり、国という一種の法人の行為能力制限(…)この解釈では、一定の留保はあるものの、現実の日本の仮再軍備と日米安全保障条約は、それぞれ刑罰からの仮釈放と保護観察に当たる(…しかし…)本来、保護観察官と警察官は別々であるが、現実にはアメリカ軍が保護観察官兼警察官(世界の警察官=国連安保理常任理事国)なので、利益相反がある(…)保護観察や仮釈放条件の変更、解除について、保護観察官に利益相反があると、どのような手続も正常に機能しない〉【6】

この解釈に対しては、国家の自然権(戦力の保持)はそもそも制限され得るのか、という疑念もあるだろう。現在の憲法と日米安保条約を掛け合わせると、日本は軍備(およびそれに裏打ちされた外交力)を持つ権利を、アメリカによって制約されていることになる。

評者が示唆に富む選択肢だと感じたのは、幡新がふたつめに示した「平和的生存権の担保説」である。誰もが知る通り、イギリスは世界有数の軍隊を保持する国連安保理の常任理事国だが、じつはかの国は「平時に、王国内で、議会の承認なく、常備軍を設置、保持することは違法である」という法的拘束のもとに置かれているという。この事実は、日本ではあまり知られていないのではないか。

〈【評者註/イギリスにおける】平和的生存権の保障手続は、日本の自衛隊のような「仮」軍備どころか、正規の軍の設置と保持そのものを、例外的な暫定措置に位置付け、毎年の議会による承認手続と、5年おきの根拠立法の再立法手続を要求している〉【6】

つまりイギリスは、軍隊の設置と保持を原則的に禁止したまま、定期的な議会による決議(国民の総意の確認)を繰り返すことによって、「逸脱行為」として戦力を保持しているのである。こうしたイギリスの手続きに対して、政府による解釈変更だけで自衛隊の扱いを変えてきた日本は法的な「正統性」をあまりに軽んじてきたのではないか、と幡新は厳しく問い質している。

 国家の主権者として、国民には議論する責任がある

憲法9条への評価はさておき、こうした「なし崩しの再軍備」に対する批判と警鐘は、木村と幡新の著作で相通じている。木村が『九条の何を残すのか』で中心に据えたのは、改憲を目指す自民党と、護憲派の代表格・朝日新聞の双方から頼られる憲法学界の権威、長谷部恭男(東京大学名誉教授)の知的怠慢への批判である。

自民党も左派・リベラル御用達のメディアも「国民的な議論」から逃げて、自らの思想に都合の良い「専門家共同体のコンセンサス」に依存しているというのが、批判の核心であろう。木村は「国民全体で、日本国憲法について議論しようじゃないか。そのための叩き台を自分が提供したい」と言っているのだ。つまり、自民党草案とはまったく別の方向で、改憲を前向きに捉えているのが木村の立場なのである。

そんなわけで、すべての左派・リベラルはただちに『九条の何を残すのか』を手に取るべきであるし、すべての保守・右派は『憲法と自衛隊』に目を通してもらいたい。自分が左右のいずれにも偏らない中道だと自覚するかたは2冊ともぜひ――評者は「戦争に負けてよいはずがない」という立場なので、本コラムの大尾として幡新の檄を掲げる。

〈日本はアジアの数少ない独立国の1つだっただけでなく、ロシアを破り、アジア独立の希望の星になっていたのに、白人との決戦に負けて、多くの犠牲者を出し、独立を失った。その歴史的現実を棚に上げて、日本はアメリカやソ連のスパイに「騙された」のだ、「はめられた」のだと外人相手に主張したとしても、それは「騙される方が悪い」と言われるのが落ちで、むしろ見苦しい。

アメリカ軍が対日戦と戦後処理で色々と「やり過ぎた」(過ぎたるはなお及ばざるが如し)というのは本書の趣旨でもある(…)本書は、むしろ開戦の決断を下す政治指導者には勝つ責任があると訴える(…)そういう反省がなければ、日本は、敗戦後の刑事処分としての性格を帯びる憲法第9条第2項から本当の意味で釈放され、同条同項のイギリス権利章典化(人権規定化)を図り、自由の国になることはできないと考える〉【6】

なお、『憲法と自衛隊』は、防衛省・自衛隊、防衛大学校の改革を訴える論考【https://shueisha.online/articles/-/181997】を発表して大きな反響を呼んだ等松春夫(防大教授)が月刊誌『世界』(2023年9月号)に寄せた論考【7】においても、瞠目すべき1冊として挙げられている。

文/藤野眞功

【1】「戦前暗黒史観」は、1853年のペリー来航以来、約90年に及ぶ日本の近代化の道程を無視し、戦時下を含む満州事変以降の約15年間の「異常事態」を「戦前日本の常態」にすり替えている。

【2】衆議院・公式サイトより引用。
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/shiryo/dl-constitution.htm

【3】評者は、名誉棄損の訴えについては是認するが、最高裁が下した「出版差し止め」には反対の立場である。

【4】自由法曹団『団通信』(2022年9月1日/1786号)より引用。
https://www.jlaf.jp/03dantsushin/2022/1128_1359.html

【5】木村晋介『九条の何を残すのか 憲法学界のオーソリティーを疑う』(本の雑誌社)より引用。

【6】幡新大実『憲法と自衛隊 法の支配と平和的生存権』(東信堂)より引用。

【7】等松春夫『なぜ自衛隊に「商業右翼」が浸透したか 軍人と文民の教養の共有』