徳田虎雄氏

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 青年は故郷を離れる際、万人に医療を届けるという崇高な志を抱いていた。実際、彼は全国各地に病院を展開。日本最大の医療グループを一代で築いたのである。一方で金権選挙とは縁を切れず、東京地検特捜部の標的にもなった。功罪相半ばする生涯を振り返る。

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【写真を見る】パワハラ、コンプラ違反も多かったという徳田さん

 医療法人「徳洲会」創設者で元衆議院議員の徳田虎雄氏が今月10日、86歳で亡くなった。全身の筋肉が徐々に動かなくなる進行性の難病・筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患い、神奈川県の徳洲会湘南鎌倉総合病院で闘病中だった。

白目をむいたまま3歳で亡くなった弟

 徳田氏は1938年2月17日、鹿児島県・徳之島に生まれた。本土復帰以前、渡航は厳しく制限されており、島は物資に乏しかった。父親は一時期、名産の黒砂糖を密輸する仕事に関わっていたという。

徳田虎雄氏

 幼少期の徳田氏が、その郷里の島で体験したある悲劇が自伝には記されている。

〈三歳になる弟がいたんですが、その子が病気をした。夜中の三時ごろに嘔吐したり、下痢をしていたから、いまでいう脱水でしょう〉(『ゼロからの出発』)

 徳田少年は母親の言いつけで一人、暗い田舎道を診療所まで走り通した。なんとかたどり着き、門戸をたたいたのだが、医師は往診に応じなかったという。

〈医者がやっときてくれたのは、翌日昼過ぎで、弟はもう白目をむいたまま、死んでました。夜にちょっと点滴でもすれば、助かったかもしれませんね。(中略)その同じ医者が夜遅くでも往診することがあるのは、よく知っている。ただし、その家には、金がある。金があれば、医者は病人を治すが、金がないと治さないのか〉(同)

「困窮している患者からはお金を受け取らなかった」

 この辛い経験こそが、医学の道を志すきっかけとなったのである。徳田氏は地元の高校から大阪の高校に編入。大阪大学医学部を目指したものの、その壁は厚かった。だが、父親からは〈「大阪大学にもしはいれないことがあったら、一生徳之島の土を踏むな。大阪から徳之島に帰る間には、鉄道もあるし、海もある。飛びこんでしまえ」〉(同)とハッパをかけられたという。

 命懸けで勉学に励んだ徳田氏は2浪後、阪大医学部に入学を果たす。73年、34歳の時に大阪・松原市に病院を開設。2年後に徳洲会の設立に至るのである。

 長年にわたり徳田氏に仕えた、能宗(のうそう)克行・徳洲会元事務総長(67)が明かす。

「徳田名誉理事長は最初に病院を作った際、自分自身に約1億7000万円の生命保険を掛けて、銀行から融資を引き出したのです。理事長の“生命だけは平等だ”という信念は本物。かつては生活が困窮している患者さんからは、3割の自己負担も受け取っていませんでしたから」

「信号無視を命じられ捕まることも」

 私生活では秀子夫人(86)とのあいだに2男5女をもうける一方、徳之島名物の闘牛のごとく、組織拡大の道を猛進。「年中無休、24時間オープン」を謳い文句に徳洲会を急成長させ、日本最大の民間医療グループへと育て上げた。その原動力は徳田氏の狂気にも似た、医療にかける情熱だった。

「理事長は時間を無駄にすることを嫌いました。立ち食いソバなんかを好んで、よく食べていましたかね。自分も含めて、お付きの人間が車を運転していても“青は気にせず渡れ、黄色は急いで渡れ、赤は左右を見て渡れ”。いずれも行かなくてはいけない。信号無視を命じられて、警察に捕まってしまい、点数を引かれるなんてしょっちゅうでした」(能宗氏)

 今ならパワハラ、コンプラ違反で一発アウトの事案だ。だが、徳田氏はそんなことは意に介さなかった。

「“俺の一分一秒を大切にしろ。俺の一分一秒は、患者さんの一分一秒だから”とこんな調子ですから」(同)

住民1人につき1万円のワイロ

 しかし徳洲会は全国展開を性急に行った結果、各地の医師会と衝突を繰り返すようになる。

 業を煮やした徳田氏は、旧態依然とした医療制度の改革を目指して83年、地元・徳之島を含む奄美群島選挙区に無所属で出馬。以来、対立候補である自民党の故・保岡興治(やすおかおきはる)元法務大臣と、血で血を洗う「保徳(やすとく)戦争」を繰り広げて行く。

 徳洲会の事情に詳しいさる関係者が言う。

「徳田理事長の陣営の中には選挙戦で身の危険を感じたのか、護身用の拳銃を持ち歩く者もいたのですが、実際には実弾ならぬ現金が飛び交う現場でした。奄美群島は産業に乏しく、経済的には豊かではない。住民は自分たちに何をしてくれるのかと要求してくる。飲み食いの接待なんて当たり前。あの地域では、選挙ブローカーから投票券1000枚いくらで買収を持ち掛けられることもありました」

 1回目の選挙は人件費を含めて、7億〜8億円を費やしたという。

「理事長はそれで十分だと考えたようですが、結果は落選。そこで、2回目は額を増やして20億円ほどばらまいた。投票と引き換えに、住民1人につき1万円渡すんです。ですが、相手方はそれ以上の額を用意したようで、その選挙も負けてしまった。相手方が30億円を用意したという話が流れた3回目、徳田陣営でも同額を用意して選挙に臨んだのです」(同)

一家を破滅に追い込んだ“金権体質”

 結果、90年に初当選。その後、ミニ政党「自由連合」を立ち上げて4期を重ねるも、2002年にALSに罹患してしまう。05年政界引退。次男・毅(たけし)氏(53)に地盤を譲った。

「志半ばだったのでしょう。毅氏を総理大臣にすることが理事長の悲願となりました」

 だがしかし、「保徳戦争」で培った“金権体質”が徳田氏と一家を破滅に追い込む。徳洲会が衆院選で毅氏の陣営に給与・日当を負担する形で職員を多数派遣していた、「徳洲会事件」が露呈したのである。

「13年9月、東京地検特捜部は徳洲会の強制捜査に踏み切りました。特捜部は秀子夫人や長女、次女ら徳洲会の幹部計10名を公職選挙法違反で起訴(その後、全員に有罪判決)。徳田氏自身は体調を考慮されて起訴猶予となりましたが、徳田氏を含めたファミリーは徳洲会の経営から退くことに。毅氏も訴追こそ免れたものの、議員辞職に追い込まれたのです」(社会部デスク)

 先の能宗氏が言う。

「徳之島には徳田家の墓がある。お母さんも土葬で埋葬されており、理事長は生前、その隣に自分が入る場所を確保していました」

 影に覆われた晩節だったが、光あふれる南国の故郷の土に還るというのである。

「週刊新潮」2024年7月25日号 掲載