写真提供◎photoAC

写真拡大 (全4枚)

父親による性虐待、母親による過剰なしつけという名の虐待を受けながら育った碧月はるさん。家出をし中卒で働くも、後遺症による精神の不安定さから、なかなか自分の人生を生きることができない――。これは特殊な事例ではなく、安全なはずの「家」が実は危険な場所であり、外からはその被害が見えにくいという現状が日本にはある。何度も生きるのをやめようと思いながら、彼女はどうやってサバイブしてきたのか?

この記事のすべての写真を見る

* * * * * * *

前回「性虐待被害者の特性を利用され、新たな性被害に遭った。後遺症に苦しむ最中に届いた一冊のエッセイ『死ねない理由』」はこちら

虐待の後遺症の一種である“慢性疼痛”

現在、私は虐待の後遺症を理由に、障害年金を受給しながら生活している。そんな最中、ある出来事が原因で後遺症が悪化し、生活が一変したことは前回のエッセイで綴った通りである。

心身へのダメージもさることながら、安定して働けない状況により経済基盤が大きく揺らいだことが、現在進行系で私の生活に多大なる影響を及ぼしている。

お金がない。

そのことがどれほど人を追い詰めるかは、実際に貧困を経験した人にしかわからないだろう。もちろん、どの生活水準を「貧困」と定義するかは人による。だが、例えば「体調が悪くても休む選択肢を持てない」人は、生活が安定しているとは到底言えない。

現在、私とパートナーは失われた経済基盤を立て直すべく、日々の楽しみを限界まで削っている。月に1〜2度のカフェでの息抜き、たまの外食、新しい服や下着、ネイルケア。これらはほぼ、私たちの生活から消えた。また、電車で片道2時間かかる通院も、交通費の心配から頻度を減らすよりほかなく、カウンセリングの機会が大幅に減った。

何より辛いのは、慢性疼痛を和らげるべくマッサージに通う頻度さえも減らさざるを得ないことだ。「マッサージ」と聞くと、贅沢品のように捉える人が多いだろう。だが、私のような虐待サバイバーにとって、マッサージに通えるか否かは死活問題につながるケースが多分にある。フラッシュバックや悪夢により、昼となく夜となく全身に力が入ってしまうため、筋肉が固まり酷い癒着が起きる。また、無意識に歯を食いしばっていることから、顎から首筋にかけての筋肉も固まりやすい。首筋の筋肉は、喉、ひいては肺周りの筋肉と直結している。それゆえに呼吸が浅くなり、日常的に息苦しさに襲われる。

“気持ち良さ”を求めてマッサージを受けたことなど一度もない。いつだって「まともに呼吸ができない」苦しみと全身痛に耐えかねて急遽駆け込むのだ。障害年金を受けている場合、マッサージが保険適応になる施設もある。だが、仮に保険が効いても、自立支援医療の対象外である。よって、毎日襲いくる痛みと息苦しさに喘ぎ、拙いながらも自己流で肩や首を指圧しながら不快感をしのいでいる。

“下”を下げても痛みは減らない

お金がほしい。贅沢をするためのお金ではなく、健康を維持するためのお金が、必要な治療を受けるためのお金が、切実にほしい。

“「下を下げることで相対的に自分を上げたがる人」というのは少なくない。生活保護を例にとってもそうだ。生活保護費が働いている人の給料より高いという逆転現象が起きることがある。この場合、なぜか、普通に働いても生活保護費より少ない給料しかもらえないことを批判するのではなく、生活保護費が高すぎる、という批判が起きる。”

生きる意味を見失いかけていた最中に届いた、ヒオカさんの著書『死ねない理由』。本書で綴られた言葉の意味を、私も常々実感している。「お金がない」と言えば、「もっと苦しい人はいる」と言われる。「後遺症が辛い」と言えば、「でも働けているんだから」と言われる。「生きるのが辛い」と言えば、「生きたくても生きられない人もいるのに」と言われる。

正直な思いを吐露するなら、それらすべてに「うるせえな」と思っている。自分より苦しい人、大変な人がいることなど言われるまでもなく知っている。知った上で、それでも苦しいのだ。救われたいのだ。だからこそ、「どうして」と思う現実を変えたいと願い、虐待や性被害、貧困の実態を広く知ってもらうために文章を書いている。それなのに、なぜか上記のような言葉で黙らせようとしてくる人は一定数存在する。


写真提供◎photoAC

「もっと我慢しろ」「もっとわきまえろ」「もっと申し訳なさそうにしろ」

そういう圧力を感じるたび、「絶対に黙ってなんかやらない」と強く思う。そもそも、痛みや辛さは他者と比べるものではない。当然ながら、余命わずかな人の前で希死念慮を口にしないくらいの分別は持ち合わせている。だが、見知らぬ他人が「生きたくても生きられない辛さ」と「生き続けることが辛い」側の痛みを己の物差しでジャッジするのは傲慢だろう。どちらも辛い。当事者にとっては、それが真実だ。

「弱者はずっと不幸でいろ」という圧力

例えば、この記事が公開になった後、私がSNS上でカフェの写真をアップしたとする。そうすると、高確率で揶揄が飛んでくる。「カフェに行くお金、あるじゃないですか」と。それが自死を思いとどまった翌日で、パートナーが仕事を中抜けして私を保護するほどの状況で、「明日もどうにか生きていこうね」と2人で泣くのを堪えて無理やり笑いながら飲んだ珈琲だとしても、そういった内情は写真には映らない。

“私が元気になればなるほど、私が好きな格好をすればするほど、憎悪を膨らませる人がいる。だから、前の状況に留まり続けることが、人の心を触発しない唯一の方法のように思えたのだ。”

貧困家庭出身のライターとして、社会における貧困問題に言及するヒオカさんは、「ずっと最低限で質素な格好をしないといけない」という圧力を日々感じているという。通ってきた苦難の道を語るとき、その人が渦中にいることを求める人は多い。その残酷さに気付ける人は一握りで、当たり前の顔をして「不幸を売り物にしている」などと言う。

「苦労を語るなら不幸でいろ」と思っている人に問いたい。下を下げて、我慢を強いて、その先にある未来は明るいのか、と。

昨夜、私が見た悪夢。今しがた眼前に蘇った記憶。そういうものだけを求めて、私の悲鳴だけを欲して、地獄にとどまることを無意識で願っている人を見るたびにゾッとする。中には私の文章を読んで、私のことを「寂しそうだから、自分が慰めてあげなければ」という歪んだ解釈をする人もいる。そのことが何よりも悔しくて、屈辱的だ。私は、そんなことのために書いているわけじゃない。


写真提供◎photoAC

精神疾患者に「羨ましい」という世間

“希死念慮って、漠然とした「あー死にてー」みたいなものじゃない。もう「死にたい気持ち」に細胞レベルで侵食されて、脳も感情も乗っ取られて、死ぬこと以外考えられなくなる。”

本書にあるこの一節が「わかる」人は、世間が思うよりずっと多い。理由や病名はさまざまあれど、精神疾患を患っている人の多くは、自身の病気の実態を隠す。精神疾患者に対する風当たりの強さと無理解を鑑みれば、事実を公にする人がごくわずかなのも無理からぬことだろう。「自分の周りには当事者はいない」と公言する人は、「カミングアウトする信頼を自分が得ていない」可能性を考慮したほうがいい。

希死念慮は、精神疾患による“症状”の一種である。言ってみれば、風邪で熱が出たり、花粉症で鼻水が出るのと同じことだ。しかし、なぜか精神疾患の場合のみ「自力でコントロールできるもの」として見做される。コントロールできない人は「心が弱い」と言われ、蔑みの対象になる。インフルエンザで高熱を出した人に「なぜ自力で発熱を避けられなかったのか」という人はいない。この一点においてだけでも、精神疾患がいかに偏見に晒されているかがわかる。

先日、JRグループが2025年4月1日より「精神障害者割引制度」を導入することを発表した。これまでは、身体障害者と知的障害者のみが対象とされていた本制度を、新たに精神障害者も利用できる流れとなる。支援対象者が広がることは、本来喜ばしいことだ。だが、SNS上では目を疑うような発言が多数見受けられた。


写真提供◎photoAC

「精神障害者手帳が羨ましい」

そんな言葉が拡散され、それらにつく無数の“いいね”に暗澹たる気持ちになった。大変なこと、辛いことが日々起こるのは、健常者も障害者も同じだろう。だが、持っているハンデが大きいからこそ「障害者」として認識され、手帳を交付され、障害年金などの支援を受けているのだ。そのことを「羨ましい」と言えてしまう人は、一度ここまで下りてきてみればいい。想像をはるかに上回る残酷な景色が広がっていることを、当事者だけが知っている。

「生きる理由」を思い出した

私は未だ、虐待被害による強いフラッシュバックと希死念慮に苛まれる苦しい時期を過ごしている。ヒオカさんの著書には、タイトルにある通り著者が「死ねない理由」が綴られていた。その詳細に関しては、ここでは明記しない。ただ、本書を読み終えて、私は「よかった」と思った。ヒオカさんが生きていてくれてよかった。生きて文章を書いてくれてよかった。何より、これから先の著者の人生が幸せであれと切実に祈った。


『死ねない理由』(著:ヒオカ/中央公論新社)

ヒオカさんの身にこれまで起きた苦難、置かれてきた境遇、現在進行系で抱えている問題は、決して「よくない」ことだ。だが、著者はそれらを冷静に外側から俯瞰し、“どうすれば自分と同じ境遇の人を減らせるのか”と心を砕き、信念を持って文章を綴っている。その生き様は、生きる意味が霞みがちな今の私にとって、強い杭となった。

“書くことで、人を変えることなんてできない。でも、たぶんそれで良い。ただ、読んだ人がほんの少しだけ、気持ちが豊かになるような。そんなものが書ける瞬間のために、今はもう少し頑張ってみようと思う。”

本そのものは無機物だが、本には人の魂が宿っている。過去も今も、そしてこれからも、私は本に生かされる。私の「死ねない理由」「生きたい理由」「諦めたくない理由」の根源につながるものが、本書には詰まっていた。
私は、書きたい。まだまだこの先も、書いて生きたいのだ。

もう少し、がんばってみよう。

著者の想いに共鳴し、そう思えたからこそ、私は今、この文章を書いている。昨日は、庭の一角を鍬(クワ)1本で開墾して新たに畑を作った。汗をかき、水分を欲している体は、たしかに生きようとしていた。

※書籍引用箇所は全て、ヒオカ氏著作『死ねない理由』本文より引用しております。

◆家庭内での虐待などに関して、警視庁でも相談を受け付けています。
 児童相談所虐待対応ダイヤル 189(通話料無料) HPはこちら