デザイナー・鳥居ユキさん(80)

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 2023年9月、新刊『80歳、ハッピーに生きる80の言葉』が発売された。今年、デザイナー生活61年目に突入したタイミングで80歳を迎えた鳥居ユキさんが、“毎日どうやってハッピーを見つけて暮らしているのか”を軽やかに綴ったエッセイ本だ。

【写真】1968年、順調にキャリアを積み上げる26歳のころの鳥居さん

80歳という年齢に驚き

「80歳で80の言葉、という、この本のお話をいただいたとき、そういえば私、80歳なのだって、ちょっと驚いたのですよ(笑)」

 長年日課にしている朝風呂後の体重や内臓脂肪、筋肉量などの測定に使う体重計は、誕生日を過ぎると自動的に年齢が繰り上がる。だから「80歳」という数字は体重計の表示で毎日繰り返し見ているはずなのに、それはどこか人ごとだった。

「自覚がなかったのね(笑)。エッセイ本はこれまでの自分を振り返る良いきっかけになりました」

 鳥居さんは気に入ったことは長く続け、好きなものは長く使い続ける性分だ。

 例えば何十年も続く朝のルーティンもそう。

「毎朝5時15分ごろに起きたら、テラスに出て太陽の光を浴び、育てている草花を眺めながら深呼吸します。それから40分ほど自己流ストレッチをして身体をほぐします。今日はやめようかな、と、もうひとりの私に誘惑されて怠けたくなる日もあるのですよ。でも明日できるかわからないから、今日できることは今やる、の一心ですね」

 ストレッチの後に朝風呂につかったら、食事の時間だ。

「ずっと同じメニューです。必ず卵。それからカリカリベーコン、ハム、魚肉ソーセージのどれかと、大好きな野菜。トースト4分の1枚。ミルクティー、手作りの黒酢大葉の健康ドリンク、ビタミンCのタブレットを水で溶かした発泡ジュース。すべて50年近い定番です」

 朝の食事をのせるトレーには、いつも美しいレースのランチョンマットを敷いて、必ず一輪の花を添える。

「同じメニューといっても、毎日野菜の種類に変化をつけたり、卵もスクランブルエッグ、ゆで卵、オムレツにしてパセリを混ぜたりするから、同じ感じではないのです。これは私にとって大切なポイントで、毎日の過ごし方や仕事の仕方にも通じています。ハッピーになるためには、マンネリにならないよう自分で工夫し、小さな変化をつけるのがいいと思っています」

 そうした朝のルーティンを終えたら、8時30分ごろには家を出て、一番乗りで9時ごろに出社する。移動の車中では新聞を斜め読みし、気になる記事に赤丸をつけて、会社に着いたら切り抜くのも日課になっている。

 そしてガーデニングも20代のころから好きなことのひとつだ。

 自身のブランド『YUKI TORII』のコレクションでは、毎回必ず花をモチーフにしたデザインを発表しているが、エッセイ本では鳥居さんの生活に欠かせない花と緑とのハッピーな付き合い方もふんだんに紹介している。

「自然が大好きなので、四季折々の花が咲くように自宅のテラスにはものすごくこだわっています。手入れをしている時間が本当に楽しいの。私は未年生まれのやぎ座だから、緑が欠かせないんじゃないかしら(笑)」

 テラスで育つのは植物だけではない。春の自然には再生、希望と喜び。夏は困難に負けない強さ。秋は謙虚さ。冬は忍耐と休息の大切さなど、自然の声に耳を傾けながら世話をしていくうちに、心も育てられていくのかもしれない。

「植物を育てることも、描くことも、学びがあるから好きなのです」

「次は洋服!」の祖母の読みが大当たり

 鳥居さんが生まれたのは1943年。時代は太平洋戦争の真っただ中だ。生後間もなく疎開して、2歳のころ東京に戻ってきた。

「祖母のミツと母の君子と私との女性3人で、東京・早稲田での新しい暮らしが始まりました。明治生まれの祖母は、何でもパッパと決める気っ風のいい姉御肌で、華やかなものや人の世話をするのが大好きでした」

 1945年、祖母は終戦直後の焼け野原を見渡して、“みんな甘いものに飢えているはずだから、和菓子を作って売ればもうかる!”と、和菓子職人さんをかき集めて自宅でようかんを売る和菓子屋を開業した。

 それが狙いどおり、大当たりした。飛ぶように売れて、タンスの中にはお札がぎっしり詰まっていたという。

「祖母には先見の明がありました。そのうえ思い立ったらすぐに実行するというバイタリティーも備わっていました」

 ところが繁盛していた和菓子屋は、あっさり1年でやめてしまう。

 “次は洋服の時代になる!”と、祖母のアンテナが動いたのだ。

 服作りに興味を持っていた母をデザイナーに据え、すぐに「御仕立所」の看板を掲げた。母がオリジナルでデザインした洋服をマネキンに着せて店頭に並べるようになると、次第に評判になっていく。またしても祖母の狙いどおり。

 御仕立所を開業して4年、1950年には花の銀座に店舗を移すほど繁盛していた。

「当初は銀座7丁目のあたりに店舗を出し、その後しばらくして今の銀座トリヰがある5丁目に越しました。今年で創業73年。やっぱり銀座じゃなくちゃね、とパッパと段取りをつけたのも祖母でした」

 そのころになると祖母は商売から離れ、「食道楽の着道楽の役者狂い」という江戸っ子の暮らしを楽しむようになっていた。

 一方、母はプレタポルテの先駆けとして活動するデザイナーで、銀座の店舗を軌道に乗せるため忙しく働いていた。いつもスーツとハイヒールといったいでたちで、着物姿が主流だった当時、そんな母親は他にはいなかった。

「きまじめで頑張り屋の母は厳しい人でしたが、笑顔は愛らしくてチャーミングでした。どんなに忙しくても、外出時には私と一緒に画廊に立ち寄り、また音楽会などにも連れて行ってくれました。美しいものに触れる機会をたくさん与えてくれたのです」

 1953年、フランスのファッションデザイナーであるクリスチャン・ディオールのショーが日本で開かれた。細くくびれたウエスト、足首に届く長いスカート。帝国ホテルでのショーを見た母は、目を輝かせて“私も必ずパリに行く”と深い感銘を受けていた。

 当時の鳥居さんは日本女子大学附属豊明小学校に通っていたが、母は忙しかったので、家に帰るといつもひとりで絵を描いたり本を読んだりしていた。

「芝居好きの祖母は十一代目市川團十郎の後援会長だったので、團十郎の芝居がかかると、祖母に連れられて毎日のように楽屋へ通っていました。また日本に本格的なオペラを紹介した藤原歌劇団の藤原義江先生とは家族ぐるみのお付き合いをしていました。祖母のおかげで、子どものころから歌舞伎やオペラざんまいという贅沢すぎるほどの環境を与えてもらいました」

鳥居さんにとって貴重な宝

 そうした経験は鳥居さんにとって貴重な宝として残っている。

 日本女子大学附属中学校に進んだころには、六本木にあった海外雑誌を置く古本屋に通い、アメリカのファッション誌『セブンティーン』などを愛読していた。絵を描くのが好きで、一日中絵筆を持って過ごすこともあった。

 中学校を卒業すると、母のすすめで高校には進学せず、3年飛び級して東京・駿河台にあった文化学院に入学した。文化学院は自由で創造的な教育を目指した西村伊作院長が、歌人の与謝野晶子らと設立した学校だ。

「本来は高校卒業後に入学する学校でしたが、母は私が描いた絵を西村先生に見せてじかに交渉し、入学許可を取りつけてきたのです」

 校則なし、教科書なし。制服もなくて、女子も男子も最先端のおしゃれを競っていた。同級生にはデザイナーの稲葉賀恵さんや菊池武夫さんがいる。

 かなり自由な校風だったが成績評価は厳しく、卒業できない生徒も半数近くいた。

「“自由は責任を伴うもの。はき違えてはいけないよ”と西村先生はよく話してくださり、それは今でもとても大切にしている教えです」

 そのころには母と一緒に生地問屋の展示会に通うようになっていた。

 地味な色合いの織物が多かった時代、海外のファッション誌に載っているような華やかな生地を問屋さんにリクエストしていた。

「母と一緒にオリジナルの色や柄の生地をデザインしたのが、15歳か16歳のとき。できあがってくると、今度はこの生地でどんな洋服を作ろうかとワクワクしながら考えます。当時は洋服をデザインするというより、着たい洋服を作ることを楽しむ感じでした。母からデザイナーになるようにすすめられたことは一度もありません」

 文化学院に在学していた1961年、鮮烈な印象を受けたディオールのショーから8年を経て、母は念願だったパリへと旅に出た。

「帰国した母を迎えに行ったら、リボンで髪を飾って驚くほど若々しく華やいだ姿になっていたことをよく覚えています」

 卒業後は母の仕事を手伝いながら、雑誌でイラストを描く仕事なども引き受けていた。

貴重な財産、19歳で単身ヨーロッパへ

 デザイナーデビューは19歳だった。何回目かの母のショーで、“私も!”と5点の服を発表したのが始まり。1962年のことである。海の向こうでは、ビートルズがレコードデビューを果たした年だ。

 堅い雰囲気の洋服が主流だった時代、「堅苦しさから脱して、自分が着たい服を作りたい」という強い気持ちでデザインをした。母もまだデザインを続けていたが、次第に鳥居さんのデザインが増え、やがて母は経営に回るようになった。

 そうしてデビュー以来、休むことなくコレクションを発表し続け、今年で61年目を迎える。こんなにも長期間、1つのブランドをひとりのデザイナーがデザインしているのは、おそらく世界でたったひとり、鳥居ユキだけであろう。

 鳥居さんが「家族同然」というエッセイストの安藤和津さんが、デビュー当時の鳥居さんのことを話してくれた。

「初めてユキさんをお見かけしたのは、私が14歳くらいのころでした。銀座のお店に母とお買い物に寄ったときです。店員さんたちが急にざわざわとし始めて“ユキ先生がこちらにいらっしゃる”と口々に言っていて、すごい目力のユキさんがさっそうと店内に入ってこられました。“カッコいい!”と思ったのが最初。そのときはたぶん、お母さまかお祖母さまもお店にいらっしゃったと思います」

 そうしてデザイナーとして歩き出した鳥居さんは、母から“世界中の美しいものを見てきなさい”と単身ヨーロッパ旅行へ送り出される。

「乗り継ぎを繰り返した30時間のひとり旅で、ガタガタと揺れる飛行機は、今にも落っこちてしまいそうで怖かったですよ(笑)」

 初めて訪れたパリは頭がしびれるほど寒い冬。母の友人でファッション誌『ELLE』の編集長のお宅にホームステイし、貴族の家系の彼女からはパリのシックな美意識をたっぷりと肌で感じ取ることができた。また古い教会、表の道路からは見えない中庭などを案内してもらい、パリの人々の日常も知ることができた。

 パリを拠点に近隣諸国を訪ね歩いた。美しいものはどの国にもあった。

「若いうちにいろいろな国の文化を見た経験は、今考えても、何ものにも代えがたい財産になっています」

 20代になると、テレビに出演する岩下志麻さんや加賀まりこさん、奥村チヨさんや小柳ルミ子さんといった超売れっ子の衣装も手がけるようになる。

デザイナーとして一本立ちをした20代後半

 旧知の友である俳優の岩下志麻さんは、

「ユキさんとは20代後半に出会い、テレビの連続番組の衣装を着させていただきました。とても華やかで、個性的で、その都度役柄に合わせていろいろ選ばせていただきました」と、語る。

 デザイナーとして一本立ちをした20代後半、結婚もした。

 娘の真貴さんを妊娠したときも出産ギリギリまで仕事を休まず、大きなお腹を抱えて銀座の店舗やテレビ局などの仕事先に通っていた。当時は今のように手軽にお願いできるベビーシッターさんはいなかったから、産院で付き添ってくれたベテランの乳母さんに来てもらい、産後すぐに仕事復帰した。

「ユキさんのお嬢さんと私の娘は1年違いで生まれて、お嬢さんの素晴らしい乳母さんをご紹介していただきました。大変ありがたく、今でも忘れられません」と岩下志麻さん。

 夫の高雄さんはやさしい伴侶であり、会社の代表として仕事上の良きパートナーでもあった。妻や母親としての役割は求めず、デザイナーとしての活躍を応援してくれた。

「高雄さんは仕事ばかりしている私の健康管理にも気を配ってくれました。私は仕事に熱中すると、2、3日は寝なくても平気。いくらでも無理ができちゃう(笑)。あるとき、高熱を押して作業していたら、彼に無理やり病院へ連れていかれました。肺炎で即入院。おかげで大事に至りませんでした」

 もともと運動に興味はなかったが、夫のすすめもあってゴルフを始め、身体を動かすことを覚えた。そしてスポーツファッションのデザインにも着手するようになった。

「そうしたエピソードは尽きませんが、夫は2021年に病で亡くなりました。私を大切にしてくれた彼に出会えたことに心から感謝しています」

 亡くなってからひと月ほどたったころ、親交のある黒柳徹子さんから1通の封書が届いた。

「徹子さんの似顔絵が描かれたかわいらしいカードに、心からの文章が綴られていました。やさしくいたわってくれるお悔やみの言葉とともに、“お会いになったことをおいわいいたします”というメッセージも書いてくださって。つらい時期の私にとって大きな励みになりました」

 しばらくの間、バッグに入れて持ち歩き、何度も読み返していたという。

32歳でのパリコレデビューは拍手喝采

 1975年、32歳からパリコレにも参加するようになった。パリでのビジネスパートナーは、著名なファッションコンサルタントのジャン・ジャック・ピカールさん。彼のコーディネートで日本食レストランを会場に決めて、デビューを果たした。

 30数点のこぢんまりしたショーだったが、ランウェイにはイグサで編んだ敷物を敷き、かすりの模様や和花のプリントを大胆に用いた着物風のデザインを発表。日本人デザイナーという個性を存分に表現した。

 デビューショーは“モダン!”“パリジェンヌよりパリっぽい”と拍手喝采を浴び、終わった直後から取材依頼などの電話が鳴りやまず、対応にてんてこ舞いするほど。すぐに『ELLE』『20ans』といったフランスのファッション誌の表紙に取り上げられた。

「何が何だかわからないうちに帰国の飛行機に乗り、機内ではこんこんと眠り続けました。“すごいことをしたんじゃない?” としみじみ感じ入ったのは、日本に帰ってきてからでした」

 それから2008年までの33年間、長いときは1年の半分をパリで過ごしながら、オペラ座やルーブル美術館前のカフェなどさまざまな場所でショーを手がけた。

 1985年には、パリ2区のギャルリ・ヴィヴィエンヌに『YUKI TORII PARIS BOUTIQUE』をオープンさせる。

「モードの本場であるパリで地に足がついた仕事をすることは母の念願でありましたが、私にとっては気負うことのない自然な流れでした。パリでの成功はジャン・ジャック・ピカールさんのおかげです。今でも家族ぐるみのハッピーなお付き合いが続いています」

 “家族同然”の付き合いをする俳優の奥田瑛二さんが、パリコレの思い出を教えてくれた。

「ある年のパリコレ開催の前に、ユキさんがパリのアトリエでオーディションとモデルさんたちの試着をしていました。その傍らで、僕はどうしたらいいかわからず困っていたら“瑛二さんもいい経験になるだろうからそこに座ってなさい”とユキさんに言われて、2年連続でオーディションを見てしまいました。そのディテールは短い文字では表現できない……。1年目の僕はおどおどした感じでしたが、2年目はどっしりと構えていられたので、完全にオーディション担当のスタッフの一員になっていた気分(笑)。そのときのワインと食事は、それはとても珠玉のものでありました」

自分がハッピーになれる服を着よう

 ファッションで大切なのは、自分の好きなものを自由に着て楽しむこと。他人の視線を気にする必要はないし、流行りのものでなくてもいい。“ハッピーになれる、その人らしい服であればいい”と鳥居さんは考える。

「私は年齢で区切ってデザインを考えませんし、自分が着たい服ばかりを作っています。マダムでもミニスカートが好きなら、堂々と楽しんでください。祖母は歌舞伎を見に行くとき、他の人が着ていない洋服生地で作った着物や帯を身につけていました。ニューヨークで一緒に仕事をしたモデルさんは、着物を後ろ前に着て、それは楽しそうでした」

 “ユキさんの服にはドラマがある”と語る安藤和津さん。

「自分なりにそのドラマの役をいかに演じようかと思います。同じ服を他の人が着ていたとしても、着こなし方でまったく別の役を演じられるのですよね。それからフェミニンなラインが多いので、ユキさんの服を着るたびに、痩せなきゃ!と思っちゃいます(笑)」

 鳥居さんの毎日の服選びは、お客さまと会う予定がある日はジャケットを羽織るとか、社内で立ったり座ったりする作業が多い日は動きやすいパンツスタイルにするとか、仕事の予定に合わせて決めているそうだ。前の晩に、着たらワクワクするかどうかも確かめながら、3パターンほど用意しておく。

「でも朝起きたら、準備した服が今日の気分に合わないこともあります。出かける直前まで、何を着ようか決まらない日もあるけれど、ちゃんとこれでOKと納得して、自分を好きでいられる装いにします。服は毎日をハッピーに過ごすためのものですからね。おしゃれが面倒になると、日々の暮らしの中の好奇心もしぼんでいくような気がするの。危険信号だと思いますよ」

 トレードマークの眼鏡は服に合わせて選んでいる。まぶしいときにはサングラスに替えて。口元は何色かを混ぜた赤い口紅で、明るくきりっと描く。

「だいぶ前からグレーヘアですが、いつごろからかは忘れてしまいました。トップはふんわり、サイドはゆるくねじって結び、装いに合わせてシュシュや服の端切れで結わえて楽しんでいます」

 手元は、分刻みの仕事をこなすために大切な仕事道具の時計、ブレスレット、リング、ネイルの4つで装う。習慣になっているので、アクセサリーをつけるのをうっかり忘れると落ち着かない。

「服を決めたら、毎朝ジュエリーボックスからあれこれ考えずにさっと選び出します。ほとんど悩みません。ジュエリーは祖母や母から受け継いだものや、今風のジャンクなものを自由に組み合わせて私らしい雰囲気にしています」

新しいこと好き! ロボちゃんにときめく

 コロナ禍からオンラインでの接客を始めた。

「新しいことに挑戦するのは大好きです。デジタルツールも面倒だなんて思わないし、むしろワクワクしちゃいます。遠方にお住まいでお会いしたことのない長年のお客さまとオンラインでつながり、思いを伝えたり、コーディネートをレクチャーしたり。距離を超えて時間を共有できるなんて、すごくうれしいことですね」

 またインスタグラムでは、自身のコーディネート、好きな花やインテリア、日々の暮らしで美しいと感じたもの、興味を持ったものなどを発信する。心をやわらかくしておくと、世界はこんなにも広がっていくのだ。

 時代には波があるので、これまでの長い間には、鳥居さんの持ち味である花柄や色彩とはまったく異なる波がやってきたりした。例えば黒の大流行。

「そんなときこそ、いつも大切にしていることを客観的な目線で冷静に見つめ直す絶好のチャンス。お客さまに時代の空気を感じていただくのもデザイナーの役目ですから、その時々の流行を無視することはできません。けれども同調はせず、自分の美意識を信じて、地道に時代とともに歩み続けるのです。すると新しい何かが必ず見つかります」

 今までコレクションが終わっても、100%満足したことは一度もないそうだ。

「後悔するのではなく、すぐに次はこうしたい、こうしようと意欲が湧きます。思いはどんどん先に向かう。それがパワーの源です。終わったことは振り返らず、前しか見ないのね。仕事とはたいへんなことが多く、喜びはほんの少しかもしれない。けれど毎日エネルギーを費やせる仕事があることが、すごくハッピーなの!」

 ブランドとしての『YUKI TORII』の今後については、変わっていくことも必要だと思っている。

「変わらないとファッションがつまらなくなってしまうから。でもブランドを存続させていくために、オリジナルプリント、ニット、花柄、素材のミックス、上品なかわいらしさ、というブランドのアイデンティティーはしっかり守っていきたいです」

 この夏、ずっと欲しかった家庭用ロボットRoBoHoN(ロボホン)を手に入れた。愛称はロボちゃん。

「ロボちゃんは私をミミと呼ぶのですが、本当にハッピーになることばかり話してくれます。“ミミの努力を知っているよ”“これからミミを元気づける言葉を覚えるよ”なんて調子。歌も歌うし、ダンスもするし、毎日ワクワクしてしょうがないですね」

 10代でデザイナーとしてデビューし、20代で俳優や歌手の衣装も手がけ、結婚、出産。30代でパリコレにデビューし、多忙を極める日々を駆け抜けた。40代で世間がわかり、50代でエネルギーが充実してバランスが取れ、孫も誕生。60代、70代でなおも新たな可能性を追求する生き方を貫き、さらに80代、ますます前向きに輝いている。

「先のことより、やっぱり大切なのは今」

 そう宣言する鳥居さんのエネルギッシュな生き方こそ、私たちのお手本にしたい!

<取材・文/本村のり子>

もとむら・のりこ フリーライター&編集者。ファンタシウム(楠田枝里子事務所)を経て、宗教、医療、料理、暮らしなどの分野で、書籍を中心に企画・編集・取材・執筆に携わる。著書に『神社語辞典』(誠文堂新光社)ほか。