灘中学校・高等学校。※写真は緊急事態宣言時の時のもの(写真:ラディポ / PIXTA)

浪人という選択を取る人が20年前と比べて2分の1になっている現在。「浪人してでも、志望する大学に行きたい」という人が減っている一方で、浪人生活を経験したことで、人生が変わった人もいます。自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した濱井正吾さんが、さまざまな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったこと・頑張れた理由などを追求していきます。今回は西日本一の超進学校からゲームセンター通いにはまって4浪し、立命館大学に進学。その後再受験を決断して25歳の夏から医大専門の予備校に通い始め、7浪の年齢で香川大学医学部に進学したリプトンの人さんに話を伺いました。

みなさんは、超進学校にどのような印象を持っていますか。

「人知を超えた天才が行くところ」「宇宙人で話が通じない」と言った、挫折経験のないエリートのような印象を持つ方もいらっしゃるのではないでしょうか。

今回インタビューしたリプトンの人さんも、西日本で不動のトップである兵庫県の灘中学校・高等学校に進学し、卒業した方です。

在学中にゲームセンターにはまる


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しかし、彼は在学中にゲームセンターにはまってしまい4浪を経験します。それでも彼はその挫折経験すらも肯定的に捉え、いまでは大勢の人から慕われる立派な医者として活躍しています。

浪人経験が彼の人間性をどのように変えたのでしょうか。その内面に迫っていきます。

リプトンの人さんは京都で医師をしている父親のもとに生まれ育ちました。教育熱心な京都の中心部の小学校に通っていたこともあり、周囲も中学受験を見据えて勉強をしている環境だったようです。その環境の中でも、彼はずっと学年1〜2番の成績をキープし続ける秀才でした。

「同級生の多くが受験をする空気だったので、自分も小学5年生のときに中学受験の予備校である希学園に通い始めました。毎日夜の11時まで塾で勉強して、それから帰宅して課題をやり、日付が変わってから寝て起きて小学校に行く。そうやって勉強していたら、灘中学校に合格できました。今思ったら、あの時が人生でいちばん勉強した日々でしたね

日本最高クラスの難易度を誇る超進学校、灘中学校・高等学校。ここでの生活を、彼はこう振り返ります。

「灘に入れて、通うことができてよかったなと思います。勉強してないように見えて、実はしている人が多い学校でした。医者や弁護士や社長、官僚の息子などが多いですし、私の同級生もそうした仕事に就いています。

私が入った医学部は働くのに国家資格を持っていればいいので、そこまで仕事に密接には関わってこないのですが、文学部や工学部など、ほかの学部に入る人は、将来仕事をするうえでさまざまな人とのつながりがあることはすごく大きいと思います。私は進学校やいい大学に行くメリットは、そうした人脈面が大きいと思います

周りに負けないよう頑張っていた

そんな日本最難関級の中学に入ってからも、リプトンの人さんは優秀な周囲に負けないようにしなければならないと奮闘していました。

「中学に入ってからも赤点はそんなに取っていません。真ん中からやや下の成績は取っていましたが、決して最下位近くではありませんでした」

なんとか下位3〜4分の1くらいの成績で踏ん張っていたリプトンの人さん。「もともと勉強が好きではなかった」と語る一方で、かなり健闘していたようです。

しかし、のちに彼は学年順位を大きく落とすことになります。その要因となったのが、「ゲームセンターにはまったこと」だったと言います。

「私は自宅がある京都から、灘中学校・高等学校の最寄りの住吉まで2時間かけて通っていました。定期券があるので、途中下車がいくらでもできます。中3くらいになると、毎日大阪駅で降りてゲームセンターに寄る癖がついてしまいました。多いときには週8で通っていましたね(笑)。それで成績がワースト3位になってしまって、勉強へのやる気をなくしてしまったんです

中学校から高校へと進学しても、成績が上がることはなかったようです。

「1日数時間だけ勉強をして、あとは遊んでいましたね。親が医者だったので京都大学の医学部を志望校に設定したのですが、ずっと模試ではE判定。初年度はセンター試験で8割を切ってしまいました。京都大学医学部に出願して、落ちてしまいました」

こうしてリプトンの人さんは浪人を決断します。浪人しようと思った理由は「働きたくなかった」ことが大きかったようです。

「親が医者だから医学部に受かるまでは勉強しようという感じでした。1年目は代々木ゼミナールに通って勉強をしていたのですが、ネットカフェに1日中いるような日もありましたね」

プレッシャーを感じていなかった

そうした生活をしていたためか、なかなか結果には結びつかなかったようで2浪、3浪と浪人の数を重ねていってしまいました。落ちた理由に関して深く掘り下げてみたところ、「プレッシャーを感じていなかったから」だと当時のことを語ってくれました。

「2浪目以降も1浪目とはそんなに生活習慣は変わりませんでした。数時間勉強して、あとはゲームセンターやすでに大学に受かっていた友達の家でダラダラと遊んでいました。2浪目以降も医学部を受け続けたのですが、落ちてしまっていたので、3浪目くらいからは法学部も受けるようになりました。それも落ちてしまって、4浪目に突入しました」

それでも勉強を完全にやめてはいなかったために、じわじわと毎年成績は伸ばしていき、1浪目にはセンター試験が8割を超えるようになり、4浪目には88%にまで到達しました。

「この年くらいでそろそろ決めないといけないと思っていたんですが、前期試験・後期試験ともに出願した地方国公立の医学部に落ちてしまいました。でも幸い、立命館大学の法学部にセンター利用(※センター試験の成績だけで合格判定する入試)で合格したので、そちらに進学しました」

4年続いた浪人生活を終え、立命館大学に進学したリプトンの人さん。

大学に入ってからは、当時流行していたニコニコ動画にピアノの演奏や楽器の練習の動画をあげていたそうです。

「浪人していたときにアニメソングをよく聞いていたので、それを演奏したものを投稿していました。それを人に見てもらえるようになって、有名になれたので嬉しかったです。今でも大学時代に入っていた軽音楽部でOBとして、学生のライブに参加させてもらっています」

浪人時代に身につけた娯楽を、大学で生かしていたというリプトンの人さん。

しかし、大学に進学してからも勉強には身が入らずに留年が確定します。

「大学にほぼ行かなかったので2年半で6単位しか取れませんでした。浪人から解放された反動で、さらに遊んでしまうようになったんです。50人対50人で戦争をするネットゲームにはまり、大きめのチームに所属してのめり込んでいました。どれくらいそのゲームに時間をかけたかを計算したら、1年で2000時間使っていました

「ボイスチャットを導入して連携を取り合ったゲームの経験で、人へのお願いの仕方や指示の出し方を学べたので、現在の医師の仕事に生きています」という話からは、どんな経験にも無駄はないのだと思わされます。

ただ、当時はそれどころではありません。この生活に危機感を抱いたリプトンの人さんは、3回生の夏には大学を辞めることを決断し、再受験を決意します。

もう一度「医師になろう」と決意した

「私は4浪してしまったのでそのまま卒業しても新卒では採用されないだろうし、どこかで自分の意識を変えないとしっかりした社会人になれないなと思っていました。それを考えると将来が不安になって、何かしら手に職をつけないといけないと思ったんです。

だから、もう一度医師になろうと思い医学部を目指しました。親にも申し訳ないと思ったのですが、これをラストチャンスにしようと思って、大学を辞めて九州にある医大専門の予備校に通わせてもらうことに決めたのです」

25歳になる年の夏から予備校に通い出したリプトンの人さん。

もともと能力がある彼は、ここから心を入れ替えたように勉強をし、目覚ましく学力を伸ばします。

「夏から半年間、1日10時間の勉強をしました。灘中学校に入る前の次くらいは勉強したと思います。その結果、神戸大学の医学部でB判定が出て、センター試験でも94%取れました。この成績を受けてどこに出願するかを考えたのですが、地盤などを考えた結果、医師をやっている父親の地元に戻ったほうがいいと考えて、香川大学に出願しました」

併願で受けた大阪医科大学(現・大阪医科薬科大学)の特待生合格という結果を受けて自信をつけたリプトンの人さんは、こうして前期試験で香川大学医学部に合格しました。

「長い間フラフラしてしまいましたが、ようやく親を安心させることができました。よかったなと思います」

高校卒業から合計7年間の浪人生活に終止符を打ったリプトンの人さん。

浪人してよかったことを聞いたところ、「勉強以外の学びがたくさんあったこと」だそうです。

ゲーセンでの友達作りが今に生きている

「私はずっと浪人時代にゲームセンターに通っていましたが、そこで出会った友達が人生を豊かにしてくれました。ゲーセンにはいろんなタイプの人がいます。灘中学校や高校に来る人や、そこから大学に入って会う人はお金持ちの息子が多いのですが、患者さんはそうではありません。ゲーセンと同じようにさまざまな背景を持つ方がいます。

そうした方々の状況を理解したうえでコミュニケーションを取っていかなければなりません。当時ゲーセンで友達を作ったことが、今の仕事を円滑に進めるうえでとても役に立っていますね。ストレートで大学に進学していたら一生深く交流できなかった方々とつながれたことが、人間としての幅を広げてくれました

また、自分が頑張れた理由に関しては「必要なことにお金を惜しまない親だったから、生きるのに困らなかった」こと、浪人生活で志望校に落ちた経験は、行動面・精神面での自信につながったそうで「人に優しくなれた」とも話してくれました。

「自分は中学までは頭がいいと思っていました。でも、挫折を経験して、そうした鼻についた感じがなくなって謙虚になれたと思います」

今、大学を4留したもののなんとか卒業し、香川で医師の仕事をしているリプトンの人さん。最後に、自身の浪人の経験を振り返って、進路選択に悩む学生にアドバイスをもらいました。

大学はゴールではない

「浪人はお金がかかることなので、するなら将来設計を考えたほうがいいかもしれません。今の社会では、大学は就職予備校になっていることを考えつつ、進路選択をするのがいいかなと思っています。

大学がゴールではありませんから。とはいえ、『研究職で一生を過ごしたい、だからそのために自分はどうしてもこの大学に行かないとダメなんだ』って人は、自分の望みを叶えるためにもそこにたどり着けるまで浪人するのはいいことだと思います。いずれにせよ、自分の人生なので、最終的に納得できるように頑張ってほしいです

一見遠回りとも思える数年を経験した彼からは、浪人を通して養った、豊かな人間性が感じられました。

(濱井 正吾 : 教育系ライター)