稲盛和夫氏と現・KDDI(第二電電)を立ち上げた千本倖生氏が設立の裏側を明かす(写真:Akio Kon/Bloomberg)

NTTの前身となる電電公社から転じ、京セラ創業者の稲盛和夫氏とともに民間の電話会社「第二電電」を1984年に設立し、KDDIを育て上げた千本倖生氏。第二電電の設立当初は社員30万人の巨大企業に数人で立ち向かった。その姿は「巨象に立ち向かうアリ」とも揶揄されたが、KDDIは誰もが知る大企業となった。

裏側では何があったのか。千本氏が書き下ろした新刊『千に一つの奇跡をつかめ!』から第二電電設立前後の経緯を綴った章を抜粋、一部再編集して3回で連載。第3回をお届けする。

第1回:電電公社を辞めKDDIを創った男に見えていた本質(4月15日配信)
第2回:稲盛和夫と共にKDDIを創った男が得た経営の神髄(4月22日配信)

名経営者の一言で決まった「泥臭い」社名

ちなみに第二電電の設立には、ソニーの盛田昭夫さん、ウシオ電機の牛尾治朗さん、セコムの飯田亮さんなどの協力も仰いでいます。

巨大な電電公社に対抗するのに、第二電電をバックアップするのが京セラ一社では心もとないことから、こうしたベンチャー精神にあふれた、活きのいい経営者の方々にも加わってもらおうという稲盛さんの深謀遠慮からでした。

このなかでは年長の盛田さんが兄貴分でしたが、その盛田さんもまた、いうまでもなくすぐれた先見力の持ち主でした。

最初の頃の役員会の席上だったと記憶しますが、第二電電の事業の実務面は私にまかされていましたから、私は事業の目的や内容、戦略や方向性などを考案し、それを記したコンセプトペーパーを用意して会議に臨みました。

その冒頭、兄貴分の盛田さんがこんな提案をしたのです。

「ここにはいずれも一騎当千のサムライがそろったが、みんな一家言あって、うるさい連中だから、あれやこれや口出ししてはかえって経営はうまくいかない。船頭多くして船山に上るということわざもある。そうならないためには、経営の主導権は稲盛くんに一任して、われわれは応援部隊にまわろう。金は出すが口は出さない、これが原則だ」

これには他の方々も賛意を示して、経営については稲盛さんに、実際の事業プランニングや推進については私にまかせるという合意が得られました。この寛容な提言に、私は内心で感謝しました。

ところが、私が用意したコンセプトペーパーに従って事業プランをプレゼンテーションし、会議がかなり進んだ頃になって、ある問題に関して、当の盛田さんがさっそく異議を唱えたのです。

それは「第二電電」という新会社の社名についてでした。

この名前は私が考えたプロジェクトネームで、あくまで仮称のものでした。正式にはもっと別の「ワールド○○○」といった横文字の入ったおしゃれな社名を考えており、コンセプトペーパーにもその候補名をいくつか記してあったのです。

「第二電電」の誕生

それで社名の検討に入ったとき、私が横文字入りの名を提案したところ、盛田さんが「そんなカッコいい社名はかえってよくない。それより、ここに書いてある『第二電電』というのがいいじゃないか」と反対意見を述べたのです。

自らの会社にもSONYという英語表記の社名をつけ、グローバルな視点をもち、ブランディングについても一家言をもっておられた盛田さんが、第二電電という泥臭いプロジェクトネームを推す真意を測りかねて、

「これはあくまでプロジェクト名です。日本でいちばんの通信会社をめざそうというときに、自ら『第二』を名乗るのはいかがなものでしょう」

と私は反論しました。

しかし、盛田さんは間髪をいれず、こう返してこられた。「千本くん、それは少し認識不足だな。横文字の社名はたしかにカッコいいが、いちいち説明が必要でわかりにくい。第二電電なら一発で、『ああ、二番目にできた電話会社だ』と老若男女の誰にもわかるじゃないか。泥臭いかもしれないが、こういう通りのいい名前の大衆への浸透力や爆発力というのはすごいものだ」

これを聞いて、私は目からウロコが落ちる思いがしました。たしかに、自分でなにげなくつけて、ひんぱんに使っていた仮の社名でしたが、そのわかりやすさのインパクトは横文字のそれをはるかに超えています。いまでいう「キャッチー」なネーミングです。

稲盛さんも「なるほど」と感心し、けっきょく正式社名も第二電電に決まったのですが、こういうことを簡単に思いつき(簡単にではないのかもしれませんが)、平然と提案できる盛田さんのマーケットセンスは真に洗練されていたというほかはありません。

私は、さすがは世界のソニーを率いる傑物だと驚愕まじりの敬意を抱きました。盛田さんもやはり、とても「先の見える」名経営者だったのです。

第二電電設立のそもそもの発想は、日米両国の経済環境の格差に目をつけたところから生まれたものといえます。

かつて、アメリカがくしゃみをすると日本が風邪をひくなどといわれたように、アメリカで起きたことは一定のタイムラグののち日本でも起きるという一種の「法則」がありました。つまり、ある一つの産業が進化、進展していくときの日米両国における時間差。そこに着目したことが、第二電電の成功の背景的要因ともなったわけです。

もっとわかりやすい言い方をすると、ある国で進んでいるビジネスを、それが遅れている国に「輸入」すれば、その成功確率はきわめて高いということ。格差から大きなビジネスチャンスが生まれてくるということです。

もうあと戻りはできない

私が公社を辞めて競争会社をつくろうとしたとき、「おまえは育ててくれた会社に後ろ足で砂をかけていく気か。とんでもない恩知らずだ」と罵倒した人もいました。「公社に盾を突いてうまくいくわけがない。とんだピエロだ」と嘲笑した人もいました。

40年たったいまでも、非難の言葉を口にする人もいます。その点では、私も忸怩たる思いがいまでも消えていません。私が恩ある会社に後ろ足で砂をかけるような行為に出たのは事実であり、そのことへの後ろめたさもあれば、長く世話になり、優秀でよき仲間がたくさんいた組織を離れるさびしさも当時は強くありました。


そして視界必ずしも良好とはいえない未来へ踏み出す不安もないまぜになって、正直、意気揚々とはいきませんでした。

しかし、それらは情緒面のことで、客観的に時代の流れや状況を考えれば、やはり私は決断をしなくてはなりませんでした。ピエロやドン・キホーテは承知で、リスクある一歩をあえて踏み出さなければいけない時期に差しかかっていた。

もうあと戻りはできない──身ぶるいするような思いでお世話になった電電公社を退職したのは、1983年12月のことでした。

翌84年1月、私はすぐに京セラに入社し、東京・八重洲にあった同社の東京八重洲事業所に出社しました。常務取締役情報企画本部長と肩書きこそいかめしいものでしたが、当時の私の内心の不安を可視化したような──狭い応接室を改造したという──机だけがポツンと一つ置かれた小さな部屋が、私の新しいオフィスでした。

(千本 倖生 : レノバ会長)