医者としては失敗。しかし趣味の兵学で名前を遺した兵学者・大村益次郎

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大村益次郎といえば、長州藩(現在の山口県)出身の兵学者としてしられていますが、元々は医者の家系に生まれ育ち、自身もれっきとした医者でした。幼少のころから医学書『十二経』を読み、やがて大阪(坂)の適塾など、各地で修行しました。

26歳のとき、益次郎は自分の生まれ育った村に戻り、故郷で村医者としてのキャリアを積み始めました。この村に自分ほど医学を学んだものはいないだろうという自負が、彼にはあったといえそうです。

ところが、いざ開業してみると、どうもうまくいきません…。

3年で医院は廃業

益次郎は、蘭学によって得た人体の知識をふまえて患者に説明しますが、なかなか関心を持ってもらえません。村の患者が求めていたのは、「最新の医学」ではなく、健康上の悩みを親身になって聞いてくれる、話し相手としての医者だったのです。

さらに残念なことに、益次郎は人とコミュニケーションをとることが苦手だったようです。

患者が「お暑うございます」とはなしかけても、不愛想に「夏は暑いのが当たり前です」と返すだけ。益次郎が機嫌のよいときの返事が「そうです」だったというから、普段はどれだけ愛想がなかったかが、想像できます。

結果として、患者の足は遠のき、開業からわずか3年で医院は廃業せざるを得ませんでした。

兵学者に転身する益次郎

経営が傾いてからは、益次郎は趣味の兵法書を読みふけっていたといいます。その結果、兵学者に転身し、長州征伐と戊辰戦争において長州藩兵を指揮し、見事勝利に導きました。

さらに明治維新後の日本の軍政の近代化にも尽力。明治政府の兵部省における初代の大輔(次官)を務め、「大日本帝国陸軍創設の父」とされています。大村の功績を称え、現在も靖国神社にはその銅像が建てられています。

靖国神社内にある大村益次郎の銅像

大村益次郎は、確かに医者としては失敗してしまったかもしれません。ですが、趣味の兵学をとことんまで追求し、極めたからこそ、兵学者として大成したわけですね。