元日本代表の川口能活が、11月14日に引退会見を開いた。

 相模原市役所で行われた記者会見には、63社から130人の記者が集まった。日本代表が大分で活動をしていなければ、こちらの会見に出席したというメディアもいただろう。
さらに言えば、都内開催なら出席者はもっと増えていたはずだ。もちろん、相模原市をホームタウンの核とするSC相模原の所属選手だけに、地元の市役所を会見場に選ぶのは適切な判断である。

 それにしても、「ついに来たか」という印象だ。カズこと三浦知良が現役を続けていることで、彼に続く選手たちは「自分が先に辞めるわけにはいかない」との思いを抱いている。川口もそのひとりだったが、43歳で現役にピリオドを打つことになった。

 J3で中位の相模原で、川口はレギュラーポジションをつかめていない。日本代表としてワールドカップに出場し、キャプテンまで務めた男の現在地として、寂しさを感じさせるところはある。

 ところが本人はまったく違うのだ。

 J1の横浜F・マリノスとジュビロ磐田、J2のFC岐阜、J3の相模原と三つのカテゴリーでプレーしてきたキャリアを、真っ直ぐに前向きにとらえている。クラブハウスと専用の練習場を持つJ1のクラブから、日々の練習を転々とするJ2やJ3のクラブまでを体験したことで、「サッカーができる有難味や歓び」を実感できていると笑顔をこぼしていたものだった。

 キャリアのハイライトはいつだろう。

 ベストマッチと呼べる試合はどれだろう。彼のプレーを観てきた人の数だけ、答えがあるような気がする。

 転機はハッキリしている。2001年秋のポーツマスへの移籍と、03年9月のFCノアシェラン加入である。

 横浜F・マリノスからポーツマスへの移籍は、日本人GK初の海外移籍であり、ポーツマスにとってクラブ史上最高額(当時)の移籍金を費やした大型補強だった。ところが、チャンピオンシップからプレミアリーグへの昇格を目論むチームは、中位から下位をさまよってしまう。

 川口は結果が出ないチームのスケープゴートにされた。日韓W杯で楢粼正剛にレギュラーを明け渡す主因にもなってしまったのだから、彼にとっては悔しさを伴う移籍だったはずである。

 その一方で、ポーツマスでは40歳を超えるベテランのGKとともにプレーした。イングランド代表歴を持ち、FAカップ優勝などのタイトル獲得の経験もあるデイブ・ビーサントが2部相当のチャンピオンシップでプレーする姿は、キャリアの晩年をどのように送るのかのヒントになった。J2やJ3でプレーすることに抵抗を感じなかったのは、ビーサントの影響を受けたからでもあったのだ。

 ポーツマスからノアシェランへの移籍は、正GKの立場を求めたものだった。ここでも川口はポジションをつかみ切れなかったが、GKコーチから運命的なアドバイスを受けている。

「せっかくデンマークまで来ているんだから、サッカーでうまくいかないことがあっても、人生を楽しんでいいんじゃないか」

 サッカーに対してどこまでもストイックだった川口が、蒙を啓くきっかけとなった言葉である。プレーする楽しみを再確認した彼は、チームメイトはもちろんライバルとの付き合い方さえも自然と変えていき、互いを高め合う関係を築いていけるようになった。鬼気迫る表情で守備陣を怒鳴りつけるような印象は、ノアシェランへの移籍とともに急速に薄れていった。

 ピッチに立って経験を積む意味で、ポーツマスとノアシェランでの日々は苦悩と切り離せなかった。それでも、人間性を豊かにした時間としては、かけがえのないものだったのである。

 引退後は指導者を目ざす。Jリーグの監督に必要なライセンスと、ゴールキーパーの指導者ライセンスの両方を取得していくようだが、川口なら選手に寄り添った指導ができるだろう。五輪やワールドカップといった眩しい舞台の狭間で、人知れず苦しみを味わってきた彼だからこそ──。