原作からどこまでどう離れていくのか「わたしを離さないで」3話
『わたしを離さないで』の先週放送された第3話を観て、ラストシーンに戦慄したのであった。麻生祐未が怖すぎる! でも麻生演じる神川恵美子先生は今週で出番が終わりのはずだから、と思って予告を観たら、第4話以降も続けて出るらしいじゃないですか。当分あの眼差しからは逃れられそうにないのである。いやあ、人生でこんなに麻生祐未のことが気になる日々が来るとは思わなかった。
日本出身の英国作家カズオ・イシグロの長篇を原作とするドラマは今夜第4話が放送される。主人公の保科恭子(綾瀬はるか。原作のキャシー・H)を初めとする陽光学苑(原作におけるヘールシャム)の子供たちは、前話の終わりで新天地へと旅立った。彼らは、一定年齢に達した段階で少人数のグループに別れ、「コテージ」や「マンション」と呼ばれる施設に移住する決まりなのである。今回からは「コテージ篇」となる。この展開は原作と同じだ。
そして第4話からドラマは、徐々に原作にはないオリジナルの設定が入ってくるらしい。恵美子先生が退場せずに舞台に残り続けていることもそのためだろうし、前回のラストで真実(中井ノエミ)から恭子に告げられたある事実も、原作にはないはずだ。観ずに書くのは気が引けるが、原作を静の物語だとすれば、ドラマは動、いささかの波乱を含むものになるようである。
第3話は、子役から成人の俳優へと各配役のバトンが渡された回だった。この継ぎ目のなさが見事で、オーディションの成功を思わせる。特に珠世役の馬場園梓は、子役の本間日陽和がそのまま何歳か年を経ったように見えたほどである。
そしてその第3話に、すでにドラマ・オリジナル展開の芽は蒔かれていた。前回は、端希さくらから水川あさみに交替した恭子の友人・酒井美和主役回だったのだ(原作の名前はルース)。
原作では第6章にあたる部分が、第2話と第3話に分割されている。第2話で重要なのは、題名の由来の一つである曲の入ったCD(原作ではテープ)の紛失事件だが、これは本来、第3話で出てきた香水事件の後に起きる。順番が入れ替わっていて、美和=ルースの欺瞞を暴く役目も違う人物である。このへんの入れ替えは実に無理なく行われていて、第1話で神川先生によって行われた「お知らせ」は、本来はこの2つの事件の後にくる。どうするのかと思って観ていたが、堀江龍子先生(伊藤歩)によってもう一度効果的な形で繰り返されることになった。この畳みかけにより「提供」をめぐるすべての事柄はより一層の悲劇性を帯びたのである。原作と読み比べてみると唸らされる箇所だ。
さて、原作にある要素でまだ出てきていないものがある。それはセックスだ。
カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』のを読むと、セックスにまつわることがまるでエロティックさを伴わない形で語られることに気づく。ヘールシャムの子供たちは閉鎖的な空間で育ったために、「外」の人間とは細かく食い違う感性を持っている。その一つがセックスの問題であり、彼らの間には「外」の人間が持っているような性幻想が十分に育っていないのだ。それはしばしば、ちょっとした冗談のように語られたりするのである。
人間は社会的な生物なので、成人が持っている感覚を生まれつき持っているとは限らない。それが身につくには、社会的な体験を伴わなければならず、そうでなければ欠落が生じる可能性がある。欠落、もしくは無垢と言ってもいい。ヘールシャムの子供たちは、文字通りの無垢であり、無知な存在なのだ。その状態も成長につれて失われていくのだが、性の知識については意図的に制限されているため、十代の半ばに差し掛かっても彼らの感覚はずれたままになっている。そのことが醸し出すねじれたユーモアが、小説版の魅力でもある。ドラマではその部分が、もっと直接的な恋愛感情に置き換えられている。神川先生たちは子供たちを「天使」と読んだが、本当にその言葉がふさわしいのは、世俗の知識を十分に与えられないままに育った、原作のヘールシャムの子供たちなのである。
ドラマのこれからを楽しみにしている読者に余談を与えることになるのではっきりと作品名を出すことは避けるが、ヘールシャムの子供たちのことを考えると、私はある別の小説の題名を連想してしまう。イタリアの作家が書いた、ファンタジーだ。そのことはもっと後に書こうと思う。
与えられる知識が制限されているゆえの勘違いや、内輪にしかわからない冗談がヘールシャムには多数存在していた。「ノーフォーク」をめぐるものもその1つだ。
第4話に「のぞみが崎」という架空の地名が出てきた。神川先生によれば、海流の関係でいろいろなものが流れ着くため、捜し物がそこで見つかるかもしれない、ということから付いた地名だという。これが原作に出てくるノーフォークだ。のぞみが崎=ノーフォークこの地名は、物語後半でも重要な意味を持ってくる。
原作におけるノーフォークはロストコーナーと呼ばれる場所だ。国の東端、海に突き出す半島にあるために、どこに行くこともできない。ゆえに「失われた土地(ロストコーナー)」だ。この言葉を聞いてキャシー・Hたちは別の場所を連想する。ヘールシャムの4階にある落し物や忘れ物が保管される場所、すTまり「遺失物置き場(ロストコーナー)」だ。こうした言葉の取り違えが、小説版を組み立てている大事な部品なのである。遺失物、のキーワードからわかるとおり、このエピソードはなくなったテープ(CD)につながるものである。これを「のぞみが崎」に翻案したのはいいアイデアだった、とここでは書くにとどめておく。ノーフォーク→ロストコーナー→のぞみが崎を巡る物語は、ドラマではいつごと語られることになるのだろうか。
さて、第4話である。予告篇を見る限りでは先述した「セックス」の要素については今回触れられるらしい。ドラマ独自の要素も楽しみである。
ついでにお知らせを。ドラマでは「美術」がキーワードになっていることから先日、『わたしを離さないで』をテーマとした作品募集が行われた。その中から選ばれた作品などの美術展示が、以下の日程で行われるという。関心のある方はぜひご覧ください。
開催時期:2月11日(木・祝)〜2月29日(月)
時間:8:30〜20:00(平日)、10:00〜19:00(土日祝)
場所:TBS放送センター1Fスペース(港区赤坂5-3-6)
展示内容:視聴者から募集した絵画、ドラマスチール、劇中衣装など
※入場無料。どなたでもご覧いただけます。
(杉江松恋)
そしてコテージ篇へ
日本出身の英国作家カズオ・イシグロの長篇を原作とするドラマは今夜第4話が放送される。主人公の保科恭子(綾瀬はるか。原作のキャシー・H)を初めとする陽光学苑(原作におけるヘールシャム)の子供たちは、前話の終わりで新天地へと旅立った。彼らは、一定年齢に達した段階で少人数のグループに別れ、「コテージ」や「マンション」と呼ばれる施設に移住する決まりなのである。今回からは「コテージ篇」となる。この展開は原作と同じだ。
そして第4話からドラマは、徐々に原作にはないオリジナルの設定が入ってくるらしい。恵美子先生が退場せずに舞台に残り続けていることもそのためだろうし、前回のラストで真実(中井ノエミ)から恭子に告げられたある事実も、原作にはないはずだ。観ずに書くのは気が引けるが、原作を静の物語だとすれば、ドラマは動、いささかの波乱を含むものになるようである。
見事なバトンタッチと原作編集
第3話は、子役から成人の俳優へと各配役のバトンが渡された回だった。この継ぎ目のなさが見事で、オーディションの成功を思わせる。特に珠世役の馬場園梓は、子役の本間日陽和がそのまま何歳か年を経ったように見えたほどである。
そしてその第3話に、すでにドラマ・オリジナル展開の芽は蒔かれていた。前回は、端希さくらから水川あさみに交替した恭子の友人・酒井美和主役回だったのだ(原作の名前はルース)。
原作では第6章にあたる部分が、第2話と第3話に分割されている。第2話で重要なのは、題名の由来の一つである曲の入ったCD(原作ではテープ)の紛失事件だが、これは本来、第3話で出てきた香水事件の後に起きる。順番が入れ替わっていて、美和=ルースの欺瞞を暴く役目も違う人物である。このへんの入れ替えは実に無理なく行われていて、第1話で神川先生によって行われた「お知らせ」は、本来はこの2つの事件の後にくる。どうするのかと思って観ていたが、堀江龍子先生(伊藤歩)によってもう一度効果的な形で繰り返されることになった。この畳みかけにより「提供」をめぐるすべての事柄はより一層の悲劇性を帯びたのである。原作と読み比べてみると唸らされる箇所だ。
イノセンスという残酷さ
さて、原作にある要素でまだ出てきていないものがある。それはセックスだ。
カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』のを読むと、セックスにまつわることがまるでエロティックさを伴わない形で語られることに気づく。ヘールシャムの子供たちは閉鎖的な空間で育ったために、「外」の人間とは細かく食い違う感性を持っている。その一つがセックスの問題であり、彼らの間には「外」の人間が持っているような性幻想が十分に育っていないのだ。それはしばしば、ちょっとした冗談のように語られたりするのである。
人間は社会的な生物なので、成人が持っている感覚を生まれつき持っているとは限らない。それが身につくには、社会的な体験を伴わなければならず、そうでなければ欠落が生じる可能性がある。欠落、もしくは無垢と言ってもいい。ヘールシャムの子供たちは、文字通りの無垢であり、無知な存在なのだ。その状態も成長につれて失われていくのだが、性の知識については意図的に制限されているため、十代の半ばに差し掛かっても彼らの感覚はずれたままになっている。そのことが醸し出すねじれたユーモアが、小説版の魅力でもある。ドラマではその部分が、もっと直接的な恋愛感情に置き換えられている。神川先生たちは子供たちを「天使」と読んだが、本当にその言葉がふさわしいのは、世俗の知識を十分に与えられないままに育った、原作のヘールシャムの子供たちなのである。
ドラマのこれからを楽しみにしている読者に余談を与えることになるのではっきりと作品名を出すことは避けるが、ヘールシャムの子供たちのことを考えると、私はある別の小説の題名を連想してしまう。イタリアの作家が書いた、ファンタジーだ。そのことはもっと後に書こうと思う。
ロストコーナーとは何か
与えられる知識が制限されているゆえの勘違いや、内輪にしかわからない冗談がヘールシャムには多数存在していた。「ノーフォーク」をめぐるものもその1つだ。
第4話に「のぞみが崎」という架空の地名が出てきた。神川先生によれば、海流の関係でいろいろなものが流れ着くため、捜し物がそこで見つかるかもしれない、ということから付いた地名だという。これが原作に出てくるノーフォークだ。のぞみが崎=ノーフォークこの地名は、物語後半でも重要な意味を持ってくる。
原作におけるノーフォークはロストコーナーと呼ばれる場所だ。国の東端、海に突き出す半島にあるために、どこに行くこともできない。ゆえに「失われた土地(ロストコーナー)」だ。この言葉を聞いてキャシー・Hたちは別の場所を連想する。ヘールシャムの4階にある落し物や忘れ物が保管される場所、すTまり「遺失物置き場(ロストコーナー)」だ。こうした言葉の取り違えが、小説版を組み立てている大事な部品なのである。遺失物、のキーワードからわかるとおり、このエピソードはなくなったテープ(CD)につながるものである。これを「のぞみが崎」に翻案したのはいいアイデアだった、とここでは書くにとどめておく。ノーフォーク→ロストコーナー→のぞみが崎を巡る物語は、ドラマではいつごと語られることになるのだろうか。
さて、第4話である。予告篇を見る限りでは先述した「セックス」の要素については今回触れられるらしい。ドラマ独自の要素も楽しみである。
ついでにお知らせを。ドラマでは「美術」がキーワードになっていることから先日、『わたしを離さないで』をテーマとした作品募集が行われた。その中から選ばれた作品などの美術展示が、以下の日程で行われるという。関心のある方はぜひご覧ください。
金曜ドラマ『わたしを離さないで』特別美術展
開催時期:2月11日(木・祝)〜2月29日(月)
時間:8:30〜20:00(平日)、10:00〜19:00(土日祝)
場所:TBS放送センター1Fスペース(港区赤坂5-3-6)
展示内容:視聴者から募集した絵画、ドラマスチール、劇中衣装など
※入場無料。どなたでもご覧いただけます。
(杉江松恋)