村上春樹はなぜ何度も何度も小説の書き方について語るのか『職業としての小説家』
前編に続き、
「どうして村上春樹は、自身の小説作法について、繰り返し語るのか」について考えた後編です。
『職業としての小説家』で、村上さんは、自身の小説作法について、たっぷりと、懇切丁寧に、これでもかと語っているんですが、これまでにもエッセイ集やファンとの交流サイト(の質問と回答をまとめた本)で、たびたび語っているので、それらをずっと読んできた読者であれば、(断片的にせよ)知っている話がけっこうあります(その全貌をあますところなく知ることができるという点で、この本はとても満足度が高いです)。
なので、読み終わったときに、
「どうして村上さんは、これほどまでに何度も何度も、手をかえ品をかえ、小説の書き方について語るんだろう?」
という疑問が膨らんできます。
こんなにも、手の内をさらすのは、どうしてなんだろう?と。
それは、もちろん、知りたい読者がたくさんいるからで、
ファンとの交流サイトでも、「どうしたら村上さんのような小説が書けるようになりますか?」という質問が、ものすごく多いので、その気持ちに応えてあげたいというのが、まず、あるのでしょう。
もうひとつは、推測の域を出ませんが、物語の力を正しく活用する方法を広めることを、自身のミッション、人生において果たすべき責務のように思っているのではないか。物語の力の伝道師というか、指導係、普及振興係を、率先して引き受けているような気がするのです。
もしかすると、そこには、河合隼雄さんの遺志をついで、河合先生から受け取ったバトンを後継者に伝えていきたいという気持ちも、あるのかもしれません(この本の第十二回は「物語のあるところ・河合隼雄先生の思い出」です)。
それは教育の問題ともつながってきます。とくに、福島の原発事故のあとで、それは差し迫った課題となっている。
『職業としての小説家』の第八回「学校について」では、教育についての考えが語られます。
いまの教育の現場では「世界をバランス良く見る視野」が失われていること。
村上さん自身はそれを学校ではなく、いろんな種類の本を読むことで培ったこと。
読書という行為が、そのままひとつの大きな学校だったこと。
そして、個と共同体の中間の場所に、温かな一時避難場所=個の回復スペースをつくる必要性を強調します。
そういえば先日、鎌倉市図書館の「学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい」というツイートが話題となりましたが、「学校が死ぬほどつらい子は図書館へ… 司書のツイート拡散」(朝日新聞 2015年8月26日)、このツイートをした司書の方も、同じ気持ちだったんだろうなと思います。
『職業としての小説家』の中で、何度も語られているのは、本を読むこと、そして文章を書くことの楽しさです。
それが、この苦しいことだらけの人生で、どれほど救いになるか。
もしも、いま、つらい思いをしている人がいるなら、こっちへおいで、と誘っているよう。
子どもたち(および、子どもをもつ親たち)への呼びかけのようです。
たまたまですが、最近、村上さんが1983年に、五木寛之さんと対談した本を読みました(初出は「小説現代」1983年2月号、『五木寛之 風の対話集』所収)
そこに、ハッとする、村上さんの発言がありました。ちなみに、村上さんはこのとき34歳です。
「ぼくの場合、一番原体験の文章っていうのは、戦後憲法なんですよね。
ぼく、昭和二十四年生まれなんですけど、小学校入ったときに、先生が憲法を説明してくれるわけなんです。日本は非常に貧しい国である、国際的な地位も低いし、原料も産出しないし、工業もまだ低いし、平均収入もアメリカの何十分の一である、ただ、戦争放棄している、そういう国は日本しかない、というふうに説明してくれる。非常に感動するわけなんですね。それが言葉の最初なんです。それが言葉であって、それが社会だと思ったわけです。(中略)
(言葉と行為の)分離はありえない、と思ったわけです。それが、齢とっていくにしたがって分離しはじめるわけです。
最初に気づく大きいきっかけというのは、六〇年の安保ですよね。そのときはテレビがあったんです。で、樺美智子さんの死んだとこが全部映って、それを見てるわけです。ぼくが小学六年生ぐらいですね。そのときに、言葉と現実の分離というのをね、テレビの画面ではっきり感じたわけですよね。(中略)
ぼくは自分が手を触れることができるものに対しては、できる限り親切でありたいと思います。そして文章というのは、そういった一連の行為の帰結でありたいと思うんです」
小学生のときの「一番原体験の文章」として、日本国憲法を挙げている村上さん。そして、分離してしまった言葉と現実を「もう一度、必ずくっつけられるはず」と語り、自身の文章と行為を一致させていきたいと言っています。
『職業としての小説家』でも、学生運動の嵐が去ったあとの思いを、こう語っています。
「結局のところ、その激しい嵐が吹き去ったあと、僕らの心に残されたのは、後味の悪い失望感だけでした。どれだけそこに正しいスローガンがあり、美しいメッセージがあっても、その正しさや美しさを支えきるだけの魂の力が、モラルの力がなければ、すべては空虚な言葉の羅列に過ぎない。僕がそのときに身をもって学んだのは、そして今でも確信し続けているのは、そういうことです。言葉には確かな力がある。しかしその力は正しいものでなくてはならない」
そして、学生運動の失望感の延長線上にあるのが、オウム真理教事件。
地下鉄サリン事件の被害者にインタビューした『アンダーグラウンド』、信者にインタビューした『約束された場所で―underground 2』と、2冊のノンフィクションを書いたことでも、この問題が村上さんに与えた影響の大きさがわかります。
「僕が本当に描きたいのは、物語の持つ善き力です。オウムのように閉じられた狭いサークルの中で人々を呪縛するのは、物語の悪しき力です。それは人々を引き込み、間違った方向に導いてしまう。小説家がやろうとしているのは、もっと広い意味での物語を人々に提供し、その中で精神的な揺さぶりをかけることです。何が間違いなのかを示すことです。僕はそうした物語の善き力を信じているし、僕が長い小説を書きたいのは物語の環(わ)を大きくし、少しでも多くの人に働きかけたいからです。はっきり言えば、原理主義やリージョナリズムに対抗できるだけの物語を書かなければいけないと思います」
(村上春樹氏:『1Q84』を語る 毎日新聞 2009年9月17日)
村上さんが、繰り返し、自身の小説や小説作法について書いたり語ったりするのは、自分の言葉と生き方を一致させるためではないか。「物語の持つ善き力」「言葉の正しい力」について、言行一致を実践している、ということなのではないか。
物語の力に免疫がないと、その力を悪用しようとする存在があらわれたときに、簡単にのみこまれてしまう。だからこそ、小説家として、いい作品を提供することはもちろん、小説家とはどうあるべきなのかを身をもって示している、後継者にバトンを渡そうとしている、そんな気がしてなりません。
あと、『職業としての小説家』では、出版社のサラリーマン編集者への辛口コメントとか(きっと腹に据えかねることが、いろいろあったんだろうなあと推察)、自身を酷評した某有名評論家への恨みごととかが、ちょいちょい入ってくるのも好きです。村上さんの人間らしい(?)一面を見て、ほっこりします。恨みや怒りも燃料にして、執念深く、執筆活動で健全にリベンジする姿勢を見習ってゆきたいです。
(平林享子)
「どうして村上春樹は、自身の小説作法について、繰り返し語るのか」について考えた後編です。
『職業としての小説家』で、村上さんは、自身の小説作法について、たっぷりと、懇切丁寧に、これでもかと語っているんですが、これまでにもエッセイ集やファンとの交流サイト(の質問と回答をまとめた本)で、たびたび語っているので、それらをずっと読んできた読者であれば、(断片的にせよ)知っている話がけっこうあります(その全貌をあますところなく知ることができるという点で、この本はとても満足度が高いです)。
「どうして村上さんは、これほどまでに何度も何度も、手をかえ品をかえ、小説の書き方について語るんだろう?」
という疑問が膨らんできます。
こんなにも、手の内をさらすのは、どうしてなんだろう?と。
それは、もちろん、知りたい読者がたくさんいるからで、
ファンとの交流サイトでも、「どうしたら村上さんのような小説が書けるようになりますか?」という質問が、ものすごく多いので、その気持ちに応えてあげたいというのが、まず、あるのでしょう。
河合隼雄さんから受け取ったバトン
もうひとつは、推測の域を出ませんが、物語の力を正しく活用する方法を広めることを、自身のミッション、人生において果たすべき責務のように思っているのではないか。物語の力の伝道師というか、指導係、普及振興係を、率先して引き受けているような気がするのです。
もしかすると、そこには、河合隼雄さんの遺志をついで、河合先生から受け取ったバトンを後継者に伝えていきたいという気持ちも、あるのかもしれません(この本の第十二回は「物語のあるところ・河合隼雄先生の思い出」です)。
それは教育の問題ともつながってきます。とくに、福島の原発事故のあとで、それは差し迫った課題となっている。
『職業としての小説家』の第八回「学校について」では、教育についての考えが語られます。
いまの教育の現場では「世界をバランス良く見る視野」が失われていること。
村上さん自身はそれを学校ではなく、いろんな種類の本を読むことで培ったこと。
読書という行為が、そのままひとつの大きな学校だったこと。
そして、個と共同体の中間の場所に、温かな一時避難場所=個の回復スペースをつくる必要性を強調します。
そういえば先日、鎌倉市図書館の「学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい」というツイートが話題となりましたが、「学校が死ぬほどつらい子は図書館へ… 司書のツイート拡散」(朝日新聞 2015年8月26日)、このツイートをした司書の方も、同じ気持ちだったんだろうなと思います。
『職業としての小説家』の中で、何度も語られているのは、本を読むこと、そして文章を書くことの楽しさです。
それが、この苦しいことだらけの人生で、どれほど救いになるか。
もしも、いま、つらい思いをしている人がいるなら、こっちへおいで、と誘っているよう。
子どもたち(および、子どもをもつ親たち)への呼びかけのようです。
原体験の文章は、憲法
たまたまですが、最近、村上さんが1983年に、五木寛之さんと対談した本を読みました(初出は「小説現代」1983年2月号、『五木寛之 風の対話集』所収)
そこに、ハッとする、村上さんの発言がありました。ちなみに、村上さんはこのとき34歳です。
「ぼくの場合、一番原体験の文章っていうのは、戦後憲法なんですよね。
ぼく、昭和二十四年生まれなんですけど、小学校入ったときに、先生が憲法を説明してくれるわけなんです。日本は非常に貧しい国である、国際的な地位も低いし、原料も産出しないし、工業もまだ低いし、平均収入もアメリカの何十分の一である、ただ、戦争放棄している、そういう国は日本しかない、というふうに説明してくれる。非常に感動するわけなんですね。それが言葉の最初なんです。それが言葉であって、それが社会だと思ったわけです。(中略)
(言葉と行為の)分離はありえない、と思ったわけです。それが、齢とっていくにしたがって分離しはじめるわけです。
最初に気づく大きいきっかけというのは、六〇年の安保ですよね。そのときはテレビがあったんです。で、樺美智子さんの死んだとこが全部映って、それを見てるわけです。ぼくが小学六年生ぐらいですね。そのときに、言葉と現実の分離というのをね、テレビの画面ではっきり感じたわけですよね。(中略)
ぼくは自分が手を触れることができるものに対しては、できる限り親切でありたいと思います。そして文章というのは、そういった一連の行為の帰結でありたいと思うんです」
小学生のときの「一番原体験の文章」として、日本国憲法を挙げている村上さん。そして、分離してしまった言葉と現実を「もう一度、必ずくっつけられるはず」と語り、自身の文章と行為を一致させていきたいと言っています。
『職業としての小説家』でも、学生運動の嵐が去ったあとの思いを、こう語っています。
「結局のところ、その激しい嵐が吹き去ったあと、僕らの心に残されたのは、後味の悪い失望感だけでした。どれだけそこに正しいスローガンがあり、美しいメッセージがあっても、その正しさや美しさを支えきるだけの魂の力が、モラルの力がなければ、すべては空虚な言葉の羅列に過ぎない。僕がそのときに身をもって学んだのは、そして今でも確信し続けているのは、そういうことです。言葉には確かな力がある。しかしその力は正しいものでなくてはならない」
そして、学生運動の失望感の延長線上にあるのが、オウム真理教事件。
地下鉄サリン事件の被害者にインタビューした『アンダーグラウンド』、信者にインタビューした『約束された場所で―underground 2』と、2冊のノンフィクションを書いたことでも、この問題が村上さんに与えた影響の大きさがわかります。
「僕が本当に描きたいのは、物語の持つ善き力です。オウムのように閉じられた狭いサークルの中で人々を呪縛するのは、物語の悪しき力です。それは人々を引き込み、間違った方向に導いてしまう。小説家がやろうとしているのは、もっと広い意味での物語を人々に提供し、その中で精神的な揺さぶりをかけることです。何が間違いなのかを示すことです。僕はそうした物語の善き力を信じているし、僕が長い小説を書きたいのは物語の環(わ)を大きくし、少しでも多くの人に働きかけたいからです。はっきり言えば、原理主義やリージョナリズムに対抗できるだけの物語を書かなければいけないと思います」
(村上春樹氏:『1Q84』を語る 毎日新聞 2009年9月17日)
村上さんが、繰り返し、自身の小説や小説作法について書いたり語ったりするのは、自分の言葉と生き方を一致させるためではないか。「物語の持つ善き力」「言葉の正しい力」について、言行一致を実践している、ということなのではないか。
物語の力に免疫がないと、その力を悪用しようとする存在があらわれたときに、簡単にのみこまれてしまう。だからこそ、小説家として、いい作品を提供することはもちろん、小説家とはどうあるべきなのかを身をもって示している、後継者にバトンを渡そうとしている、そんな気がしてなりません。
あと、『職業としての小説家』では、出版社のサラリーマン編集者への辛口コメントとか(きっと腹に据えかねることが、いろいろあったんだろうなあと推察)、自身を酷評した某有名評論家への恨みごととかが、ちょいちょい入ってくるのも好きです。村上さんの人間らしい(?)一面を見て、ほっこりします。恨みや怒りも燃料にして、執念深く、執筆活動で健全にリベンジする姿勢を見習ってゆきたいです。
(平林享子)