村上春樹、小説家として天に選ばれた「恍惚」を語る『職業としての小説家』
なぜ村上春樹は、かくも、繰り返し語るのか
発売前から話題沸騰。
村上春樹の自伝的エッセイ『職業としての小説家』。
本の内容よりも先に大きな話題となったのは、その本の売り方でした。
初版10万部のうち9万部を、紀伊國屋書店が、版元のスイッチ・パブリッシングから直接仕入れるという異例の販売方法。
その理由は、「ネット書店への対抗策」とのことですが
(ソース:『ネット書店対抗の「直接仕入れ」…紀伊国屋』@読売新聞(YOMIURI ONLINE) 2015年9月9日)、
実際のところ、従来の出版流通システム、つまり、出版社は取次会社を通じて全国の書店へ新刊を配本するという、長年続いてきたシステムの改革のためのトライアルなのかもしれません。
「なぜ村上春樹は、小説の書き方について、かくも、繰り返し語るのか」について、前後編にわけて考えたいと思います。
『職業としての小説家』、さっそく読んでみました。
この本は、あとがきによれば、
「自分が小説を書くことについて、こうして小説家として小説を書き続けている状況について、
まとめて何かを語っておきたいという気持ち」が前々からあり、5、6年前から書きためていたものだそうです。
前半の6章は、柴田元幸さんの雑誌『Monkey』に連載したもので、
後半の5章は、この本ではじめて発表する、つまり書き下ろし部分。
最後に、河合隼雄さんについての講演原稿を加えて、全部で12章からなります。
ふだんのエッセイ集のような「だ・である」調の文体ではなく、「ですます」調の文章です。
最初は、いつもの文体で書いたけれども、どうもうまくいかなかったので、
ためしに、目の前に座っている30〜40人くらいの人に向かって語りかけるような設定、
つまり、架空の講演の原稿として書いたところ、すらすら書ける(しゃべれる)感触があって、
このような設定というか文体にしたということです。
自伝的部分こそがおもしろい
いつものエッセイよりも、ずっと飾らない、シンプルな言葉づかいで、気さくに語りかけるような文章なので、
こちらも構えずにゆったりと、村上さんの素敵な低音ヴォイスを聴いているような感覚になります
(私は実際に村上さんの声を聴いたことないんですが、『村上さんのところ』を読んでいると、聴いたことのある人はみなさん口を揃えて「村上さんの声が素敵!」と言っているので)。
『職業としての小説家』というタイトルが示す通り、小説家として、どんなふうに日々、小説を書いているのか、ノウハウ的なことや、執筆のプロセスについて、いろいろな角度から、くわしく語られています。
なので、小説家志望の人がこの本を読めば、ヒントにしたり、啓示を受けたり、具体的なコツみたいなものをつかむこともいろいろあると思います。
が、やはり村上作品の愛読者としては、村上さんの自伝的部分こそが、とてもおもしろいわけです。
とくに、初めての小説『風の歌を聴け』を執筆した前後の出来事が、もちろんこれまでにも何度も書かれ、語られているのですが、これほどにくわしく語られたことは初めてなのではないでしょうか。
それは、第2章「小説家になった頃」です。
宗教的な意味に近い
1978年4月のよく晴れた日の午後、神宮球場の外野の芝生の上で、冷えたビールを飲みながら、ヤクルト・スワローズ対広島カープの試合を見ているときに、突然、小説を書こうと思った、というエピソードについては、これまでに何度も、いろいろなエッセイやインタビューで読んだことがありますが、この本では、そのときの、ある種の神秘体験がリアルに描写されています。
この本で、村上さんは、その体験を「エピファニー(epiphany)」と表現します。
エピファニーは、もともとは「神の顕現」といった宗教的体験を意味する言葉。
もう少しカジュアルに、「日常的なものにひそむ本質があらわれる光景」といった意味で使われることもありますが、ここではむしろ本来の宗教的な意味に近い気がします。
さらに、初めて書いた小説を「群像」の新人賞に応募した後に、散歩の途中で、けがをした一羽の伝書鳩を見つけて拾い上げて、「僕は間違いなく『群像』の新人賞をとるだろう」「そのまま小説家になって、ある程度の成功を収めるだろう」と「確信しました。とてもありありと」、ということも書かれています。
きわめて象徴的な、ユング心理学的には「そうでしょうとも!」というエピソードです。
さらに続きます。
「僕が長い歳月にわたっていちばん大事にしてきたのは(そして今でもいちばん大事にしているのは)、『自分が何かしらの特別な力によって、小説を書くチャンスを与えられたのだ』という率直な認識です」
(原文には「チャンスを与えられた」の部分に傍点あり)
つまり、小説を書く才能も、小説を書く運命に導かれたことも、ギフト、天与のものなのだと。
これを読んだら、いくら村上さん本人が自分のことを「職業としての小説家」「職業的小説家」と言おうとも、いえいえ、「天職(コーリング、calling)としての小説家」以外の何ものでもありませんから! という思いが深まります。
そして、この本では、「選ばれてあることの恍惚と不安と ふたつわれにあり」(byヴェルレーヌ)のうち、ほとんどもっぱら「恍惚」が語られています。
後編に続きます。
(平林享子)