又吉直樹、若林正恭絶賛の中村文則作品は本当に面白いのか。12冊一気に読んでみた
中村文則の小説を文庫で読むなら、まずは『何もかも憂鬱な夜に』(集英社文庫)から読もう、というお話。
中村文則さんといえば、今年6月の『アメトーーク!』「読書芸人」(2回目。光浦靖子、若林正恭、又吉直樹が出演)の紀伊國屋書店新宿店ロケで、番組中に話題になっていたのが、書店平台上に展開された、直木賞作家・西加奈子さんと芥川賞作家・中村文則さんの作品だった。
折しも新刊『あなたが消えた夜に』(2015、毎日新聞出版)が出て間もなく、その前の『教団X』(2014、集英社/Kindle)が「代表作キタ!」て感じで話題を呼んでいたこと、また読書芸人たちが絶賛する西加奈子さんが又吉さんともどもその『教団X』の帯に名前を出していたこともあって、放送後には書店でもこれに対応する動きがあったのではないだろうか。
あれから2か月たつけれど、大手書店の平台展開は意外に息が長く、衰えを見せない。気になって調べてみたら、近所の図書館の貸出順番待ちは『教団X』が約350人待ち、『あなたが消えた夜に』が100人超待ちだ。
「読書芸人」OA時、僕の手もとには中村さんの小説が13冊あった。
まだ文庫化されてない『教団X』と、文庫化されていた11点12冊(デビュー作『銃』は新潮文庫版と、短篇1篇を加えた河出文庫版の両方)と。
しかし不勉強にして1冊も読んでなかった。
読んだことがなくても気になる作家は文庫が出るたびに入手する(文庫、というあたりが僕もたいていビビりである)わりに仕事に追われて読まないままに時間が経ってしまうので、こういうことがわりと起こる。本棚には、気になる気になる読みたい読みたいと思いつつ1冊も読んでないのに5点以上置いてある「気になる作家」がまだまだ何人もいる。
それで、夏休みを利用して、『教団X』を含む手もとの中村文則作品を12タイトル一気に読んでみた。
おもしろかった。まんまとハマりました。でも、
……疲れた……。
なぜこんなに疲れたのか。
中村さんの作品に性暴力衝動や近親相姦、児童虐待、カルト教団などの主題が繰り返し出てくるからか?
たしかに、たとえば『何もかも憂鬱な夜に』は死刑、『悪意の手記』は難病と、それぞれ「死」が避けられない状況を設定して、その状況を出発点あるいは着地点として、登場人物がひたすら思考する、という小説。
こう書くと、暗いとか気が滅入るとか辛気臭いとか言われそうだけど、僕の印象はちょっと違う。
読後の疲れはむしろ、騒々しい小説を読んだなあという感じなのだ。
なにしろ登場人物がひたすら考えごとをしていて、その内容が逐一言語化される。小説だから当たり前なんだけど。
おまけに、ときどき雄弁な対話相手も登場する。
そのせいで、「朝まで生テレビ!」をうっかり最後まで観てしまったときの疲れに似ている。
もっとも、中村文則作品のばあいは、読んでよかったと思わせる、もっと充実した疲れだけど。
作者自身ドストエフスキーやサルトルの名前を出しているように、中村さんの作品には、埴谷雄高、高橋和巳、笠井潔、京極夏彦の作品や近年では川上未映子の『ヘヴン』(講談社文庫/Kindle)などを思わせる、日本ではちょっと浮いてしまう「討論小説」という側面があるのだ。
重くて派手な題材をあつかうせいで、一見頭でっかちで観念的な作家のように思われがちかもしれない。けれど、短篇集『世界の果て』(文春文庫)を読むと、必ずしもそうではないということがわかる。
『世界の果て』収録作はちょっと異色というか、他の作品でもときどき出てくる変な笑いのセンスが、少し強めに出ている。作品によっては具体的な状況が浮かびにくい、不条理ギャグのような書きかたをわざとしていて、読んでいるとお経のようなグルーヴがある。
こう見えて意外に、散文の「ノリ」の多様性を体で実験している作家なのではないだろうか。
中村さんの小説の最大の特徴のひとつは、
「毎回、あとがきがある」
ということだ。ライトノベルっぽい。しかも文庫化にさいしては新たなあとがきを附すという念入りさだ。
あとがきは基本的に、
・当該書籍が自分の何冊目の本であるか(「これは僕の×冊目の本(が文庫本になったもの)になる」)
という情報から入り、
・短い自作自解
を経て、
・読者への感謝(〈この本を読んでくれた、全ての人達に感謝する〉)
で終わる。
ものすごく懇切だ。
最近では締めの一文が、
・〈共に生きましょう〉
というアーメン的な、アッサラームアライクム的な、メイザフォーズビーウィズユー的なフレーズになっている。きわめて意識的なフォーマットを守って書かれているのだ。
そのあとがきで中村さんは、つぎのようなことをよく書いている。
〈暗い小説であるし、なかなか癖もあるので、あまりこういう小説を読んだことのない方は、驚かれたかもしれない〉(「文庫解説にかえて 『遮光』について」)
〈「何かを燃やしてなければ存在できない、奇麗な、悪」という言葉なども出て来るけど、押し付けられるような明るさや、大多数が喜びそうに計算されたものが多い中、文学においてこういうものも必要なんじゃないか、と作者としては勝手に思っている〉〉(「文庫解説にかえて 『銃』、『火』について」)
たしかに中村さんの小説は、殺人や性暴力衝動、近親相姦、カルト、悪、といった題材を、しつこいくらいに取り上げる。
でもこういうテーマや題材自体は、小説にはむしろありふれてる。だからこそ伊井直行の『愛と癒しと殺人に欠けた小説集』という題名も成立する(この短篇集は題名だけでなく中身もかなりイケてる)。じつはこういう題材を避ける小説のほうが少数派だとすら言えるだろう。
だからもし中村作品に抵抗を感じる読者がいるとしたら、こういう直球の題材を直球に掘り下げ、主題性むき出しの内省や討論を書き、その必然性をあとがきで堂々と語る作者に、ある種の素朴さ・気恥ずかしさを感じる読者ではないかと思うのだ。
つまり中村作品が「暗い」からではなく、逆に「眩しい」からではないだろうか。
僕自身、この夏休みを中村作品を読んで過ごしながら、
「これ僕が18歳のころ読んでたら、嫌ったかもしれないなあ」
と思いもした。
『掏摸』(河出文庫/Kindle)、『悪と仮面のルール』、『王国』のフェイズでは、「日本を裏から動かすことも可能な巨悪」みたいな設定が出てきて、乗っていきにくい部分(ちょっと『1Q84』的な意味で)もあった。
中村作品は、じつは、
「まだ文学を読み慣れていない中学生が『これが文学だ』と感じる題材」
に満ちている。これでもかと盛っている。ぜんぶ載せだ。
中村さんは、「文庫解説にかえて 『迷宮』について」のなかで、〈「平均」から外れれば外れるほど、批判を受ける確率は高くなっていく〉と書いている。
これを読んで、「これって、いつも浮いてしまう自分のことだ……」と受け取ってしまう中学生がいるとしたら、それはじつはもっとも「平均」的な中学生なのだが、そんな彼・彼女が中村作品を読んだら、「これが文学だ!」とすんなり納得してしまうだろう。
だから、そこから少し経ってちょっと小説を読んだ気になっているくらいの読者(たとえば18歳の僕)だったら、
「僕もうこういうの卒業しましたんで」
なんていう滅茶苦茶間違ったことを言ってナメきってしまっただろう。もちろん、ちゃんと読めてなかっただろうということ。
小説でも音楽でもなんでもそうだが、「ちょっと小説を読んだ気になっているくらい」がいちばんフシアナなのかもしれない。
たしかに、ちょっと小説をいろいろ読んでいくと、小説の題材はべつに死や暴力や悪やなんかだけではないということがわかる。でも、死や暴力や悪やなんかが小説の題材でなくなったわけでもないのだ。
そこを誤解して、二者択一なんだと思っちゃうと、フシアナをこじらせて「通」「文学(批評)青年」になる。「通」くらい小説や読者を邪魔するものはない。
直球なもののナイーヴさをバカにする人は、自分のなかの「そういうものをおもしろいとおもってしまう部分」を許していなくて、それを投影して嘲笑してしまう「自信のない不安定な人」ではないかと思う(が、これは僕が勝手に18歳当時の自分を投影してるだけかもね)。
「まだ文学を読み慣れていない中学生が『これが文学だ』と感じる題材」がてんこ盛りな小説が、文学ではないときまったわけではないし、大人が読んでつまらないともかぎらない。
むしろ、それをあげつらって鼻で笑うのは、18歳の僕のような「子どもに毛の生えた程度の読者」にもできる。というか、「子どもに毛の生えた程度の読者」にこそふさわしい。
これにたいして、まだ文学を読み慣れていない中学生にも『これが文学だ』と納得させ、なおかつ大人もハマるものを書きつづけるのは、ほんとはけっして簡単なことではないし、強い意志を持った大人にしかできない営為だと、毛を失いつつある年齢に達したいまは思うんですよ。
(このあたりの議論、ちょっとややこしいですね。両方とも間違ったこと言ってないのに噛み合わなかった伊集院光さんとZeebraさんの「中二病」概念をめぐるやりとりに似てるかも)
『教団X』で中村さん興味を持った人にも、『教団X』未読の人にも、これから読むのがいいと思ったのは『何もかも憂鬱な夜に』(集英社文庫)だ。
これに『悪意の手記』(新潮文庫)と『世界の果て』(文春文庫)を合わせた3点が、中村文則スターターキット(自分もスターターなのになにを書いてるんだ俺は)。
この3点を、18歳ではなく13歳の自分にとりあえず薦めて、「共に生きましょう」と言ってあげたい。
(千野帽子)
『アメトーーク!』で話題
中村文則さんといえば、今年6月の『アメトーーク!』「読書芸人」(2回目。光浦靖子、若林正恭、又吉直樹が出演)の紀伊國屋書店新宿店ロケで、番組中に話題になっていたのが、書店平台上に展開された、直木賞作家・西加奈子さんと芥川賞作家・中村文則さんの作品だった。
あれから2か月たつけれど、大手書店の平台展開は意外に息が長く、衰えを見せない。気になって調べてみたら、近所の図書館の貸出順番待ちは『教団X』が約350人待ち、『あなたが消えた夜に』が100人超待ちだ。
夏休みを利用して一気に読んでみた
「読書芸人」OA時、僕の手もとには中村さんの小説が13冊あった。
まだ文庫化されてない『教団X』と、文庫化されていた11点12冊(デビュー作『銃』は新潮文庫版と、短篇1篇を加えた河出文庫版の両方)と。
しかし不勉強にして1冊も読んでなかった。
読んだことがなくても気になる作家は文庫が出るたびに入手する(文庫、というあたりが僕もたいていビビりである)わりに仕事に追われて読まないままに時間が経ってしまうので、こういうことがわりと起こる。本棚には、気になる気になる読みたい読みたいと思いつつ1冊も読んでないのに5点以上置いてある「気になる作家」がまだまだ何人もいる。
それで、夏休みを利用して、『教団X』を含む手もとの中村文則作品を12タイトル一気に読んでみた。
おもしろかった。まんまとハマりました。でも、
……疲れた……。
小説なのに「朝まで生テレビ!」
なぜこんなに疲れたのか。
中村さんの作品に性暴力衝動や近親相姦、児童虐待、カルト教団などの主題が繰り返し出てくるからか?
たしかに、たとえば『何もかも憂鬱な夜に』は死刑、『悪意の手記』は難病と、それぞれ「死」が避けられない状況を設定して、その状況を出発点あるいは着地点として、登場人物がひたすら思考する、という小説。
こう書くと、暗いとか気が滅入るとか辛気臭いとか言われそうだけど、僕の印象はちょっと違う。
読後の疲れはむしろ、騒々しい小説を読んだなあという感じなのだ。
なにしろ登場人物がひたすら考えごとをしていて、その内容が逐一言語化される。小説だから当たり前なんだけど。
おまけに、ときどき雄弁な対話相手も登場する。
そのせいで、「朝まで生テレビ!」をうっかり最後まで観てしまったときの疲れに似ている。
もっとも、中村文則作品のばあいは、読んでよかったと思わせる、もっと充実した疲れだけど。
中村文則は「観念的」か?
作者自身ドストエフスキーやサルトルの名前を出しているように、中村さんの作品には、埴谷雄高、高橋和巳、笠井潔、京極夏彦の作品や近年では川上未映子の『ヘヴン』(講談社文庫/Kindle)などを思わせる、日本ではちょっと浮いてしまう「討論小説」という側面があるのだ。
重くて派手な題材をあつかうせいで、一見頭でっかちで観念的な作家のように思われがちかもしれない。けれど、短篇集『世界の果て』(文春文庫)を読むと、必ずしもそうではないということがわかる。
『世界の果て』収録作はちょっと異色というか、他の作品でもときどき出てくる変な笑いのセンスが、少し強めに出ている。作品によっては具体的な状況が浮かびにくい、不条理ギャグのような書きかたをわざとしていて、読んでいるとお経のようなグルーヴがある。
こう見えて意外に、散文の「ノリ」の多様性を体で実験している作家なのではないだろうか。
毎回「あとがき」がつく
中村さんの小説の最大の特徴のひとつは、
「毎回、あとがきがある」
ということだ。ライトノベルっぽい。しかも文庫化にさいしては新たなあとがきを附すという念入りさだ。
あとがきは基本的に、
・当該書籍が自分の何冊目の本であるか(「これは僕の×冊目の本(が文庫本になったもの)になる」)
という情報から入り、
・短い自作自解
を経て、
・読者への感謝(〈この本を読んでくれた、全ての人達に感謝する〉)
で終わる。
ものすごく懇切だ。
最近では締めの一文が、
・〈共に生きましょう〉
というアーメン的な、アッサラームアライクム的な、メイザフォーズビーウィズユー的なフレーズになっている。きわめて意識的なフォーマットを守って書かれているのだ。
中村文則作品は「暗い」か?
そのあとがきで中村さんは、つぎのようなことをよく書いている。
〈暗い小説であるし、なかなか癖もあるので、あまりこういう小説を読んだことのない方は、驚かれたかもしれない〉(「文庫解説にかえて 『遮光』について」)
〈「何かを燃やしてなければ存在できない、奇麗な、悪」という言葉なども出て来るけど、押し付けられるような明るさや、大多数が喜びそうに計算されたものが多い中、文学においてこういうものも必要なんじゃないか、と作者としては勝手に思っている〉〉(「文庫解説にかえて 『銃』、『火』について」)
たしかに中村さんの小説は、殺人や性暴力衝動、近親相姦、カルト、悪、といった題材を、しつこいくらいに取り上げる。
でもこういうテーマや題材自体は、小説にはむしろありふれてる。だからこそ伊井直行の『愛と癒しと殺人に欠けた小説集』という題名も成立する(この短篇集は題名だけでなく中身もかなりイケてる)。じつはこういう題材を避ける小説のほうが少数派だとすら言えるだろう。
だからもし中村作品に抵抗を感じる読者がいるとしたら、こういう直球の題材を直球に掘り下げ、主題性むき出しの内省や討論を書き、その必然性をあとがきで堂々と語る作者に、ある種の素朴さ・気恥ずかしさを感じる読者ではないかと思うのだ。
つまり中村作品が「暗い」からではなく、逆に「眩しい」からではないだろうか。
文学を読み慣れていない中学生に「これが文学だ」と納得させる力
僕自身、この夏休みを中村作品を読んで過ごしながら、
「これ僕が18歳のころ読んでたら、嫌ったかもしれないなあ」
と思いもした。
『掏摸』(河出文庫/Kindle)、『悪と仮面のルール』、『王国』のフェイズでは、「日本を裏から動かすことも可能な巨悪」みたいな設定が出てきて、乗っていきにくい部分(ちょっと『1Q84』的な意味で)もあった。
中村作品は、じつは、
「まだ文学を読み慣れていない中学生が『これが文学だ』と感じる題材」
に満ちている。これでもかと盛っている。ぜんぶ載せだ。
中村さんは、「文庫解説にかえて 『迷宮』について」のなかで、〈「平均」から外れれば外れるほど、批判を受ける確率は高くなっていく〉と書いている。
これを読んで、「これって、いつも浮いてしまう自分のことだ……」と受け取ってしまう中学生がいるとしたら、それはじつはもっとも「平均」的な中学生なのだが、そんな彼・彼女が中村作品を読んだら、「これが文学だ!」とすんなり納得してしまうだろう。
だから、そこから少し経ってちょっと小説を読んだ気になっているくらいの読者(たとえば18歳の僕)だったら、
「僕もうこういうの卒業しましたんで」
なんていう滅茶苦茶間違ったことを言ってナメきってしまっただろう。もちろん、ちゃんと読めてなかっただろうということ。
小説でも音楽でもなんでもそうだが、「ちょっと小説を読んだ気になっているくらい」がいちばんフシアナなのかもしれない。
たしかに、ちょっと小説をいろいろ読んでいくと、小説の題材はべつに死や暴力や悪やなんかだけではないということがわかる。でも、死や暴力や悪やなんかが小説の題材でなくなったわけでもないのだ。
そこを誤解して、二者択一なんだと思っちゃうと、フシアナをこじらせて「通」「文学(批評)青年」になる。「通」くらい小説や読者を邪魔するものはない。
直球なもののナイーヴさをバカにする人は、自分のなかの「そういうものをおもしろいとおもってしまう部分」を許していなくて、それを投影して嘲笑してしまう「自信のない不安定な人」ではないかと思う(が、これは僕が勝手に18歳当時の自分を投影してるだけかもね)。
「まだ文学を読み慣れていない中学生が『これが文学だ』と感じる題材」がてんこ盛りな小説が、文学ではないときまったわけではないし、大人が読んでつまらないともかぎらない。
むしろ、それをあげつらって鼻で笑うのは、18歳の僕のような「子どもに毛の生えた程度の読者」にもできる。というか、「子どもに毛の生えた程度の読者」にこそふさわしい。
これにたいして、まだ文学を読み慣れていない中学生にも『これが文学だ』と納得させ、なおかつ大人もハマるものを書きつづけるのは、ほんとはけっして簡単なことではないし、強い意志を持った大人にしかできない営為だと、毛を失いつつある年齢に達したいまは思うんですよ。
(このあたりの議論、ちょっとややこしいですね。両方とも間違ったこと言ってないのに噛み合わなかった伊集院光さんとZeebraさんの「中二病」概念をめぐるやりとりに似てるかも)
これから読むなら「中村文則スターターキット」
『教団X』で中村さん興味を持った人にも、『教団X』未読の人にも、これから読むのがいいと思ったのは『何もかも憂鬱な夜に』(集英社文庫)だ。
これに『悪意の手記』(新潮文庫)と『世界の果て』(文春文庫)を合わせた3点が、中村文則スターターキット(自分もスターターなのになにを書いてるんだ俺は)。
この3点を、18歳ではなく13歳の自分にとりあえず薦めて、「共に生きましょう」と言ってあげたい。
(千野帽子)