今年は戦後70年。タモリは70歳。タモリが人生で決断を下したことは2回しかない
タモリの言葉として知られる「やる気があるものは去れ」。
では、タモリはやる気を出したことがあるのか?
自ら進んで何かを決断したことはあるのか?
近藤正高『タモリと戦後ニッポン』によれば、タモリが人生で決断を下したことは2回しかない。
『笑っていいとも!』の終了を決めたときと、30歳で仕事を全部辞めた時だ。
「いいとも終わるってホンマ?」
2013年10月22日火曜日、木曜レギュラーだった笑福亭鶴瓶がエンディングに突然出てきて切り出す。タモリは「来年の3月で『いいとも!』終わります」と答える。『笑っていいとも!』が終了することが初めて正式に伝えられた瞬間だ。
この段取りは、事前にタモリが鶴瓶に連絡して決めていたもの。
マスコミから伝えずに、番組内で幕引きをする。
『いいとも!』はタモリ本人の意志によって終了したのだ。
そもそも、『笑っていいとも!』は1995年に転機を迎えていたという。
「曜日対抗いいとも!選手権」などゲーム性が高いコーナーが始まり、タレントに何かを「やらせる」発想が出てきたこと。
明石家さんまやダウンタウンなど、初期〜中期のレギュラーが相次いで卒業していること。
田原俊彦・野村沙知代・橋田壽賀子・和泉節子など、ニュースバリューやキャラクターが強い人物がレギュラーになったこと。
これらを踏まえ、『タモリと戦後ニッポン』では1995年は「笑わせる」笑いから「笑われる」笑いへのシフトした年であると指摘する。
それにしても、1995年から2014年に番組が終わるまで、まだ20年近くある。
これを戦後になぞらえて「失われた20年」と呼んでもいいと思う。
ならば、タモリにおける「高度成長期」はどこから始まったのだろう。
1968年、早稲田大学を除籍になったタモリは、故郷の福岡に戻る。
福岡で7年間を過ごし、1975年に上京して芸能界にデビューする。
この「空白の7年間」を『タモリと戦後ニッポン』では取材を交えて明らかにする。
タモリを「発掘」したジャズ・ピアニスト山下洋輔や、タモリに仕事を紹介した現福岡市議会議員に当時の様子を聞く。
タモリの生家跡の前にある坂道(福岡県南区)にも実際に立って、周辺の地理を把握する。
タモリは福岡で生命保険会社のセールスマンとして働き、先輩の紹介でボウリング場に転職。
支配人まで出世するが、新規開業するフルーツパーラーにバーテンとしてスカウトされる。
この間、1972年に福岡のホテルで山下洋輔らのどんちゃん騒ぎに偶然遭遇し、スルッと乱入。
デタラメな外国語などが受け、山下らが福岡に来るたび呼び出され「オモチャ」にされていた。
そして30歳を前にして仕事をすっぱりと辞める。
《最近本人が語ったところによれば、30歳を前に勤めをやめたのは、30までは何をやってもいいが、30から一生やる仕事を見つけないといけないと以前より考えていたらだ。いったい自分は何をやるのがいいのだろうと考えた末に、やはりお笑いしかないんじゃないかと思いいたったという。 (P.128)》
今では想像しがたい「タモリがやる気を出した瞬間」だ。
このころの人口分布についても記述がある。
《タモリが30歳になったのは、戦後30年目の節目であった。1975年8月、戦後生まれは日本の総人口の49.4%に達してた。(P.130)》
この頃の日本は、人口の半分が30歳以下という若い国だったのだ。
20代から30代のあいだには、いま以上に高い壁があっただろう。
芸人になる強い決意があったから、30歳で仕事を辞めた。
タモリはやる気を出して、壁を越えていったのだと思う。
『タモリと戦後ニッポン』は、タモリの半生を追いながら、過ごした場所、触れた文化、出会った人物を詳細に描く。
序章 ”偽郷”としての満州
第1章 坂とラジオ、そしてジャズ
第2章 大学紛争とダンモ研狂騒曲
第3章 空白の7年間
第4章 ニッポン最後の居候
第5章 テレビ界「お笑い」革命
第6章 ”変節”と”不変”
第7章 「リスペクト・フォー・タモリ」ブーム
第8章 タモリとニッポンの”老後”
今年は戦後70年。タモリは70歳。
高度成長の後に失われた20年を経験したタモリは、いま全国をブラブラしてヨルを楽しんでいる。
(井上マサキ)
では、タモリはやる気を出したことがあるのか?
自ら進んで何かを決断したことはあるのか?
近藤正高『タモリと戦後ニッポン』によれば、タモリが人生で決断を下したことは2回しかない。
『笑っていいとも!』の終了を決めたときと、30歳で仕事を全部辞めた時だ。
『笑っていいとも!』と「失われた20年」
「いいとも終わるってホンマ?」
この段取りは、事前にタモリが鶴瓶に連絡して決めていたもの。
マスコミから伝えずに、番組内で幕引きをする。
『いいとも!』はタモリ本人の意志によって終了したのだ。
そもそも、『笑っていいとも!』は1995年に転機を迎えていたという。
「曜日対抗いいとも!選手権」などゲーム性が高いコーナーが始まり、タレントに何かを「やらせる」発想が出てきたこと。
明石家さんまやダウンタウンなど、初期〜中期のレギュラーが相次いで卒業していること。
田原俊彦・野村沙知代・橋田壽賀子・和泉節子など、ニュースバリューやキャラクターが強い人物がレギュラーになったこと。
これらを踏まえ、『タモリと戦後ニッポン』では1995年は「笑わせる」笑いから「笑われる」笑いへのシフトした年であると指摘する。
それにしても、1995年から2014年に番組が終わるまで、まだ20年近くある。
これを戦後になぞらえて「失われた20年」と呼んでもいいと思う。
ならば、タモリにおける「高度成長期」はどこから始まったのだろう。
やる気を出した瞬間
1968年、早稲田大学を除籍になったタモリは、故郷の福岡に戻る。
福岡で7年間を過ごし、1975年に上京して芸能界にデビューする。
この「空白の7年間」を『タモリと戦後ニッポン』では取材を交えて明らかにする。
タモリを「発掘」したジャズ・ピアニスト山下洋輔や、タモリに仕事を紹介した現福岡市議会議員に当時の様子を聞く。
タモリの生家跡の前にある坂道(福岡県南区)にも実際に立って、周辺の地理を把握する。
タモリは福岡で生命保険会社のセールスマンとして働き、先輩の紹介でボウリング場に転職。
支配人まで出世するが、新規開業するフルーツパーラーにバーテンとしてスカウトされる。
この間、1972年に福岡のホテルで山下洋輔らのどんちゃん騒ぎに偶然遭遇し、スルッと乱入。
デタラメな外国語などが受け、山下らが福岡に来るたび呼び出され「オモチャ」にされていた。
そして30歳を前にして仕事をすっぱりと辞める。
《最近本人が語ったところによれば、30歳を前に勤めをやめたのは、30までは何をやってもいいが、30から一生やる仕事を見つけないといけないと以前より考えていたらだ。いったい自分は何をやるのがいいのだろうと考えた末に、やはりお笑いしかないんじゃないかと思いいたったという。 (P.128)》
今では想像しがたい「タモリがやる気を出した瞬間」だ。
このころの人口分布についても記述がある。
《タモリが30歳になったのは、戦後30年目の節目であった。1975年8月、戦後生まれは日本の総人口の49.4%に達してた。(P.130)》
この頃の日本は、人口の半分が30歳以下という若い国だったのだ。
20代から30代のあいだには、いま以上に高い壁があっただろう。
芸人になる強い決意があったから、30歳で仕事を辞めた。
タモリはやる気を出して、壁を越えていったのだと思う。
『タモリと戦後ニッポン』は、タモリの半生を追いながら、過ごした場所、触れた文化、出会った人物を詳細に描く。
序章 ”偽郷”としての満州
第1章 坂とラジオ、そしてジャズ
第2章 大学紛争とダンモ研狂騒曲
第3章 空白の7年間
第4章 ニッポン最後の居候
第5章 テレビ界「お笑い」革命
第6章 ”変節”と”不変”
第7章 「リスペクト・フォー・タモリ」ブーム
第8章 タモリとニッポンの”老後”
今年は戦後70年。タモリは70歳。
高度成長の後に失われた20年を経験したタモリは、いま全国をブラブラしてヨルを楽しんでいる。
(井上マサキ)