『いつも心に立川談志』師匠を囲んだ弟子が感情移入しておいおい泣く。それは師匠の最も嫌うところです
立川談志は夫人のことを「ノンくん」と呼んでいた。
ノンくんこと則子夫人は父親が読売新聞社の記者として働いていた堅い家に生まれ、第一生命ホールで働いていたときにまだ二つ目で小ゑんと名乗っていたころの談志と知り合った。夫・24歳、妻・22歳の若い夫婦が出来上がる。だが談志は則子夫人が自分の住む古い世界の色に染まることを嫌い、徹底して落語界から遠ざけた。通いでやってくる弟子たちにも、自分の家族の仕事は絶対させなかったのである。「あいつらは俺の弟子であって家族の弟子ではない」というのが談志の信念だった。
その結果、ノンくんは、落語家の妻らしい女性、いわゆる「おかみさん」にはならなかった。落語にもほぼ無関心で、「談志十八番の「野ざらし」をあざらしが出てくる落語だと思っていた」(『人生、成り行き』新潮文庫)ほどだという。
その則子夫人が、おそらくは生涯で最初で最後の推薦文を書いた。写真・橘蓮二、文・立川談四楼の写文集『いつも心に立川談志』である。
──蓮二さんの写真のなかで談志(パパ)はいまも私といっしょに生きています。
写真家の橘連二は2004年ごろから談志の高座姿などを写真に撮り始めた。はじめは無関心を装っていた談志だったが、2006年秋になって突然橘に声を掛け「お前はもう好きにしていい、いつでも撮らせてやる」と認める発言をした。それからは楽屋などにも出入りが自由になり、より近い場所での撮影ができるようになった。談志は2011年11月に亡くなったが、その最晩年の5年間を写真に収め続けたことになる。
『いつも心に立川談志』に収められているのは、そうした日々の談志の姿だ。毒舌で名を馳せてマスコミの寵児となって参議院議員まで務め、落語協会を飛び出し、子飼いの弟子だけではなく各界の著名人を門下に入れて落語立川流を創設し、といった壮年のころの眩いばかりの輝きは、本書の写真にはない。ここにあるのは、そうした尖鋭さとは無縁の温もり、そして静謐さを感じる時の流れだ。老いと共棲するようになった談志の姿を本書では見ることができる。
2012年、橘の元に突然、則子夫人からお礼の電話が入った。
「いただいた写真と一緒にいるとパパがまだ生きているみたいで寂しくないの、ありがとう」
展示会で使用した後に差し上げた談志の写真の中に、則子夫人お気に入りの一枚があった。それをいつもそばに置いて過しているのだという。
橘にとっては嬉しい驚きとなった。それがきっかけで本書の企画も生まれている。
文章を担当したのは談志高弟の一人、立川談四楼だ。師の没後は立川流を運営する理事の一人となり、一門をしっかりと支える鼎の役をこなしている。2014年に立川流では二つ目を対象とした真打トライアルが行われ、無事に5人の昇進が内定した。そのトライアルを積極的に進めていたのも談四楼である。
談四楼と師の間には穏やかな日々ばかりがあったわけではない。突然、理不尽な理由で破門を言い渡されたこともあった。それも前座や二つ目といった駆け出しのころではない。真打に昇進し、自らも弟子をとる身分になったころに、突然破門と告げられたのだ。そのことを談四楼は自著『談志が死んだ』に書いている。そうした波乱があったからこそ見えてくる部分もある。談志が一人胸に秘め、口に出せないからこそ昏く燃え盛ったであろう懊悩の炎を、家族以外では唯一知る人と言ってもいいだろう。さまざまな葛藤はあったかもしれないが、すべて過ぎ去ったことだ。談四楼は自らの文章を「師匠への手紙」と題し、亡き師に語りかけるように綴っている。書き出しは、このように始まっているのである。
──それにしても師匠、いい笑顔ですね。毒舌を一瞬にして相殺して余りある笑顔は昔から売りでしたが、それにしてもいい笑顔です。しかも柔和です(「詮ないこと」)
談志と弟子たちが最後に顔を合わせたのは、行き着けのバー・美弥でのことだった。しばらくぶりに姿を現した談志は首のスカーフを取って、喉元に空いた穴を見せつけた。喉頭がんの手術のために、声帯を失ってしまったのだ。愕然とし、沈黙するしかない弟子たちを前に、則子夫人がこう言った。
「パパは落語家なのに喋れなくなったのよ」
──(前略)ドカンと笑いました。あのオカミさんのひと言は笑いの間だったのです。本当に助かりました。あれがなかったら泣くところでした。師匠を囲んだ弟子が感情移入しておいおい泣く。それは師匠の最も嫌うところです。そうですよね。(後略)
談志の死後、遺体は密葬にて荼毘に伏された。死に目に会えなかったことを引きずる弟子もいるが、談四楼は「師匠に取り縋って号泣する」弟子たちという愁嘆場を晒さなかったことは良かったのだと結論づける。「他の一門のウェットな師弟を見ていると、睦まじいのはけっこうですが、何かから目を逸らし、楽をしているように思えるのです」と。情だけではなく、互いの才によって結びついた関係ゆえの厳しい姿勢がそこにある。師とともに40年以上も歩んだ高弟だからこそ書ける一文だ。
談志亡き後の一門の動向についても、幹部ならではの視点で綴られている。ゴシップ好きな読者はそちらも楽しみのはずだ。
落語立川流といえば2014年12月にちょっとした騒動が持ち上がったことをご記憶の方もいるだろう。理事の要職にあった立川談幸が2014年末をもって立川流を退会し、落語芸術協会に移籍することが突如発覚したのだ。談幸は談志に唯一内弟子を許された腹心であり、立川流の良心とも言われた人だったから寝耳に水でファンはみんな驚いた。しかもその情報をリークしたのが、同じく立川流重鎮の
ノンくんこと則子夫人は父親が読売新聞社の記者として働いていた堅い家に生まれ、第一生命ホールで働いていたときにまだ二つ目で小ゑんと名乗っていたころの談志と知り合った。夫・24歳、妻・22歳の若い夫婦が出来上がる。だが談志は則子夫人が自分の住む古い世界の色に染まることを嫌い、徹底して落語界から遠ざけた。通いでやってくる弟子たちにも、自分の家族の仕事は絶対させなかったのである。「あいつらは俺の弟子であって家族の弟子ではない」というのが談志の信念だった。
その結果、ノンくんは、落語家の妻らしい女性、いわゆる「おかみさん」にはならなかった。落語にもほぼ無関心で、「談志十八番の「野ざらし」をあざらしが出てくる落語だと思っていた」(『人生、成り行き』新潮文庫)ほどだという。
晩年の談志のたまらない笑顔
その則子夫人が、おそらくは生涯で最初で最後の推薦文を書いた。写真・橘蓮二、文・立川談四楼の写文集『いつも心に立川談志』である。
──蓮二さんの写真のなかで談志(パパ)はいまも私といっしょに生きています。
写真家の橘連二は2004年ごろから談志の高座姿などを写真に撮り始めた。はじめは無関心を装っていた談志だったが、2006年秋になって突然橘に声を掛け「お前はもう好きにしていい、いつでも撮らせてやる」と認める発言をした。それからは楽屋などにも出入りが自由になり、より近い場所での撮影ができるようになった。談志は2011年11月に亡くなったが、その最晩年の5年間を写真に収め続けたことになる。
『いつも心に立川談志』に収められているのは、そうした日々の談志の姿だ。毒舌で名を馳せてマスコミの寵児となって参議院議員まで務め、落語協会を飛び出し、子飼いの弟子だけではなく各界の著名人を門下に入れて落語立川流を創設し、といった壮年のころの眩いばかりの輝きは、本書の写真にはない。ここにあるのは、そうした尖鋭さとは無縁の温もり、そして静謐さを感じる時の流れだ。老いと共棲するようになった談志の姿を本書では見ることができる。
2012年、橘の元に突然、則子夫人からお礼の電話が入った。
「いただいた写真と一緒にいるとパパがまだ生きているみたいで寂しくないの、ありがとう」
展示会で使用した後に差し上げた談志の写真の中に、則子夫人お気に入りの一枚があった。それをいつもそばに置いて過しているのだという。
橘にとっては嬉しい驚きとなった。それがきっかけで本書の企画も生まれている。
恩讐を超えた思いが籠もる
文章を担当したのは談志高弟の一人、立川談四楼だ。師の没後は立川流を運営する理事の一人となり、一門をしっかりと支える鼎の役をこなしている。2014年に立川流では二つ目を対象とした真打トライアルが行われ、無事に5人の昇進が内定した。そのトライアルを積極的に進めていたのも談四楼である。
談四楼と師の間には穏やかな日々ばかりがあったわけではない。突然、理不尽な理由で破門を言い渡されたこともあった。それも前座や二つ目といった駆け出しのころではない。真打に昇進し、自らも弟子をとる身分になったころに、突然破門と告げられたのだ。そのことを談四楼は自著『談志が死んだ』に書いている。そうした波乱があったからこそ見えてくる部分もある。談志が一人胸に秘め、口に出せないからこそ昏く燃え盛ったであろう懊悩の炎を、家族以外では唯一知る人と言ってもいいだろう。さまざまな葛藤はあったかもしれないが、すべて過ぎ去ったことだ。談四楼は自らの文章を「師匠への手紙」と題し、亡き師に語りかけるように綴っている。書き出しは、このように始まっているのである。
──それにしても師匠、いい笑顔ですね。毒舌を一瞬にして相殺して余りある笑顔は昔から売りでしたが、それにしてもいい笑顔です。しかも柔和です(「詮ないこと」)
談志と弟子たちが最後に顔を合わせたのは、行き着けのバー・美弥でのことだった。しばらくぶりに姿を現した談志は首のスカーフを取って、喉元に空いた穴を見せつけた。喉頭がんの手術のために、声帯を失ってしまったのだ。愕然とし、沈黙するしかない弟子たちを前に、則子夫人がこう言った。
「パパは落語家なのに喋れなくなったのよ」
──(前略)ドカンと笑いました。あのオカミさんのひと言は笑いの間だったのです。本当に助かりました。あれがなかったら泣くところでした。師匠を囲んだ弟子が感情移入しておいおい泣く。それは師匠の最も嫌うところです。そうですよね。(後略)
談志の死後、遺体は密葬にて荼毘に伏された。死に目に会えなかったことを引きずる弟子もいるが、談四楼は「師匠に取り縋って号泣する」弟子たちという愁嘆場を晒さなかったことは良かったのだと結論づける。「他の一門のウェットな師弟を見ていると、睦まじいのはけっこうですが、何かから目を逸らし、楽をしているように思えるのです」と。情だけではなく、互いの才によって結びついた関係ゆえの厳しい姿勢がそこにある。師とともに40年以上も歩んだ高弟だからこそ書ける一文だ。
「立川流健在なり」を師に報告
談志亡き後の一門の動向についても、幹部ならではの視点で綴られている。ゴシップ好きな読者はそちらも楽しみのはずだ。
落語立川流といえば2014年12月にちょっとした騒動が持ち上がったことをご記憶の方もいるだろう。理事の要職にあった立川談幸が2014年末をもって立川流を退会し、落語芸術協会に移籍することが突如発覚したのだ。談幸は談志に唯一内弟子を許された腹心であり、立川流の良心とも言われた人だったから寝耳に水でファンはみんな驚いた。しかもその情報をリークしたのが、同じく立川流重鎮の