『塚本晋也×野火』塚本晋也監修/游学社

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塚本晋也監督の『野火』を観ました。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を観たのと同じ立川シネマシティで観ました。シネマシティには1と2があり、マッドマックスは2で、『野火』は1でした。

信頼する大根仁監督がツイッターで、《今年劇場で観ないと絶対に後悔するのはマッドマックスと野火ですよ!!》
と書いていたのを、まにうけて、物書きの先輩と二人で観ました。

私は、いろんなことを、まにうける人間です。そのせいか、先日マッドマックスのレビューを書いたら、たくさんの人を怒らせてしまいました。「怒ってないです。ただ異論を冷静に言っているだけです」と、ものすごい剣幕で言われたりしました。でも、まにうけた私の数々の疑問を、ひとつずつ解きほぐしてくれる未知の方もあらわれたし、書いたことを悔やんでいません。

しぜんと、『野火』と『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を、比較するような心もちで映画館の席にすわりました。もちろん、もっとほかに比較すべき作品はあるのだとわかっていますが、2015年の夏に、ふたつの映画をほぼ同時期に観たという個人的な体験を忘れたくなくて、これを書き始めました。

冒頭5分で死にたくなった


言葉による説明が少ないのは、ふたつの映画の共通点でした。いきなり、何の予備知識もなしに、映画の中の世界に放り込まれます。夢の中にいるとき、それが夢であるということを意識しないように、私はその世界で息をしました。マッドマックスでは冒頭の5分で、ああ自分はもう死んだなと思いました。『野火』では、冒頭の5分ですっかり死にたくなりましたが、あいにくと、ここはそう簡単に、すっきり死なせてくれない世界のようでした。

私は文学青年だったので、もちろん大岡昇平の原作『野火』(新潮文庫)は読んでいます。けれど、はたしてほんとうに読んでいたのだろうかと疑いながら、生まれて初めて味わう『野火』の世界に、没頭していきました。

ナレーションもなく、字幕もない。真っ黒に汚れた顔をした主人公の男性が、南の島に立っているところから世界が始まります。目のまわりは紫っぽく変色し、肺病になっているらしく、咳き込んでいます。ハエが飛ぶような耳障りな音が、ずっと聞こえています。

軍隊で足手まといになっているから、野戦病院的な場所へ行くようにと言われ、上の人からイモを持たされます。病院的な場所は、食料でも持っていかないと、おいてくれないのです。しかし半分死んでいるような人々がうめき苦しんでいる場所に、主人公の居場所はありません。すぐに退院を命じられた主人公は、それを“まにうけて”軍隊に戻りますが、戻って来るなと殴られて、たらいまわしにされます。病院的な場所と軍隊を何往復もして、幾度も殴られ、病状はちっともよくならず、ただ貴重なイモだけが減っていきます。

マッドマックス最新作を観たとき、闘いのさなかなのに食べ物が出てこないのが謎で、ケガの痛みが強調されないのも不思議でした。『野火』では皆が、見るからに栄養がなさそうな、サツマイモでもジャガイモでもない、貧相なイモを奪い合って食べていました。ゆでても生でも、どちらでも、すごく不味そう。

マッドマックスにも五体満足でない人は大勢出てきますが、古傷(?)は、つるりとしています。『野火』の傷口には、ウジがわいています。しかも、ハエがたかっています。

マクガフィンもない


マッドマックスの世界では、妊婦を含む美しい女性たちがマクガフィンでした。しかし『野火』にマクガフィンはありません。戦争なのだから、勝つことが目標だろうと君は思うかもしれません。そんなレベルではないのです。ただ食料を確保して生きるので精一杯。

主人公は最後まで死なないで生きるだろう、そこはマッドマックスと同じだろうと思って見ました。なにしろ主人公は日本に帰って、『野火』を書かなくてはならないからです。『野火』は私小説ではなく、狂人の手記というスタイルで書かれた小説です。マックスも狂気の中を生きていたのは同じでした。マッドマックスの過酷な世界は砂漠だから乾いていました。『野火』は湿っています。両方とも象徴のように火がたくさん出てきました。

銃もたくさん出てきます。私は男なのに銃やナイフに興味を持った時期が一度もなく、男性性が欠如していることを自覚しています。だからマッドマックスの銃にもうっとりできませんでした。『野火』の銃や手榴弾は、いわゆる健康な男子が見たら、多少は心ときめくものなのでしょうか。とてもそうは思えないほど、皆、イモを食べることに必死でした。

何の予備知識もなく観たので、主人公の男性が塚本晋也監督自身であることも知りませんでした。主人公の大切なものを奪おうとするズル賢い男が、リリー・フランキーであることにも途中まで気づきませんでした。キャスティングということを意識しないほど、その世界に生きている、本物の人として見つめていました。『野火』は私にとってドキュメンタリー映画でした。本当に起きたことだから仕方ない、という気持ちで無駄に死んでいく人たちを見ました。主人公は病いのせいで動きがにぶく、そのせいで命びろいした側面もあるように見えました。私がもしこの世界にいても、ドッジボールでボールに触れずに逃げ続けるような要領で、意外と最後のほうまで生きてしまったかもしれないと思いました。

そして自分も加害者だった


主人公が明らかな加害者になる瞬間があります。その瞬間も私は、ああ同じ状況になったら自分も主人公と同じ行動をしただろうと思いました。主人公はわりとお人好しで、求められると大切なものをあげてしまったりするのですが、そんな主人公でも加害者になるのだということが、全身で、わかりました。

映画館を出ると、立川は灼熱で、さっきまでひたっていた空気と地続きの場所にいるように感じました。一緒に観た物書きの先輩は、「あのような戦争を経て、気が狂わずに、日本をたてなおしたというのは信じられない」と言いました。平日だったせいか、映画館には老人世代が比較的多かったのですが、私のとなりにいた戦争経験のありそうな年配の女性は、映画を観ながらパン的なものを食べていました。「あの映像を観ながら、よく食えるよなあ」と、物書きの先輩は感心していました。

物書きの先輩が後日、メールでおしえてくれた毎日新聞の記事を読みました。作家の半藤一利さんが、《私は戦没者のうちの7割が、広義での餓死だと思っています。》と語っています。

『野火』を体験して以降、イモ以外の食べ物があることの有り難さに時々、立ちすくむような気持ちになります。私はあの主人公よりも、もしかしたら「猿」の肉を食べることに、抵抗がないかもしれないと思いました。

マッドマックス最新作を何度も観たという君に、『野火』を観てもらうにはどうしたらいいのかと思って書いてみたけれど、逆効果だったでしょうか。デートには不向きです。でも一緒に観た人とは一生、同じトラウマを抱えて生きることができるかもしれません。
(枡野浩一)