池澤夏樹=個人編集《日本文学全集》22『大江健三郎』。年譜=尾崎真理子、月報=中村文則+野崎歓、帯装画=できやよい。

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池澤夏樹=個人編集《日本文学全集》(河出書房新社)の第1期第6回配本は、第22巻『大江健三郎』。ノーベル文学賞作家だ。

 エキレビ!では先日、枡野浩一さんが小谷野敦『江藤淳と大江健三郎 戦後日本の政治と文学』について語ったばかり(「江藤淳は不勉強、大江健三郎の政治的発言は凡庸。小谷野敦の筆舌はもう、とまらない」)なので、その名前は記憶に新しい。
大江さんは若くして小説家としてデビューし、大学生のときに芥川賞を受賞した。その作家活動はもうすぐ60年になろうとしている。
その数多い作品から池澤さんが選んだ今回の収録作はこちら。いい意味で偏ったセレクト。

・長篇小説『人生の親戚』(1989→Kindle/《大江健三郎小説》9所収)
・長篇小説『治療塔』(1990→Kindle/《大江健三郎小説》6所収)
・短篇小説「鳥」(1958→『見るまえに跳べ』新潮文庫/Kindle/《大江健三郎全作品》第1期2所収)
・連作集『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』(新潮文庫/Kindle)より中篇小説「狩猟で暮したわれらの先祖」(1968→《大江健三郎全作品》第2期2/《大江健三郎小説》3にも所収)
・ルポルタージュ『ヒロシマ・ノート』(1965)より「人間の威厳について」
・長篇エッセイ『私という小説家の作り方』(1998→新潮文庫/Kindle)より「ナラティヴ、つまりいかに語るかの問題」

池澤さんは解説でこう書いている──
〈この人の文学において特異なのは、この家族の外はすぐ社会であって、その間をつなぐ世間という遷移領域がないことだ。〔…〕魂があって、政治があって、その間が空っぽ。〔…〕もっとも卑俗な領域がすっぽり抜けている〉
大江健三郎の小説はシャカイ系なのだ。

なぜ自分がこんな目に? と思ったら大江を読め


『人生の親戚』にも『治療塔』にも、見通しのよい高みから広い世界を見わたそうとするような「志」を見せる場面がある。
1980-90年代の大江健三郎のテーマのひとつが、「回復」「癒し」だったのだ。
『人生の親戚』の主人公・倉木まり恵の長男は知的障碍を持ち、次男は事故で障碍を負い、そしてふたりとも自殺してしまう。
僕だったら「なぜ自分がこんな悲しいことを体験してしまうのだろう?」とヤケをおこしてしまうかもしれない。

なぜ自分が? という問いは、実存的な問いだ。人生には、だれからも答えてもらえない問いを問うて、それに自分で答えなければならないときがある。
まり恵さんはそれにどう答えようとするのか。語り手はそれをどう受け止めるのか。
SF長篇『治療塔』は、〈選ばれた〉人々が地球外に移住した未来、汚染された地球に残された人々を描く。続篇に『治療塔惑星』がある。2011年の地震を経て、改めて読む機会がきた小説だと思う。

『人生の親戚』にも『治療塔』にもショッキングな性暴力が出てくる。これにかぎらず、大江健三郎は、作中で暴力や下ネタにやたらと固執する。
暴力に固執してしまう大江作品は、妄想力が強すぎて、世界の悪意になにかと怯えている。ちょっと怯えすぎなのではないか。

たとえば「鳥」では、とにかく外界を忌避する早すぎた引きこもり青年が主役だ。この作品は、ジャック・ニコルソン主演の映画や劇団四季の舞台でも知られるケン・キージーの『カッコーの巣の上で』を思わせる。
この青年や、「狩猟で暮したわれらの先祖」の〈「山の人」たち〉のようなアウトサイダーは、一見平和に暮らしている一般人にたいして、「あなたたちの生活は見てくれだけの嘘っぱちではないのか」と問題をつきつける

月報では中村文則さんが『個人的な体験』(新潮文庫/Kindle)で大江作品に出会い、〈そこから大江さんの作品を、デビュー作から順番に読む日々が続いた〉学生時代を回想して、こう書いている。
〈当時、僕は自分のことを鬱々とした学生だと思っていたが、今振り返れば、相当に幸福な読書体験の渦中にある、幸福な学生だったのだと思う〉

わかる。わかります中村さん。
僕も若いころ、文庫オリジナル編集の短篇集『空の怪物アグイー』(新潮文庫/Kindle)で大江健三郎に遭遇し、そのあとやはり『個人的な体験』『ピンチランナー調書』(新潮文庫/Kindle)、解説で池澤さんが〈いちばん熱心に読んだ〉という『同時代ゲーム』(新潮文庫/Kindle)の2長篇を読んだあと、初期作品から順番に読んでいった。

童貞も大江を読め


大江健三郎は、関係代名詞がない日本語で無理やり長い文章を書くので、いろいろとめんどくさい書き手なのだ。
そんな大江のどこに当時の僕はそんなに惹かれたのか?
先述の、世界への怯えや、その裏返しの、暴力への興味、そしておとなの嘘っぱちを暴く態度。
これはピュアな幼児性、というか男子中学生っぽさだ。大江さんは永遠の中学生なのだ。

ピュアというのは、おとなにとって「はた迷惑」ということでもある。
いまとなってはわかる。そのあたりが、気張って生きている14歳童貞の心にグッときたのだということだ。
そしておとなになったいまはいまで、なぜ自分がこんな目に? と思うことがあるたびに、大江作品のことを思い出しては、見通しのよい高みから広い世界を見わたそうとしているのだった。

なお、大江さんは改版や新版にさいしてよく改訂する作家でもある。僕は以前、1960年代の自作に出てくる〈トルコ風呂〉を、のちに改版のさいに大江さんが、 1980年代の新語である〈ソープ〉に置き換えたことについて、「あいまいなソープランドの私」という文章を書いたことがある(前篇、>中篇、