2001年に公開された宮崎駿監督作品『千と千尋の神隠し』。興行収入は300億円を突破し、日本歴代興行収入第1位を達成。第75回アカデミー賞長編アニメーション部門をはじめ、第52回ベルリン国際映画祭の金熊賞、ニューヨーク映画批評家協会賞。今さら紹介するのも気がひけるくらいの、スーパー・メジャー作品である。

あらゆる媒体で語り尽くされてきたこの映画について、弱小映画ライターである筆者が付け加えることなど微塵もないのだが、FILMAGA編集部から直々に『千と千尋の神隠し』解説を依頼されたら、それに応えるのが義務。

という訳で今回は、『千と千尋の神隠し』についてネタバレ解説していこう。

映画『千と千尋の神隠し』あらすじ

両親と車で引越し先へと向かう10歳の少女・千尋。その道中で不思議なトンネルを発見し、誰もいない街に迷い出てしまう。無人であることをいいことに、千尋の父と母がそこにあった料理を貪るように食べていると、突然豚の姿に。ここは八百万の神々が住む異界で、神様に提供する料理に手を付けた罰として、両親は家畜の姿に変えられてしまったのだ。

千尋はハクと名乗る少年に助けられ、ここで生きていくには油屋という湯屋で働くしかないと伝えられる。千尋は意を決して、「油屋」の経営者・湯婆婆の元に向かうのだが……。

※以下、映画『千と千尋の神隠し』のネタバレを含みます

10歳の女の子のためにつくられた物語

千と千尋の神隠し』は、もともと『煙突描きのリン』​という企画からスタートした。その内容について、プロデューサーの鈴木敏夫はこう語っている。

震災後の東京を舞台に、風呂屋の煙突に絵を描く二十歳の女の子の話だといいます。その女の子がある陰謀に巻き込まれて、すったもんだの大騒動が起きる。その相手側のボスというのが六十歳のおじいさん。

どうも話を聞いていくと、そのじいさんというのが宮崎駿自身なんですね。そして、あろうことか敵対する二人は歳の差を超えて恋に落ちる…。
(『文春ジブリ文庫12 千と千尋の神隠し』より)

うーむ、なかなかにヤバいロリコン話である。しかし『ルパン三世 カリオストロの城』にせよ、『紅の豚』にせよ、宮崎作品には「年端もいかない少女が、中年男に恋をする」という親父妄想パターンが多い。

宮崎駿は猛然とストーリーボードを描いてイメージを膨らませていくが、最終的に鈴木敏夫の反対もあって『煙突描きのリン』​を断念。代わりに出てきたアイデアが、「千晶の映画をつくる」ということだった。

千晶というのは、日本テレビ映画部のスタジオジブリ担当・奥田誠治の娘さん。毎年、信州にある宮崎駿の山小屋に遊びに行くことが毎年の恒例行事になっていて、この10歳の少女とは家族ぐるみの付き合いだった。宮崎は彼女を「赤ん坊から知っているガールフレンド」と公言し、彼女は宮崎のことを「山のオジチャン」と呼んでいた。

あの両親に任せておいたら、千晶はどうなっちゃうんだろう?千晶のために映画を作らなきゃいけないんじゃないか
(『文春ジブリ文庫12 千と千尋の神隠し』より)

と宮崎駿は語ったそうだが、はっきり言って余計なお節介である。しかし、宮崎駿は「親が子供を育てること」の質の低下を、以前から嘆いていたのではないか。だからこそ、思春期前の子供であろうと、親から自立してこの世界を生き抜かなければならないことを、映画を通して伝えたかったのではないか。『千と千尋の神隠し』は、宮崎駿の社会的責任感から産まれた作品なのだ。

考えてみれば『崖の上のポニョ』​(2008)も、無鉄砲な母親と家を留守にすることが多い父親のもとで育った宗介が、水没した世界でサバイバルする物語だった。

かくして、現実の10歳の少女のためにつくられた物語は、そのまま“千晶”ではよろしくないだろうという配慮で“千尋”という名前に改名され、『千と千尋の神隠し』というタイトルで企画がスタートする。

「生きること」とは「働くこと」。宮崎駿の労働観

千尋は、およそ宮崎アニメのヒロインとは思えないキャラクターだ。ワガママでスネかじりで両親には文句ばかり。典型的な都会育ちの一人っ子である。そんな彼女が八百万の神々が住む異界に迷い込み、不思議な体験を通して次第に成長していく。

しかし彼女は、特殊な能力を使って魔物と戦ったりする訳ではない。湯屋「油屋」で掃除をしたり、お風呂の準備をしたり、ただただ働くだけ。湯婆婆という魔女から名前をとりあげらた彼女は、湯屋で働くことで“千”という名前を獲得する。名前とは、自分を自分たらしめるアイデンティティー。それは、労働によってでしか得られない。

コレまさに、宮崎駿の“労働観”そのもの。彼にとって、「生きること」は「働くこと(宮崎にとっては、映画をつくること)」と同義なのだ。

ひとつ、興味深いエピソードがある。2011年、宮崎駿は『風立ちぬ』の製作に追われていた。

そんな中、東北地方太平洋を襲った東日本大震災が発生し、スタジオジブリは一時的に製作をストップ。その対応に宮崎駿が激怒したのだという。インタビューで、宮崎駿はこんな風に答えている。

- 3.11がの震災が起きたあと、いろんな作業が止まったわけじゃないですか。ジブリも休もうってなった時に、宮崎さん、怒りましたよね。

宮崎「ええ、怒りましたね」

- 生産を止めるなっていう。

宮崎「だって、別に止まる必要ないです。アパートでひとりでいたって困る奴ばっかりなんだもん。(中略)何もわからない、みんなで休んでしまったら。だから怒鳴りましたよ、『何やってんだ!』って」
(『続・風の帰る場所: 映画監督・宮崎駿はいかに始まり、いかに幕を引いたのか』より)

宮崎駿は「引退宣言をしてはそれを撤回し、新しい作品に取り掛かる」というサイクルを何度も繰り返しているが、考えてみれば当然のことだ。映画をつくることを放棄してしまったら、彼にとって「生きる意味」はないのだから。

老齢の映画作家が10歳の少女に託したメッセージ、それは「労働の大切さ」。それが生き甲斐となり、人生の幸福に繋がる。うーむ、娯楽アニメーション作品とは思えないテーマなり!

“アイデンティティーレスな存在”​カオナシの正体とは?

この映画のテーマが労働と考えると、『千と千尋の神隠し』で最も印象に残るキャラクター・カオナシの正体も次第に見えてくる。

黒い影にお面をつけたような風体のカオナシは、表情もなく、自分の言葉で意思を伝達することもできない(かろうじて「ア、ア……」という単音を搾り出すだけ)。砂金で油屋従業員の歓心を買い、暴飲暴食を繰り返した挙句、兄役や青蛙を呑み込んで大暴れする。

まとめると、

・コミュニケーション能力がない(言葉が喋れない)
・キレキャラ(すぐ暴れる)
・お金を持っていない(砂金は偽物で、単なる土塊)

というヤバい奴。これって、自分で何をしたいのかが分からず、働かずに実家でゴロゴロして、説教する両親に逆ギレするようなダメ人間ではないか!?!? まさに現代社会の象徴的な存在として登場するのが、このカオナシなのである。

そんな彼(彼女?)が「沼の底」に住む銭婆と出会い、千尋のための髪留めをつくり、「銭婆の手助けをする」という役割を与えられて幸福を得る。

カオナシについて、宮崎駿はこんなコメントを残している。

本当に単なる脇役だったんです。橋のたもとで立っているところで最初に千尋と出会うんですけど、それは何の予定もなくてただ立たせていただけなんです。橋の上に立っているヤツは一人くらいいるだろうって。でも、映像になって見たら妙に気になるヤツだったんですよね。
(中略)
極端な話、突然に役割を与えて「あなたは何者ですか?ちょっと出てきて、この映画をまとめてください」ってお願いした感じですよ
(『文春ジブリ文庫12 千と千尋の神隠し』より)

千と千尋の神隠し』は、アイデンティティーレスだったカオナシが、労働によって居場所を発見する物語でもあるのだ。

舞台の油屋はキャバクラだった?

そもそも、なぜこの物語の舞台を湯屋にしたのか?

実はこれまでも宮崎作品には「労働」が描かれてきたが、油屋のようなサービス業ではなく、製造業がほとんど。『紅の豚』では飛行艇をつくり、 『もののけ姫』ではタタラ場で石火矢をつくり、『風立ちぬ』では零式艦上戦闘機をつくっている。

宮崎ワールドにおいて、働くこととはエンジニア(技術者)的労働を指していた。もちろんそれは、スタジオジブリ自体がアニメーションの技術者集団であることに起因している。

しかし、「まだ自分が何者でもない」10歳の少女に向けてつくられた映画で、特殊なスキルを持つ技術者が主人公になってしまうと、伝えるべきメッセージの普遍性が失われてしまう。そもそも宮崎が『千と千尋の神隠し』のアイデアを思いついたのは、鈴木敏夫との「キャバクラの話」がきっかけだった。

鈴木曰く、キャバクラにはコミュニケーション下手の女性もいる。否が応にも男性と会話しなければならない状況に追い込まれてしまうが、実はコミュニケーションを学ぶ場にもなっている。それがきっかけで元気を取り戻す従業員もいる、という話。

宮崎駿はこの話を手がかりにして、千尋が生きる力を取り戻すため、八百万の神々を接待する(=コミュニケーションする)というストーリーラインを組み立てた。油屋の元になっているのは、風俗産業だったのである!

「電車に乗る」…映画の静かなクライマックス

意外とお話としては地味目な『千と千尋の神隠し』だが、最初は「千尋が名前を取り戻すために湯婆婆を倒し、その背後にいた銭婆もハクの力を借りて倒す」という、アクション活劇としての要素が大きい作品として考えられていた。

しかし、「このアイディアをそのまま映画化すると、3時間の上映時間になってしまう」と鈴木敏夫に看破された宮崎は、物語を大きく方向転換させて、現在の形に調整していく。

ファンタジー活劇要素の薄まった『千と千尋の神隠し』は、「千尋が電車に乗る」という非常に静かなシーンがクライマックスとなった。しかし10歳の少女にとって、たったひとり知らない場所に電車で向かうことは、とてつもないアドベンチャー。その不安たるや、彼女の胸を押しつぶさんばかりだろう。

今回、山場と感じてくれていうるかどうか分かりませんけれども、僕は電車に乗っていくことが山場だと思っていて、むしろその前の追っかけたりっていうのは、ただの前段なんですよ。
(中略)
だけど、本当に電車に乗っていくところにたどり着けたときっていうのは、自分なりの達成感というか、非常に運が良かったんだなと思いました(笑)
(『風の帰る場所―ナウシカから千尋までの軌跡』より)

筆者も、本作の白眉はこのシーンだと確信している。不安な気持ちを抱えた千尋を乗せて、電車が海の上を走っていく……。幻想的でありながら、ドキドキ感も感じられる見事な描写だ。

10歳の少年少女たちも、かつて10歳だったお父さんお母さんたちにも、同じような気持ちにさせてくれる映画的マジック。やはり宮崎駿は天才だ。