ハードな仕事を短時間睡眠で乗り切ろうとするのは危ない(写真:Zephyr18/iStock)

本当の“ショート・スリーパー”は人口の1%

ショート・スリーパー。エリートたちの長年の夢であり、自らの優秀さと強さの証でもある。

かのナポレオンは、「どのくらい眠れるのがいいのか?」と質問されこう答えている。「男は6時間、女は7時間、愚者は8時間」と。ナポレオンは有能であれば、睡眠さえ支配できると思い込んでいたのだ(The Man Napoleonより)。

世界一睡眠時間が短い日本でも(詳細はのちほど)、“ナポレオンの教え”を妄信する人々は少なくない。彼らにとって短時間睡眠は、「自分の存在価値」と同義だ。

昭和の精神論を嫌う人たちでさえ、努力次第でショート・スリーパーになれると信じてきた。実際には短眠が訓練ややる気とはまったく関係のない「遺伝的変異」によるものであるにもかかわらず、だ。

そしてそれは、人口の1%。たったの1%しか、3時間睡眠で体内時計(体内で行動や睡眠のリズムを制御する仕組み)を管理できる遺伝子をもつ人はいないことがわかった。

「オレって、すごいだろ? 3時間睡眠で十分さ。やりたいことたくさんあるのに、寝るなんてもったいないじゃん」と誇らしげに語る人のほとんどは、似非ショート・スリーパー。遺伝子をもっているかいないかがすべてで、精神力や努力でどうなるものではないのである。

それだけでない。事態はもっと深刻である。ショート・スリーパーを自負する人は、単に前頭葉の「疲れの見張り番」が故障しているだけと考えられるのである。

死ぬほど疲れているわけではないのに過労死する理由

拙著『残念な職場』でも述べた、いわば「ショート・スリーパーの罠」ともいえる現象だが、恐ろしいことにこの現象、過労死と密接な関係がある。

1990年代に過労死が社会問題化し、過労死が“見える化”したことで、彼らの多くが「死ぬほど疲れている自覚がない」ということがわかってきた。死に至るほどの無理をしているのに、なぜ危険性が自覚できないのか。その謎を解明するためにネズミで実験を行ったのが「疲労研究班」である。

「疲労研究班」は、20以上の大学や機関の研究者で構成された旧文部省主導の研究会で、1999〜2004年にわたってさまざまな研究を行った。その中の一つが、「ネズミの過労死実験」だ。

研究班は、ネズミを10日間、毎日水槽で30分間泳がせることで、「働き続けるメカニズム」の解明を試みた。ちなみに、ネズミはおぼれることなく必死で30分間泳ぎ続けることが可能である。

1日目。仕事=水槽で30分泳ぎ続ける。その後、ネズミは疲れ果てた様子で、ぐったり寝てしまい1時間ほど起きてこなかった。

2日目。この日も初日同様、仕事のあとは1時間程度、寝入ってしまった。

3日目。ネズミの行動に変化が起きる。仕事後は初日、2日目と同じように寝てしまうのだが、40分程度で起き上がった。

7日目。3日目以降、徐々に減り続けた睡眠時間が、わずか5分と急激に減少した。

……そして、

10日目。ネズミに劇的な変化が起きた!

30分泳ぎ続けるという過酷な“労働”を終えたネズミは、寝ることもなく平然と動き始めた。過酷な労働に耐えられる“スーパーネズミ”が誕生。

10日間の過重労働を経験することで、「疲れても働き続ける」ネズミが出来上がったのだ。

「やっぱりね! ネズミも鍛えられるんだね」

いや、違う。“スーパーネズミ”は、泳ぎ続けたことで筋力がついたとか、体力がついたことで誕生したのではない。

脳の中にある「疲れの見張り番」と呼ばれる、危険な状態になることを防いで安全装置の働きをする部分が機能しなくなった結果、誕生したのだ。

動物の前頭葉の下の部分には、疲れを感知すると脳幹に「疲れているので、休んでください」という信号を送る「疲れの見張り番」のようなセンサーがある。ここから指示が出されると、指示を受けた脳幹は神経細胞を通してセロトニンを分泌する。セロトニンが分泌されると、脳は心身を休ませるために活動を抑え、その結果、元気な状態を取り戻す。

ところが、見張り番から「休んでください!」という指令が送られても、無視して活動を続けると、見張り番自体が故障してしまい「休んでください」という指令を送れなくなる。

指示が出ないので、ネズミは「疲れている」と自覚できない。その結果、疲れを感じることなく働き続ける、“スーパーネズミ”が出来上がるのだ。

10日目でネズミは「長時間労働」から解放されたため、その後どうなったかは報告されていない。しかしながら、実験で明かされた「疲れている自覚なく働き続けるメカニズム」をかんがみれば、似非ショート・スリーパーが過労死と背中合わせであることはおわかりいただけるだろう。

過酷な労働状態に置かれているにもかかわらず、「忙しいの、慣れちゃったよ」と言う人がいる。これは慣れたのではなく、感じなくなっただけ。慣れたと思っているときが、いちばん危険なのだ。

ボーダーラインは…

さらに脳の疲弊は、私たち人間の知覚を狂わす。

「仕事の要求とプレッシャー」が高まると、自ら“働きすぎ”を拡大するという矛盾が起きてしまうのだ。

「いい仕事をするためには、私的な時間を犠牲にしてもやむをえない」と過剰適応し、身も心も疲れ果てボロボロになっているのに、どこまでも働き続ける。

「いい仕事をしたい」「会社に貢献したい」「お客さんを喜ばせたい」といった承認欲求に加え、「人に迷惑をかけたくない」という意識が、

長時間労働→疲労→家でも仕事→睡眠不足→作業能率の低下によるミス→自己嫌悪→挽回するため長時間労働+家でも仕事→さらなる疲労

といった矛盾に満ちた行動を可能にする。脳科学では「脳が心を決める」ととらえるが、心は脳を左右する力もあり、決して「脳=心」ではないのである。

そういった「人間の矛盾」を加味したうえで、心身に悪影響を生じさせる労働時間を分析していくと、ボーダーラインは「月残業時間50時間前後」で、「帰宅時間22時」ということがわかっている。この指標は、私の大学院時代の指導教官であり、恩師の山崎喜比古先生らが1991年に行った調査で明らかにしたもので、この研究は長時間労働と健康との関係を考察した代表的な研究として今なお評価されている(東京都立労働研究所「中壮年男性の職業生活と疲労・ストレス」)。

過労死が長時間労働による突然死であることは、国内外を含め多くの研究で確かめられているが、睡眠不足がその危険度をより高めることを九州大学の研究グループが明らかにしている。

「長時間労働で、十分寝ている」(週労働60時間以上・睡眠6時間以上)⇒心筋梗塞のリスクは1.4倍
「長時間労働で、睡眠不足」(週労働60時間以上・睡眠6時間未満)⇒心筋梗塞のリスクは4.8倍

長時間働いても6時間以上寝れば1.4倍で納まるリスクが、なんと5倍近くに跳ね上がってしまうのである。さらに、「長時間労働じゃないけど、睡眠不足」(週労働60時間未満・睡眠6時間未満) の場合、心筋梗塞のリスクは2.2倍だった。

※(調査は「心筋梗塞の男性患者260人」と「健康な男性445人」を対象に、労働時間と睡眠時間を比較、発症のリスクを検証した。Liu Y, Tanaka H, The Fukuoka Heart Study Group (2002) ‵‵Overtime Work, Insufficient Sleep, and Risk of Non-fatal Acute Myocardial Infarction in Japanese Men" Occup Environ Med, 59, 447-451.)。

深夜の受験勉強は成績を低下させる

また、最新の研究では「深夜勤務の危険性」も明かされている。

生活のリズムと体内の時計が同期しなくなると、がんや神経変性疾患、代謝疾患などのリスクが高まることを遺伝子レベルで検証し、ノーベル生理学・医学賞を受賞したのが、米ブランダイス大学名誉教授のJ.ホール博士と同大学のM.ロスバッシュ博士、ロックフェラー大学のM.ヤング博士(2017年受賞)。

博士らの研究成果は「時計遺伝子」と呼ばれ、最近は「人の働き方」についても時計遺伝子のアプローチを用いた研究が進められているのだが、その中のひとつにある山口大学時間学研究所の明石真教授らの研究結果が実に秀逸である。

研究グループは、早出や夜勤など勤務の交代制がある職場で働く人たちに、3時間に1回、ヒゲを抜いてもらい毛根の細胞を利用して、体内時計と勤務の関係を調べた。

その結果、

「早出と遅出のシフトが1週間ごとに入れ代わるシフト勤務についている人の場合、睡眠や食事の時間が7時間ほどズレが生じるのに対し、体内時計の変化は2時間程度」

だったことがわかったのである。

生活リズムと体内時計のずれは、慢性的な時差ぼけを経験しているのと同じ。内臓は“就寝時間”になっているのに、無理に働くと身体がダメージを受ける。それが引き金となり、高血圧、睡眠障害、精神疾患、心臓病などを発症するリスクを高める。

体内時計のずれの影響は、若者ほど受けやすい

しかも体内時計のずれの影響は、若者ほど受けやすい。

子どもから大人に向かう途中では、成長ホルモンなどの影響で「時計遺伝子」と誤差が生じるため10代の子どもたちは、夜遅くまで眠れない傾向が強まる。だが、その状態をゲームや受験勉強などでさらに加速させると、不安感やストレスに加え、成績の低下、高校や大学の中退率を高めるという、研究報告が相次いでいるのである。

就寝時間が22時以降、睡眠時間が7時間未満の場合、心身への負担は1時間睡眠時間が減るごとに14%程度高まるとの報告もある。


ただでさえ日本人の睡眠時間は世界一短く、平均睡眠時間は7時間24分。世界一たくさん寝ているのはオランダで8時間21分、欧米は軒並み8時間前後だ。加えて「遅寝、早起き」であることが判明している(米ミシガン大学が100カ国の数千人以上の就寝時刻や起床時刻のデータを収集・比較した結果)。

人は想像以上に弱く、想像以上に強い。この二面性が複雑に絡まり合いながら、私たちは社会的な動物として、環境に“適応”する。

大人が「睡眠」をおろそかにし、強さの証とすれば、それが社会的なプレッシャーになり、子どもたちの睡眠時間の減少にもつながっていく。

だからこそ、長時間労働は絶対悪。絶対に許してはダメだ。自分のためだけでなく、子どもたちの未来のためにも過労死や過労自殺という言葉は、死語にしないとダメなのである。