日本でも徐々にその存在が知られて来たConIFA(Confederation of independent football association)であるが、初めて耳目にされるサッカーファンのために改めて紹介しておきたい。

 ConIFAはFIFA(世界サッカー連盟)に加盟できない、あるいはしようとしない地域や民族のサッカー協会が集った連盟で、独立サッカー連盟と翻訳されることも多い。FIFAはパスポート主義であるから、代表チームは基本的に常に有効な旅券を発行できる国家という枠組みでの代表であることが義務付けられる。しかし、世界には固有の領土を持たない民族や弾圧によって国を追われた人々、あるいは北欧のサーミ人などの先住民族や中国のチベット民族等々、属している国家と自らのアイデンティティーが合致しない事例が山ほどある。そんな人々のためのサッカーの世界大会がConIFAワールドフットボールカップで、今年ですでに2回の開催を数えている。

 開催地は2014年の第1回がスウェーデンのサーミ人の土地サープミ(英名ラップランド)、第2回が今年で、グルジアから独立宣言するも国際社会には認められず、孤立を余儀なくされているアブハジアであった。旧ソ連に属していたアブハジアにもサッカー選手はいるが、ロシアを含む4カ国からしか国家承認されていないためFIFA加盟ができず、国内クラブは実質上、将来が閉じられていた。そこに陽を当てたわけである。

 ConIFAは発祥地が北欧ということもあり、これまでは公式試合のほとんどがヨーロッパで行なわれてきたが、11月25日、史上初めてアジアでの試合が開催された。沖縄県中城村ごさまる陸上競技場で行なわれたFCコリア対琉球代表である。FCコリアはかつて日本最強のクラブチームと言われた在日朝鮮蹴球団の流れを汲む在日コリアンを中心としたチームで、現在は関東リーグ1部(来季からは2部)に所属、今年のアブハジア大会にも出場してアジリティ(敏捷性)を効かせたサッカーで、現地で多くの支持を集めていた。

 琉球代表はこの試合のために結成された、いわば沖縄県選抜であり、大学生を主体としたチームである。在日コリアンと沖縄人、まさに日本社会の中で非対称のマイノリティとして、自分たちのアイデンティティを堅持して生きている人々同士の対戦であり、ConIFAの趣旨にも合致する。この試合を実現させたのは任意団体の琉球フットボール協会(以下琉球FA)を主宰する宮城亮である。

 コザ(現沖縄市)で生まれ育った宮城は1970年に起きたコザ暴動の話を幼い頃から親から聞かされていた。当時は米国軍属が罪を犯しても琉球警察は捜査権を持たないために、酷い人権侵害が多発していた。コザ暴動は暴動と呼称されているが、米国施政下の圧政に対して起きた沖縄市民による蜂起とも言えた。

「沖縄人(ウチナンチュー)の自分たちにはどうしても守らなくてはいけないものがある」という教えが、子どもの頃から自然に身についていた宮城には夢があった。自分たちの自尊心やプライドを平和裏にスポーツで発信していくことである。沖縄国際大学の大学院を修了するとFC岐阜に就職し、そこで今西和男社長の薫陶を受け、Jリーグで最多の回数(2010年〜2012年)を誇った岐阜のホームタウン活動を地域貢献推進部部長としてけん引する。指導現場では歌って踊って「どんな子どもも宮城が来ると楽しげにボールを蹴る」と言われた。

 敬愛する今西が当時のJリーグ・クラブライセンス事務局の人事介入によって解任されると、宮城はFC岐阜を辞めて沖縄に戻って一般社団法人IGSを立ち上げた。そこでのスポーツ振興活動は現在に至るまで多岐にわたる。サッカー選手であり、プロデューサーであり、デザイナーであり、ミュージシャンであり、芸人でもある。

 宮城はConIFAの存在を知ると、即座に琉球代表を組織して加盟することを決意し、今年6月のアブハジア大会にも視察に駆けつけた。アブハズ語はもちろんわからないが、スタンドでは得意のパフォーマンスで盛り上げて、アブハズ人サポーターを「お前は同胞だ!」と感涙させている。世界大会を直接体験したことで、その意義を再確認した宮城はConIFAの沖縄開催をできないかと真剣に考え出した。

「政治的、宗教的な意味合いではなくて、琉球王朝がかつてここにあったという事実から、沖縄県民が自分たちの歴史や文化を大切にしているということを世界に向けて発信したいんです。我々にとっても世界中のマイノリティや先住民ともフットボールを通じて交流することは重要です」

 宮城は夢を語る。

「パスポートの色は違っても、世界中にいるウチナンチューで代表チームを作ったらすごいじゃないですか」

「ConIFAの理念からも沖縄でやることに意味があるじゃないですか」

 確かに。かつて読売クラブのエースとして日本リーグで暴れ回り、請われて日本代表になったジョージ与那城は沖縄出身の日系ブラジル二世である。沖縄にルーツを持つ在外の選手が世界中から集まれば、夢のような琉球代表が出来上がるかもしれない。固有な文化を持つ沖縄という地域を世界に発信する上でもサッカーは最高のツールである。

 宮城はConIFAを最初に日本に紹介し、ペールー=アンデルス・ブランド会長、サシャ・ヂュエルコップ事務局長の信頼も厚いライターの実川元子に相談して動き始めた。実川の尽力で役員にも紹介され、ConIFAも沖縄に注目し出した。何度かやりとりがあり、ついに11月、その第一歩として公認の親善試合が実現したのである。試合の方は沖縄県内の大きな大会と重なってしまったことで、琉球代表選手の選抜が思うようにできず、アブハジアでセーケイランド代表、クルド代表を破り、「国際試合」に一日の長があるFCコリアに圧倒されて0対9で大敗を喫したが、まずは実績を刻んだ。

「FCコリアさんに来ていただいたおかげで県内の選手にレベルの高い試合を経験させることができました。資金面、組織面でもしっかりとした体制をこれから作っていかないといけないですが、フレンドリーマッチから少しずつ進めていってアジア大会、そしてゆくゆくは世界大会を沖縄で開催したいと思っています」(宮城)

 実川の働きかけでConIFAからはドイツ人のイェンス・ヨッケル理事も、その可能性を探るために沖縄にやって来た。

「イェンスさんには実際に使用するピッチを見てもらい、芝のクオリティが高いと褒めていただきました。文化面でも中城城址などの琉球王朝時代の遺跡にもたいへん興味を持ってもらい、ここに世界中のConIFAメンバーを集めたいと言っていただきました」(宮城)

 自身も認めているように、早急な組織作りと何より財源の確保が急務である。まだ沖縄開催に向けての課題は山積であるが、それでも宮城は第1回大会からConIFAのすべてを見てきた実川の全面的な協力を受けながら、実現に向けて歩みを続ける。

注 ConIFAとFIFAが友好関係にあるように、琉球FAもJFA傘下の沖縄県サッカー協会とは対立するものではなく友好的な関係にある

木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko