事件が起きた現場(吉川真人氏提供)

写真拡大

〈起こるべくして起きてしまった〉

 中国・深センで日本人学校に通う10歳の男児が中国人の男に惨殺された事件にはまだ不明な点も多い。今年春に兵庫県尼崎市から引っ越してきたばかりだった被害者一家の素性、中国のSNSで拡散された「遺族の手紙」を巡る謎など、事件の「全真相」をお伝えする。【前後編の後編】

 ***

【写真を見る】中国のSNSで出回っている「父の手紙」

 前編【「服の色が分からないくらい血まみれに…」「肝臓や腸が飛び出した状態」 「日本人学校10歳男児刺殺事件」救命を手伝ったママ友の証言】では、凄惨な事件現場の模様について報じた。

 事件が発生したのは9月18日。満州事変の発端となった「柳条湖事件」が起こった日である。

事件が起きた現場(吉川真人氏提供)

「毎年9月18日は防空サイレンが鳴らされます。防災訓練の一環だと中国側は言いますが、そこには『あの戦争を忘れるな』という明確なメッセージが含まれています」(深セン市に住むさる日本人)

 広東省在住の日本人男性はこう話す。

「少し前からSNS上などでは、スパイを養成している日本人学校は中国から出ていけ、などと主張するショート動画が出回っていました。他にもひどい意見が飛び交っており、そんなふうに見られているのか、と驚きました」

 前駐中国大使の垂(たるみ)秀夫氏は9月20日付の読売新聞の記事でこう話している。

中国のSNSでは、日本人学校に関する悪意と誤解に満ちた動画が何百本も氾濫している。「治外法権の中で対中工作のスパイが養成されている」などの内容だ。これらを信じて行動を起こす者もおり、これまでも各地の日本人学校への投石は頻発していた。そういう意味では、今回の事件は起きるべくして起きてしまったとも言えよう〉

「遺族の手紙」の存在

 中国のSNS上に渦巻いている日本人学校への「憎悪」。それが今回の事件につながったとすると、状況を放置してきた中国政府の責任は大きいと言わざるを得まい。しかし、20日夜から中国のSNSで出回り始めた「遺族の手紙」とされるものには、“私たちは中国を憎んでいません”などとつづられていたのだった。

「その手紙には被害に遭った児童の名前が書いてあります。中国の当局に取材できる現地メディアによると、その名前は実際に被害に遭った子と合致しているそうです。また、『星島日報』などの比較的信頼度の高い華字メディアがこの手紙を取り上げていることもあり、手紙の末尾に記名された被害児童の父親が書いたものだと判断されています」(先の中国特派員)

中国を憎んでいません〉

 以下は、二人の日本人に宛てた体裁となっているその手紙を日本語に訳したものである。

〈〇〇(原文では実名)は昆虫や爬虫類が大好きで、どんな小さな生き物でも見つけることができる特別な目を持った子供でした。彼は誰よりも優しい心の持ち主でした。幼い頃から絵を描くのが大好きで、日本語と中国語を流ちょうに操る、語学の才能を持った子でした〉

〈彼は私と共に深センに来ることをずっと躊躇(ためら)っていました。偏食のため、最初は現地の食事に慣れるのが大変でしたけれど、最近は中華料理がますます好きになっていて、始めたばかりのバスケットボールに夢中になっていました〉

〈彼がこんなにも突然私たちのもとから去ってしまうとは、思いもよりませんでした。今、私の心は混乱と尽きることのない悲しみでいっぱいです。彼がどのように成長し、どのように大人になっていくのか、もう私は見届けることができません。彼を守れなかったことは、私の生涯ずっと心から取り除くことのできない後悔です〉

 わが子の命を奪われた絶望や悲しみが伝わり、読む者の胸を締め付ける。

〈〇〇は日本人でもあり、中国人でもあります。彼の母親は日本で10年近く生活した中国人で、彼の父親は人生の半分近くを中国で過ごした日本人です。〇〇自身は、3歳になるまでのほとんどの時間を中国人の妻の家で過ごしました〉

〈私たちは中国を憎んでいません。同様に、日本も憎んでいません。国籍に関係なく、私たちは両国を自分たちの国だと考えています。(中略)私は、ゆがんだ思想を持つ一握りの卑劣な人々の犯罪によって両国関係が損なわれることを望んでいません。私の唯一の願いは、このような悲劇が二度と繰り返されないことです〉

〈日中相互理解に貢献し続ける〉

 手紙を書いた父親の職業に関する記述もある。

〈〇〇が以前、私に「将来お父さんのようになりたい」と言ったことがあります。一時の気まぐれかもしれませんが、その言葉を父親としてこの上なくうれしく思いました。私は日中貿易に従事し、日本と中国の架け橋としての役割を担っています。(中略)今私にできることは、彼に誇れる人間になれるよう全力を尽くし、日中相互理解に微力ながら貢献し続けることだけです。これは最愛の息子への償いでもあり、犯人への復讐でもあります〉

 そして、手紙はこう締めくくられている。

〈最も重要なことは、〇〇に感謝の意を示すことです。それは私たちを親にしてくれたことへの感謝、そして、10年と8カ月と7日間を私たちの傍で過ごしてくれたことへの感謝です。私たちはこれからも力強く生き続け、〇〇の分まで、彼が歩み終えることのできなかった道を最後まで進んで行こうと思います〉

「家の中から奥さんの中国語が聞こえてくることも」

 被害男児と同じ日本人学校に子供を通わせている水野さん(仮名)が言う。

「当初、妻は鳳凰網というメディアに掲載された手紙を読み、号泣していました。しかしその後、日本人があれほど流ちょうな中国語で、中国に対して思いやりのある内容を書けるだろうか、と夫婦で話し合っていました」

 中国事情に詳しいジャーナリストの高口康太氏の話。

「あの手紙は元々、日本語で書かれていて、中国人のスタッフに訳させたのではないでしょうか。その中国人のスタッフが“被害者の父親がこんなふうに言っているぞ”と情報を共有するためにネット上に流出させたのだと推測しています」

 手紙の宛先になっている日本人二人の名前をネットで検索すると、ある貿易会社がヒットする。東京にいるその会社の代表取締役は、

「深センの事件の話でしたら、プライバシーにかかわることですので、お話しできることはありません」

 と言うのみだった。

 被害児童の父親のものと思しきFacebookには、出身地として〈兵庫県尼崎市〉とあり、学歴の欄には〈兵庫県立尼崎小田高等学校〉〈上海師範大学〉〈龍谷大学〉〈上海大学〉。彼の妻のものらしきFacebookにも〈上海師範大学〉とあり、在籍期間が重なっているからその時期に知り合ったのかもしれない。妻のFacebookには〈兵庫県尼崎市在住〉との記述も。被害児童の一家は、3年前に尼崎市内の一軒家を購入し、今年4月に深センに引っ越すまでそこで暮らしていた。

「お父さんは仕事が忙しくてあまり家にいなかった様子ですが、〇〇くんは元気な子で、家の前で遊んでいるのを見たことがあります。家の中から奥さんの中国語が聞こえてくることもありました」(近隣住民)

「父親は涙をこらえて……」

 深セン行きを躊躇っていたという被害児童が乗っていたものだろうか。家の前には小さいサイズの自転車が置かれていた。

「9月23日、亡くなった児童のお別れ会があり、日本人学校の児童および保護者、合わせて100人くらいが参加しました」

 と、日本人学校に子供を通わせている別の保護者。

「亡くなった児童の母親と母方の祖母が声を出して泣いている一方、父親は涙をこらえてわが子を送り出していました。ひつぎの中のご遺体は安らかな顔をしていましたが、どれだけ痛かったのかと思うと……」

 この保護者は「安心安全が担保されていない」として、日本に帰る方向で話を進めているという。

前編【「服の色が分からないくらい血まみれに…」「肝臓や腸が飛び出した状態」 「日本人学校10歳男児刺殺事件」救命を手伝ったママ友の証言】では、凄惨な事件現場の模様について報じている。

「週刊新潮」2024年10月3日号 掲載