1008年、中宮彰子は一条天皇の第二皇子・敦成親王(後一条天皇)を出産する。歴史評論家の香原斗志さんは「無事に皇子が産まれるまでは、まさに一大国家行事の感があった。あまりの大騒ぎに、妊婦が危険にさらされるほどだった」という――。
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2023年JRA年間プロモーションキャラクターを務める俳優の見上愛さん=2023年6月25日、兵庫・阪神競馬場 - 写真=時事通信フォト

■とうとう藤原道長の本音が出た

最高権力者たる道長の焦り。それがNHK大河ドラマ「光る君へ」の第34回「目覚め」(9月8日放送)では、色濃く描かれた。まず藤原道長(柄本佑)が、藤壺(中宮彰子の後宮)の女房であるまひろ(吉高由里子、紫式部のこと)のもとを訪れ、あれこれ尋ねた。

道長が「帝と中宮様はいかにおわす?」と聞くと、まひろは「御渡りはございます」。多少のやりとりの後、道長は「いまだ中宮様にお手は触れられぬか」とぶつけた。「はあ」と肯定するしかないまひろだが、道長は「おまえ、なんとかならぬか? このままでは不憫すぎる」と問いかけた。まひろは「中宮様の御心が帝にお開きにならないと、前には進まぬと存じます」といい、「どうかお焦りになりませぬように」と伝えるが、道長は「焦らずにはおれぬ」と本音を吐露した。

「このままでは(註・彰子が)不憫すぎる」というセリフは、きれいごとにすぎるが、この時期、もう数え19歳になる中宮彰子(見上愛)が、いまなお一条天皇(塩野瑛久)の子を懐妊しないことへの道長の焦りは表現されていた。

その後、寛弘4年(1007)3月3日、道長の邸である土御門殿で、和歌や漢詩を競い合う曲水の宴が盛大に催された様子が描かれ、「水の神によって穢れを祓おうとするものであり、道長は中宮彰子の懐妊を切に願って、この宴を催した」というナレーションが入った。

■一条天皇にかけたプレッシャー

その後、一条天皇に心を開けなかった中宮彰子に、まひろが「帝のお顔をしっかりご覧になって、お話し申し上げなされたらよろしいと存じます」とアドバイスするなどし、彰子の心も少しずつ開かれた様子だった。

そして、道長は「このごろ不吉なことが続き、中宮様のご懐妊もないゆえ、吉野の金峯山に参ろうと思う」と、大きな決意を口にし、実行した。奈良県吉野町にある標高1719メートルの霊山に、75日から100日にわたる精進潔斎(ある場所にこもり、酒も肉や魚も色も断って精進と祈りを続けること)ののちに参詣したのである。

途中、鎖を伝わって岩を登らなければならないほどの難所を、大勢の僧侶や人足を引き連れて登った。それを決行しなければならないほど道長は焦っていたわけだが、その甲斐があって、この年の末、彰子はついに懐妊。翌寛弘5年(1008)9月11日、願ったとおりに皇子(敦成親王)を出産した。

入内したときは12歳だった彰子が、肉体のほかに精神的にも成長したことがあるだろう。加えて、最高権力者の道長が、彰子の懐妊を願って大騒ぎをしているのを知った一条天皇に、放っておくわけにはいかないというプレッシャーがかかったことも大きいだろう。

だが、いずれにせよ、彰子が無事出産するまでは、まさに一大国家行事の感があった。

■安産を祈って30日間の大法要

王朝貴族のあいだでは、平安を乱すもののひとつが怪奇や怪異であり、ひとつが呪詛や物の怪だった。日常生活のなかで、たとえば鳥が屋内に入り込んだというだけでも怪異ととらえ、なにかの予兆とみなした。だから、それがなにを予告しているかを知るために、陰陽師の卜占(ぼくせん)が必要だったのである。

また、「光る君へ」では、道長の長兄、道隆(井浦新)の嫡男である伊周(三浦翔平)が道長を呪詛する場面がたびたび流されたが、この呪詛が効力をもつと信じられていた。だから、排除したい人物を呪詛する人が現れ、呪詛されうる人物は標的にされないように用心した。寛弘4年(1007)末に懐妊がわかった彰子だったが、3月になっても情報は秘せられていた。ひとえに呪詛されることを恐れてのことだった。

また、病などは物の怪、すなわち恨みを残してこの世を去った人物の怨霊の仕業だと信じられた。したがって、物の怪を鎮めることも大切だった。彰子が安産するためにも、怪異や呪詛や物の怪と戦わなければならず、だから出産は必然的に、想像を絶する規模の一大イベントになったのである。

彰子が4月13日、内裏から道長の邸である土御門殿に退出すると、23日には安産を祈願するための法華三十講がはじまった。そこから5月22日までの30日間、朝夕2回の法要が営まれた。その間、5月5日に行われ、女人成仏の功徳が説かれるなどした「五巻日」は特に重要視され、道長の日記『御堂関白記』によれば、多くの公卿が出席したという。また僧侶の数は143人におよんだという。

■夜も寝られず庭をさまよい歩く道長

三十講が終わると、彰子は6月14日にいったん内裏に戻ったが、これは異例のことだった。この時代、妊婦は穢れているとされ、内裏に入るのは慎むのが基本だった。直前に亡き皇后定子が命を賭して産んだ媄子(びし)が死去しており、一条のさみしさを和らげるために道長がとった措置だといわれる。

しかし、出産は実家でするものだったので、彰子は7月9日、ふたたび土御門殿に入るはずだった。ところが、まさに内裏を退出しようとしていたところ、土御門殿には陰陽道で方位の吉凶をつかさどる大将軍が跋扈しているとだれかが指摘し、退出は7月16日に延期になっている。

その後も面倒は発生する。藤原実資の日記『小右記』によれば、8月17日には土御門殿の井戸の上屋が突然倒れ、彰子の御在所内で犬が出産するなどの「怪異」があって、周囲は気が気ではなかったようだ。

そのころの道長の姿を紫式部が書き留めている(『紫式部日記』)。出産が間近に迫って夜も落ち着いて寝られないのか、朝のまだ半ば暗いうちから庭を歩いており、警護の者に鑓水(やりみず)のゴミを拾わせたりしていたという。ちなみに、『紫式部日記』は道長の命で、彰子の出産の様子を記録するために書きはじめられたと考えられている。

中宮彰子と幼い息子(写真=「紫式部日記絵巻」/東京国立博物館/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)

■むしろ妊婦を危険にさらしてしまう

道長が妻の倫子から、彰子の陣痛がはじまったと知らされたのは、『御堂関白記』によれば9月9日の夜のことだった。それを受けて10日の明け方には、彰子は東母屋にもうけられた産所に移った。そして白木の御帳が立てられ、家具も調度も装飾も、それに女房たちの衣装まで、すべて真っ白に統一された。清浄をたもつためだった。

だが、面倒なのは、それから1日経った11日の明け方には、彰子は母屋から退出して北側の廂の間、要は廊下のような場所に移っている。陰陽師によって、この期間は家内を清潔にたもたないと祟りを受けると指摘されたためだった。怪異や呪詛や物の怪を恐れるあまり、むしろ妊婦を危険にさらしてしまうのが、この時代の出産だった。

彰子の陣痛がはじまったときから、道長は物の怪の調伏を本格化させた。ここしばらく法華三十講をはじめ、土御門殿で法要に勤しんできた僧たちのほか、山からはありったけの修験者を集め、加持祈祷の体制を強化するとともに、陰陽師も集められるかぎり集めた。彼らの読経や呪文の声が寝殿を揺るがすほどだったという。

また、公卿たちも続々と駆けつけている。だが、伊周もやってきたのに、道長は会わなかった。実資は『小右記』に「なにか理由があるのか」という趣旨を記しているが、下手に会って呪詛されるのを恐れたのではないだろうか。

■恐ろしいまでの騒音のなかでの出産

実際、道長は呪詛のほかに物の怪を大いに恐れていたのである。すでに皇后定子が産んだ第一皇子の敦康親王がいるのに、彰子も一条天皇の皇子を産むとなれば、定子やその父の道隆の物の怪が現れても不思議ではない。

そこで道長は徹底した物の怪対策を実施した。専門の僧と、彰子に憑いている物の怪を引きはがして移す「よりまし」と呼ばれる霊媒で物の怪に対処するのだが、通常は1組で済ませるところを、道長は5組用意した。「よりまし」は概ね10代の少女で、僧侶1人、よりまし1人、そして介添え役の女房の3人を1組とし、それを5組もうけ、彰子を取り囲ませたのである。

物の怪が乗り移るたびに、「よりまし」はトランス状態になって大声を上げたり、駆けまわったりする。その様子は『紫式部日記』にも、修験僧が中宮様に憑いている物の怪を「よりまし」に移し、調伏しようとありったけの大声で祈り立てているなどと活写されている。

お腹の子も平静ではいられないのではないか、と心配になるほどの大騒ぎのなか、彰子は36時間の陣痛を経て、無事、男児を出産した。ただし、後産が下りずに死去した定子の例がある。胎盤が出るまでは、詰めかけていた人は僧も公卿も女房もそのほかも、大声を上げて祈ったという。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)