■話題になった小泉進次郎氏の“切り返し”

現代のメディア環境において、新聞記者という仕事というのはつくづく損である。そんなことを思わされる“事件”が相も変わらず日常的に起きている。

直近で言えば、9月6日に行われた小泉進次郎氏の自民党総裁選への出馬を表明した記者会見である。「(小泉氏が首相になって)G7に出席されたら、知的レベルの低さで恥をかくのでは?」と問うたフリーランスのジャーナリストの質問が大きな話題になった。

写真=時事通信フォト
自民党総裁選への出馬について記者会見する小泉進次郎元環境相=2024年9月6日午前、東京都千代田区 - 写真=時事通信フォト

彼はかなり批判的な意図を持って質問したのだろうが、小泉氏が自身の至らない部分をはっきりと認めた上で「足りないところを補ってくれる最高のチームをつくる」とあっさり切り返されて終わり、この返答が大きく報じられた結果、小泉氏の好感度はかなり高まってしまった。普段、自民党や岸田文雄政権に批判的な人々も含めて、多くが小泉氏のやりとりを評価していた。当たり前のことである。

彼は鋭く切り込んだつもりだったかもしれないが、好感度が上がるような好アシストをしたにすぎない。ここで重要なのは、一時のこととはいえ件のジャーナリストもまた“勝者”になったことだ。

悪名は無名に勝る――。10年代以降のポピュリストたちは炎上騒動も知名度を上げるものと捉えていたが、その流れはメディアにも押し寄せている。

■なぜ新聞記者は“つまらない質問”しかしないのか

会見の生中継が当たり前のものになり、SNSでも話題となる。注目の会見には最後まで中継が入り、インターネットメディアでも流す時代になった。決定的な背景を一つ挙げれば、コストパフォーマンスが圧倒的にいいことに尽きる。

ここで割を食ってしまったのが、誠実な新聞記者たちだ。

新聞記者が記者会見でつまらないとしか思えないような質問をしないのは、大抵の場合、わざわざ、ほんの少数しか知らない話を会見のようなオープンな場でひけらかすことはマイナスにしかならないという判断のほうが大きい。自分から独自ネタのカードを切るような真似を普通はしないし、「ここに今回の一件の重要なポイントがありますよ」という類の話は記事で書くものであって、会見で勝負するものではないのだ。

普段から地道に取材活動に徹している現場の記者にとって、記者会見は大事な取材の一部ではあるが、すべてではない。

それよりも問題の争点をいかにして事前に把握し、それらがどうなるかを事前に紙面に書くという伝統的なスクープを世に放つか、内幕をいかに鋭くえぐったレポートを書くことが問われていた。他社が、記者会見の席で事前に自分たちが報じたことを追いかけるような質問をしてくれること。これが最良の展開だ。

■権力者が恐れているのは「会見で目立つ人」ではない

私も若手記者時代に、会見の一問一答をまとめることなど誰にでもできる仕事であり、会見の内幕を描くなら、その場で得られない話をいかにして自分しか知り得ない話を盛り込むかを考えるようにデスクから指導を受けた。

どうしても自分が追いかけているネタで最後の最後に相手に聞き出さないといけないことがあれば、会見では当たり障りないことしか聞かずに、別の場面で相手と1対1になる状況を作ることが普通だった。単独インタビューを受けてもらえなければ、相手の自宅前で帰ってくるまで待ったり、朝に自宅前を出たところを捕まえたりする。いわゆる「夜討ち朝駆け」という伝統的な取材方法だ。

逆に全社がいる前で質問を重ねないと書けないような取材もあったが、それは単に自分の取材が追いついておらず、水面下で起きていることを何も知らないまま他社が大々的に報じた特ダネを追いかけなければいけない取材だった。つまり、かなり情けなく、考えうる限り最悪の取材である。会見で質問したことで悦に入ることなど一切なかった。

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※写真はイメージです - 写真=iStock.com/microgen

こうした教えや経験の一つひとつは、今になっても何も間違っていたとは思えない。内幕を描くレポートの書き方をどのようにして、新聞文体以外で書くかといった問題はあるにせよ基本的な方向性は正しい。

これは権力と対峙(たいじ)してこそジャーナリストである、という考えをとる人たちにとっても有益な考え方だ。権力側が本当に恐れているのは、会見で目立つ人々ではない。会見では寡黙だが、方々に取材を敢行し、集めた事実を徹底的に検証して、非の打ち所がないほどに規律を徹底したレポートを書く人々である。

■取材記事よりも記者会見のほうが“数字”を稼げる

しかし、新聞社からかなり小規模なインターネットメディアに移籍して常識が揺らいだ。国民的なアイドルグループが解散する、注目される当事者が自身の不祥事について語る……。社会的に注目が高い記者会見でいかに早く一問一答を流すことができるか、会見会場に入ることができればできたで、どれだけ他社とは違う切り口で会見原稿を出せるかを考えてアウトプットにつなげることもまた“一部”では正しかったことだ。

コンテンツとしての記者会見はやはり魅力的なのだ。直近で言えば旧ジャニーズ事務所や小泉氏の出馬会見が典型だが「知名度がある人物または法人×社会的インパクト」が揃えば、社会的な関心はある程度見込めるし、事実として、記事の数字はかなり良く出る傾向にある。ページビューも上がり、SNS上のシェア数もいい。

丁寧に取材を尽くして書くようなルポルタージュよりもはるかに楽であるにもかかわらず、社会的な注目度も高さに比例して、かなりあっさりと数字が取れてしまう。

今では大手メディアもこの手の競争に参入してきたので、かつてほど楽ではなくなってしまったが、コスパの良さに変わりはない。こうした現実への違和感も確かにあったが、人数の少ないメディアにとってコスパの良さは圧倒的な魅力だ。人間は楽な現実のほうに流されていく。

写真=iStock.com/svetikd
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/svetikd

■“忖度なしの質問”をどう評価すべきか

そんな経験を経てから眺めると、記者会見で目立つようなパフォーマンスをしようと躍起になっているジャーナリストたちの姿はある意味では極めて経済合理的であることがわかる。厳しい追及をして何かと戦っているかのような「絵」を徹底して作り込んで、それを支持する視聴者から拍手喝采が送られる。実際には取材相手にあっさり切り返されるようなものであっても、大きな問題にはならない。

今のように記者会見のエンタメ化が進んだ時代においては、名前を売り込むだけで十分アピールになるからだ。

「ジャーナリスト」側にも主催者からいかにして当てられるような状況を作り、はためには尖った質問をすることでSNSやメディアを騒がせるかというインセンティブは十分にある。目立つことで新しい仕事が生まれることがあれば、文字通りの意味で儲け物だ。批判が殺到すれば「核心を突いたことで自民党支持者が騒いでいる」とでも返しておけばいいし、賞賛が一部でも出れば「大手マスメディアにはできない忖度(そんたく)なしの質問をやってのけた」と豪語すれば支持者は沸くだろう。

こうしたジャーナリストにばかり注目が集まるのは、業界にとっても不幸なことである。

■「地道で誠実な仕事」がジャーナリズムの王道

繰り返しになるが記者会見は貴重な取材機会であり、追及すべき課題は追及したほうがいいことに対する異論はない。だが、記者会見で目立つことがあたかもジャーナリズムの実践だという意識がはびこる現状は変えたほうがいい。こんな時代が来たことには、正直困惑しかないが嘆いているだけでも始まらない。

社会に隠されている不正を暴く、あるいは隠されたストーリーを掘り起こして、ぶれない規律をもって確認された事実をもとに世に問う。新聞を含めたジャーナリズムにも王道に立ち返った仕事の数を競ってほしいし、SNS等々でも丁寧なアウトプットや分析を続けるメディアに脚光が当たるような環境ができることが望ましい。

時代は常に揺れ動く。

会見で目立つジャーナリストが脚光を浴びる時代から、その粗雑な振る舞いやアウトプットが呆れ果てられた先を構想しておきたい。いかにして、地道で誠実な仕事に光が当たる未来にもっていけるか。私も含めて現役世代にまずできることは、丁寧な仕事を積み上げることに尽きるのだろうが……。

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石戸 諭(いしど・さとる)
記者/ノンフィクションライター
1984年、東京都生まれ。立命館大学卒業後、毎日新聞社に入社。2016年、BuzzFeed Japanに移籍。2018年に独立し、フリーランスのノンフィクションライターとして雑誌・ウェブ媒体に寄稿。2020年、「ニューズウィーク日本版」の特集「百田尚樹現象」にて第26回「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」作品賞を受賞した。2021年、「『自粛警察』の正体」(「文藝春秋」)で、第1回PEP ジャーナリズム大賞を受賞。著書に『リスクと生きる、死者と生きる』(亜紀書房)、『ルポ 百田尚樹現象』(小学館)『ニュースの未来』(光文社)『視えない線を歩く』(講談社)がある。
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(記者/ノンフィクションライター 石戸 諭)