(撮影:梅谷秀司)

X(旧ツイッター)の複数のアカウントに投稿された、伊藤忠商事の岡藤正広会長から社員に向けた報酬制度改定の説明文書が話題を呼んでいます。文書によれば今年度の経営目標である連結純利益8800億円を達成した場合、2025年度の年収水準は管理職ではない担当者の欄に2100万円と書かれています。

この投稿を受けて、X上では「ヒラ社員として雇ってほしい」と懇願する投稿が相次いでいます。

J-CASTニュースや日本経済新聞の報道によると、伊藤忠商事では文書が流出したことについては「遺憾だ」とする一方で、この文書は現在労働組合と交渉中ではあるけれども内容は事実だとしています。

とはいえXで拡散した噂については実態とは乖離した内容が多くあります。会社としては「面白くない」とこの記事を不快に感じるかもしれませんが、流出情報が曲解されるのもよくないと思うので、今回の内容について3つのポイントで解説してみたいと思います。

ポイント1:優秀で評価が高い人という条件あり

まず前提をお話しすると伊藤忠、三菱商事、三井物産の総合商社トップ3は日本の多くの上場企業と比較すると格段に給与が高いのは事実です。仮に年収が2000万円だった場合、その人が海外駐在になるとさらに手当が加わって年収は3000万円ぐらいになるはずです。


当然のことながらその水準の報酬に対する仕事の中身には厳しいものがあります。求められる能力は基本的には「商社が投資した事業を拡大推進していく」能力です。専門用語では事業開発といいます。その投資分野がエネルギー資源であれ、穀物やコーヒー豆であれ、国内の小売流通であれ、投資先の企業が成長し、取引が拡大し、利益額が毎年増加していくことが求められます。

私はコンサル業界出身ですが、年収2000万円をもらっているような優秀なコンサルが総合商社に転職できるかというと、正直活躍できる確率は半々かなと思います。事業戦略を構想したり実行をモニターしたり、CFO的に財務管理を担当するのはコンサルは得意だと思います。

一方で子会社の従業員を動かしたり、取引先とタフな交渉をしたり、場合によっては相手国と良好な関係を築いたりといった事業を育てる実務能力も商社勤務には必要です。ビジネスパーソンとしてまさに二刀流の活躍ができないと総合商社では戦力になれません。

「ヒラ社員」でも年収が2100万円を狙える?

さて、流出した文書に目を通すと、今回の年収水準見直しの主眼はここ数年の資源価格高騰でライバルの三菱商事、三井物産との給与差が開いたことが背景にあり、その格差を埋めて業界トップ水準を保つための改定だとされています。


伊藤忠商事の岡藤正広会長(撮影:梅谷秀司)

そのうえでライバルの二社は「メリハリをおさえた」給与制度になっているとしています。それに対して伊藤忠商事としては「力を発揮する社員には変動給にてより一段と報い」とあるように成績優秀社員に手厚い年収水準にするとしています。

Xで話題になっているのはグレード3の担当者(つまりヒラ社員)のうち、目標管理制度(MBO)で5.0の高評価だった社員の年収が2100万円になるという話です。ちなみにこの評価制度で6.0の最優秀(ヒラ)社員の年収は2500万円です。

このMBOとはドラッカーが提唱し、1970年代にインテルが導入して広まった制度です。簡単にいうとひとりひとりの社員が四半期ごとに達成すべき目標を3つから5つほど具体的に決めてそれが達成できたかどうかの評価点に応じて報酬が決まる制度です。

当然のことながら情報が流出していない「普通の業績だった人」や「業績が悪かったヒラ社員」がどうなるかというと、メリハリのある制度だと言っている以上、表に書かれていた数字よりは当然少なくなるわけです。とはいえそれでも年収1000万円台の高所得であることは間違いないでしょうけれども。

いずれにしてもヒラ社員で年収2000万円というのはあくまで優秀で評価が高い人ということです。

ポイント2:意外と年功序列で平等な面も

ではそのメリハリはどの程度なのでしょうか。実は総合商社は意外と年功序列で、同期の間の格差はそれほど大きくはしない伝統があります。

文書によれば成績優秀な部長の年収が4110万円とされているので、「うちの部長と比べたら年収が5倍以上も違う」と思った読者の方もいらっしゃったかもしれません。しかし読者の会社の部長がおそらく40代、場合によっては30代だったりするのとは違って、総合商社の部長は意外とお年寄りです。

伊藤忠商事ではありませんが、トップ3の総合商社の社内報に『社長から次長へ』というエッセイが寄稿されて話題になったことがあります。取引先である上場企業を再建する必要があって、優秀な商社マンが社長として送り込まれます。その人が社長として見事会社を立て直して商社に戻ったら、用意されていたポジションが次長だったという笑い話です。40代の働き盛りの人材は、商社ではまだまだ出世街道の真ん中へんなのです。

よく似た別の話を紹介します。私がいたコンサルファームで、その当時、三菱商事からローソンに出向して成功していた新浪剛史社長(当時)が商社に戻るかどうかを議論したことがあります。商社出身のコンサルは口をそろえて「戻るわけがない」と断言していました。

他にいけばプロ経営者として活躍できるのに、戻ったら部長止まりだというのです。商社では出る杭は居心地が悪いとも言われました。その意見が正しいかどうかはわかりませんが、その後、新浪氏はプロ経営者としてのキャリアを歩んでいます。

一方で課長あたりまでは大きな差がつかないというのも商社では常識のようです。この点は、転職会議などのサイトでの従業員の書き込みでも確認できます。ある商社OBによれば「50歳になるまで、大半の社員に“自分も役員になれるかもしれない”と錯覚させるのが商社の人事制度の神髄だ」といいます。

なにしろ総合商社の投資先を「戦線」として捉えると、その戦場はとても数が多いのです。伊藤忠商事の約4100名の正社員たち(注:海外現法や投資先などへの出向者を含めると人数はこれよりも多い)が老境にさしかかるまで「自分は会社から認められている」と信じていたほうが会社はきちんと回るのです。

その点で、先述したMBOという目標管理制度は総合商社の中でのメリハリをつけるのに都合のいい制度です。目標を達成したら年収が上がるのですが、次の年の目標はさらに上がるので連続して目標を大幅達成するのは簡単ではありません。毎年、毎四半期、別のヒーローが出現するように報酬制度を運用することができます。

それらを考慮すれば、目標達成した社員が年収2000万以上を維持できるとは限りません。頑張っているグレード3の普通のヒラ社員の来年度の年収は、今年度トップランクだったヒラ社員とそれほど変わらない水準になるのではないでしょうか。

ポイント3:子会社の給与は世間並

さて、冒頭で話題にしたXの投稿の中には、専門家からみれば微笑ましいポストも垣間見られました。

「今からビッグモーターに入社」という投稿を見つけました。ビッグモーターは伊藤忠が買収して今では会社の名前は変わっているのですが、伊藤忠グループに違いはありません。その旧ビッグモーターに入社したら流出文書と同じ給与がもらえるのかという投稿ですが、当然、そうではないのです。

伊藤忠商事の従業員は連結ベースで11万3700人いらっしゃいます。彼らが勤務するのは伊藤忠のグループ会社や投資先の子会社です。そしてそのような会社で働くひとたちの給与水準はそれぞれの業界の水準と変わらないものです。

これはよくある「子会社の待遇は親会社とは全然違う」というものでもあるのですが、もう一歩踏み込んでいえば、それらの会社が利益を生むことで、その総計が伊藤忠商事の高い業績になっているという構造があるのです。

スキル面でいえば、高い投資利益を生む伊藤忠商事の少数精鋭の社員には非常に高いビジネススキルが求められる一方で、現場で利益を生む子会社・事業会社の社員にはそれぞれの業界での専門スキルがあればいい。

言い換えれば伊藤忠商事の正社員は投資家でありプロ経営者の仕事です。一方で伊藤忠商事のグループ会社の社員はそれぞれの事業の従業員です。当然ながら子会社の社員の報酬は世間並に落ち着くわけです。

優秀な社員にあまり報酬を払わない企業は生き残れない

さて、最後にまとめさせていただくと、伊藤忠だけでなく総合商社3社は日本企業の中でも突出して報酬が高いことで知られていますが、これは日本経済でみればもっと真似されるべき状態だと思います。

世界全体で時代は人的資源経営へと移り始めています。優秀な社員にそれほど報酬を払わないでこき使う企業は長くは生き残ることができない時代です。その前提を考えると、他の上場企業でも、会社にとって重要な貢献をするヒラ社員に2000万円の報酬を与えるという制度は積極的に導入すべきなのではないでしょうか。

貢献に報いるという意味でも、会社を長期的に成長させていくという意味でも、それは大切な新しい考え方だと、今回の流出事件を通じて私は感じます。

(鈴木 貴博 : 経済評論家、百年コンサルティング代表)