信濃橋洋画研究所 開所式(1924年4月3日) 前列左より鍋井克之、小出楢重。中列左より国枝金三、黒田重太郎

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 大正末から昭和のはじめにかけて近代都市として発展を遂げた大阪。1924年に、大阪市西区信濃橋交差点に「信濃橋洋画研究所」が誕生した。同研究所が関西の画壇、そして日本の洋画界に吹き込んだ新しい風と花開いた成果を紹介する特別展「創立100周年記念 信濃橋洋画研究所−大阪にひとつ美術の花が咲くー」が、兵庫県芦屋市の芦屋市立美術博物館で開催されている。2024年8月25日(日)まで。

国枝金三『中之島風景』1927年 油彩、カンヴァス 大阪中之島美術館蔵 第14回二科展

「信濃橋洋画研究所」は、1923年にそろって二科会員となった気鋭の洋画家・小出楢重、黒田重太郎、鍋井克之、国枝金三が、洋画家を志す若者の指導を目的に、翌1924年に開設した。当時の大阪は東京や京都に比べると「芸術の実らない土地」とされ、絵を学ぶには私塾はあったものの「学校」はなかった。そこで関西出身の4人が開設したのが同研究所で、4人が講師となりデッサンや油絵の技法などの実技の他、美術史や解剖学といった講義が行われた。戦争の影響もあり1944年に閉鎖されるまでの約20年間に、ここから多くの才能が花開いた。会場には、4人をはじめとする講師陣や、後に関西画壇を背負って立つ研究生たちの作品約60点が並び、豊富な資料や写真から、その活動の様子をうかがうことができる。

信濃橋洋画研究所 開所式(1924年4月3日) 前列左より鍋井克之、小出楢重。中列左より国枝金三、黒田重太郎

「画風の異なる4人が集まり、体得してきた技術を研究生に伝えた。私塾で1人から学ぶのではなく複数の講師の様々な画風を見ることによって、研究生たちは自分に合ったものを選ぶことができ、自らの個性を突き詰めていくことができる環境だった」と、同館の川原百合恵学芸員は解説する。同研究所の取り組みは、後援していた「朝日新聞」や「週刊朝日」で、記録写真や講師陣らによる文章で随時紹介されていたほか、複数の研究生が回想を残している。その記録からも当時の活気ある様子が伺えるという。

黒田重太郎『蟠桃のある静物』1938年 油彩、カンヴァス 芦屋市立美術博物館蔵 第25回二科展

 講師の国枝金三、研究生だった松井正が描いた作品が並べられている。いずれも同研究所があった「信濃橋交差点」を描いたものだ。「松井は窓から見えるものすべてを細かく描いている。一方、国枝は細部を省略しつつ風景を的確にとらえている。玄人的ですね」と川原学芸員。また小出楢重が「雪が降った日」の同じ場所を描いた作品もある。「小出の風景画はあまり残っていないため、貴重な作例です」(川原学芸員)。

国枝金三『都会風景』1924年 油彩、カンヴァス 大阪府20世紀美術コレクション 第11回二科展
松井正『都会風景』1924年 油彩、カンヴァス 大阪中之島美術館蔵
小出楢重『雪の市街風景』1925年 油彩、カンヴァス 芦屋市立美術博物館蔵

 近年発見されたという小出楢重の作品も初公開されているほか、小出が撮影したという映像もあり、モダンな生活の一端や、「大大阪」といわれた、近代化が進む大阪の都市風景を垣間見ることができる。また豊富な資料は写真から当時の活気を感じられる。

小出楢重『仏蘭西人形』1923年 油彩、カンヴァス 芦屋市立美術博物館蔵 (初公開)
鍋井克之『虎ノ門赤煉瓦風景』1913年 油彩、板 芦屋市立美術博物館蔵

「1つの研究所からこれだけの才能が花開くのは素晴らしい。企画・アイデアマンの鍋井克之、それに乗っかり厳しい指導を行った小出、実技だけでなく美術史などの講義を担当した黒田重太郎、そして経理面や事務的な面を担った国枝。画風だけでなく運営面でも4人のバランスが絶妙で、とにかく次の世代へ洋画を普及するために手弁当でやっていた。この4人でなければできなかったのではないか。大阪の洋画界に果たした功績は大きい」と川原学芸員は話す。

■特別展「創立100周年記念 信濃橋洋画研究所 ―大阪にひとつ美術の花が咲くー」
会期 2024年6月22日(土)〜8月25日(日)
会場 芦屋市立美術博物館 (芦屋市伊勢町12-25)
休館日 月曜日
 ※7月15日(月・祝)と8月12日(月・振休)は開館。7月16日(火)、8月13日(火)は休館

芦屋市立美術博物館