以前と同じ場所に復活した小倉昭和館

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 仙台の「チネ・ラヴィータ」、「名古屋シネマテーク」、東京の「岩波ホール」「飯田橋ギンレイホール」「吉祥寺プラザ」、大阪の「テアトル梅田」……近年、全国各地でミニ・シアターの閉館がつづいている。

【写真で見る】小倉昭和館“名物”座席のシートに刺繍された映画人の名前や名物のネオン看板など

 どこも、古い名作映画や低予算の映画など、巨大なシネコンでは採算がとりにくい個性的な作品を上映し、地元の映画ファンに愛されてきた。だが、経費や家賃の上昇、配信映画の隆盛などに押され、いまやミニ・シアターは、まさに“絶滅危惧種”となりつつある。

 そんななか、不況に耐えながら経営をつづけ、火災で全焼しながらも、わずか477日で復活再開にこぎつけたミニ・シアターがある。人口約90万人、福岡県北九州市の老舗「小倉昭和館」である。

以前と同じ場所に復活した小倉昭和館

 この8月で焼失からまる2年。復活に至るまでの日々を、館主の樋口智巳さんにうかがった。

かつては「映画の町」だった

「うち(小倉昭和館)は、1939(昭和14)年に、わたしの祖父・樋口勇が創業しました。当初は芝居小屋も兼ねており、舞台には、片岡千恵蔵や長谷川一夫、阪東妻三郎といった大スターが立って大人気だったそうです」

 そう語る樋口さんは、創業者のお孫さん。3代目である。

「やがて映画専門の劇場となり、ほかにも数館を経営するようになりました。ここ北九州市は1963年に門司市、小倉市、八幡市など5市が合併して誕生しましたが、113館もの映画館がありました。それほど“映画の街”だったのです。しかし、そのなかで現存する映画館は、うちだけになっていました」

 智巳さんが、2代目館主の父・昭正さんから継いだのが2012年。その時点では赤字経営だったが、智巳さんのアイディアで様々なイベントや特集上映を実施。各界著名人や県内外のファンの応援もあって、2019年には黒字転換となった。

 ところが、その翌年に新型コロナ禍。それもようやく落ち着いてきたかと思われた2022年8月10日の夜。自宅で夕食の準備をしていた智巳さんのもとへ、電話が入る。

「小倉昭和館のある、旦過市場〔たんがいちば〕のあたりが燃えているとの連絡でした。実はこの一帯は、4月に火災に見舞われたばかりだったのです。そのときは、幸い、うちは被災しませんでした。あれから4か月しかたっていないのに、また火事とは……まさかうちが火元ではないだろうなと、夕食もそのままに、車で飛び出しました」

 旦過市場は約100店舗の食料店・飲食店がならび、“北九州の台所”と呼ばれている。県内外はもちろん、いまでは海外からも観光客が訪れる名所だ。小倉昭和館は、その市場に隣接した場所にある。デジタル上映専門館が増えている昨今、むかしながらの35mmフィルムも上映できる、貴重な映画館だ。

「駆けつけると、まだうちにまで火はまわっていませんでした。しかしすでに規制線が張られて近づけず、大通りの手前から見ているしかありません。やがてうちにも火が入ってきて、建物が崩れはじめました。消防車の放水もはじまり……ああ、もうこれでフィルム映写機も、高額で購入したデジタル映写機器も、また配給会社からお預かりしていたフィルムも、すべて燃えてしまう……呆然となって、最期の姿をただ見守るだけでした」

 ロビーには、小倉昭和館を愛する多くの映画人のサイン入り色紙も展示されていた。当然、それらも燃えてしまった。だが、智巳さんが特に残念に感じたのが、故・高倉健さんからおくられた手紙だった。実は小倉昭和館は、健さんが気にかけてくれていたミニ・シアターとして、ファンの間では有名な存在だったのだ。

高倉健さんからの手紙

「わたしが小倉昭和館を継いで、最初に組んだプログラムが、高倉健さんの特集上映でした。健さんはおなじ福岡県の中間市ご出身です。ちょうど2011年11月に、『あなたへ』(降旗康男監督、2012年)のロケが門司港であり、そのとき、通行人のエキストラとして参加させていただきました。撮影終了後、健さんにご挨拶したところ、うちのことをご存じで、『自分の映画を上映していただき、ありがとうございます』と、逆にお礼をいわれ、握手してくださったのです。健さんは、うちにいらしたことはなかったようですが、それでも、まさかこんな地方の小さな映画館で上映していることを承知していらっしゃるとは、夢にも思わず、驚いてしまいました」

 このころ、智巳さんは、赤字のつづく小倉昭和館を継続させるべきかどうか、思い悩んでいた。そこで、先日のお礼をかねて、悩みをつづった手紙を出した。

「すると、すぐに返事が速達で来たのです。なにか失礼があったのではと、おそるおそる封を切ると、前半に――『どんな業界でもスクラップ・アンド・ビルドは世の常。その活性が進歩を促すのだと思います』と、ピシャリと述べられていました。しかしその一方で、ちゃんと励ましのお言葉もあり、『夢を見ているだけではどうにもならない現実問題。どうぞ、日々生かされている感謝を忘れずに、自分に嘘のない時間を過ごされて下さい』と書かれていました。“自分に嘘のない時間”……このお手紙を読んで、わたしは小倉昭和館を守っていく決心をしたのです」

 智巳さんは、健さんの了解を得て手紙をロビーに展示していた。この手紙に救われたとの思いを、忘れたくなかったのだ。健さんからの励ましの手紙は、その後もつづいた。

「実は、健さんの訃報が伝わった2014年11月下旬、うちでサスペンス名作2本立てを組んでいました。『張込み』(野村芳太郎監督、1958年)と、もう1本が、健さんの代表作のひとつ、『新幹線大爆破』(佐藤純弥監督、1975年)だったのです。すでにプリントも届いていました。そこで、日本中でうちだけが、訃報と同時に追悼上映をおこなうことができたのです」

 以来、小倉昭和館は、毎年、健さんの命日前後に追悼上映をおこない、九州各地からファンが詰めかけている。

奇跡の復活を遂げるまで

 残念ながら、健さんの手紙を焼け跡から見つけ出すことはできなかった。フィルム映写機は鉄の残骸と化していた。もちろん、イラストレーター・黒田征太郎氏が描いた“ロビー壁画”も、消えた。なんとなく形が残っていたのが、ネオン看板とチケット売場のあたりだった。

「その焼け跡のニュース映像を見た、リリー・フランキーさんから『あのネオン看板だけは、残した方がいい』と連絡が来ました。リリーさんは、北九州市のご出身で、かねてうちを気にかけ、応援してくださっていたのです」

《小倉昭和館1・2》のネオン看板は、まさに同館のシンボルだった(旧館は1・2の2スクリーン)。その赤・青・緑のネオン看板を知らない地元のひとは、いなかった。さっそく智巳さんは、警察の許可を得て焼け跡に入り、関係者に頼んで、そのネオン看板を“サルベージ”してもらった。

「そのほか、《チケット売場》の看板も、なんとか残っていました。いま、この2つは、再開後のロビーにそのままかけてあります」

 しかし、看板が残ったからといって、映画館が再開できるものではない。当初、智巳さんは、このまま閉館することも考えていた。半年間見放題の「シネマ・パスポート」も返金を開始した。

「しかしその後、予想以上に多くの方々から、励ましのメッセージが届きました。女優の奈良岡朋子さん、栗原小巻さん、先述のリリーさんはもちろん、おなじく北九州生まれの俳優・光石研さん……。そのほか、地元の企業や商店の方々……。有志のみなさんはシネクラブサポート会を立ち上げ、1万7000筆もの署名を北九州市長に提出してくださいました。家主の昭和土地建物さんからも好意的なご提案をいただきました。その間、リーガロイヤルホテル小倉さんで無声映画の上映会を開催するなどして、ファンの方々とのつながりも絶やさないようにしてきました」

 2023年1月、智巳さんは正式に再開を表明する。12月に開催される北九州国際映画祭にあわせ、1年後の開館を目標にした。再建のための予定経費は約1億円。クラウドファンディング、募金、企業からの寄付などでまかなう。智巳さんは、その間、あらゆる場所で頭を下げてまわってきた。笑福亭鶴瓶さんはノーギャラで落語会を開催してくれた。いまでは貴重なフィルム映写機も、映像機器会社モノリスから寄贈してもらえることになった。

 着工は2023年4月。もちろん、以前のとおりの再建は無理だった。150坪だった敷地面積は100坪に縮小され、2スクリーンは1スクリーンとなった。席数は、旧館時代は1:228席+2:100席だったが、これも134席となった。それでも、まったくおなじ場所に、一見ほぼおなじ映画館が再建されたのだ。

 そして2023年12月8日、見事にプレ・オープンを果たす。再開記念上映は、「ニュー・シネマ・パラダイス」だった。焼失からわずか477日。まさに奇跡のような復活劇だった。

座席シートに刺繍されている個人名の由来

「焼失したとき、この映画館は、これからも必要なのだろうかと、何度も自問しました。しかし、多くの方々のご支援をいただいているうちに、これは、単に小倉昭和館だけへの支援ではないような気がしてきました。消えつつあるミニ・シアター文化に対する思いを、たまたまうちが代表して受け取っているような……。なので、これからの昭和小倉館は、単なる樋口家の家業ではなく、パブリックな事業をお預かりしているのだと、そんな思いで取り組んでいます」

 ロビーの片隅にはカフェのカウンターもつくり、以前より人気のあった豆香洞の特製ブレンドコーヒーなどの飲食サービスも復活させた。

 さらにユニークなのは、座席シートの背もたれの端に金色で「人名」が刺繍されていることだ。これは小倉昭和館を支援し、応援してくれている映画人の名前を、了承を得たうえで織り込んでいるのだという。

「中村勘九郎さんは6代目なので、6列9番。中村七之助さんは2代目なので2列7番。鮎川誠さんは、奥様のシーナさんにちなんで4列7番。現在、48人の方々のお名前を入れさせていただいています。これはお客様にも好評で、『今日は有馬稲子さんの席だった』『今度は仲代達矢さんの席に座りたい』などと、楽しんでいただけているようです」

 ミニ・シアターの存在そのものが珍しくなりつつある昨今、三代つづく経営で危機を乗り切ってきた小倉昭和館。現在は、樋口智巳さんの次男で四代目にあたる、樋口直樹さん(30歳)も運営に参加している。智巳さんは謙遜されているが、やはり、代々、樋口家の映画やミニ・シアターに対する熱い思いがあってこその復活劇だったはずだ。座席の最後列の隅には、創業者・2代目に劇場をこれからもずっと見守って欲しいとの思いで、「樋口勇」「樋口昭正」の名が刺繍されている。

森重良太(もりしげ・りょうた)
1958年生まれ。週刊新潮記者を皮切りに、新潮社で42年間、編集者をつとめ、現在はフリー。音楽ライター・富樫鉄火としても活躍中。

デイリー新潮編集部