日本代表への発言は若気の至りだった…FC町田ゼルビアを裏で支える李漢宰の生き方【サッカー、ときどきごはん】
新型コロナウイルスは多くの選手に影響を与えた
特にコロナ禍で引退した選手は
ファンに対して別れを告げることなく
ピッチを去ることになった20年もプレーしながらセレモニーもなく
引退した選手がいる
波紋を生んだ発言もやっと本人の口から真実が語られる
いぶし銀の李漢宰に半生とオススメのレストランを聞いた
■試合に出るために自分のスタイルを変えてきた
2020年で引退して、今はFC町田ゼルビアの強化部の一員として働いています。おかげさまで今年、念願の初優勝とJ1昇格を達成できました。みなさま、本当にありがとうございました。
現役を終えた後は慣れない仕事が多くてその分の苦しみがあるんですけど、自分が現役時代で一番苦しかったときに比べたら、すべてたかが知れてると思ってます。
人間って一度経験したことは次からどうにかなるっていう、その乗り越え方を分かってるので、実際今も苦労することはたくさんありますけど、一つひとつこなしていけばなんとかなるという気持ちを持ってやってます。
辛くても「今まで自分が苦しかったことに比べたら何ともなかったかな」って。今振り返れば、ですけど(笑)。実際、最初パソコンで「A」がどこにあるか分かっていない人間でしたから引退したあとは困ることもありました。けれど、やっていけば次第に慣れていきますし。
クラブの運営会社が代わったときはいろんなシステムが変わって、使い方を覚えるのは非常に苦労しましたね。今もすべて覚えたわけではありませんけど、いろんな方の支えもありながら過ごしてます。
選手としては2001年から2009年がサンフレッチェ広島、2010年がコンサドーレ札幌、2011年から2013年までFC岐阜、2014年から2020年までFC町田ゼルビアでプレーしましたが、どの時代も振り返ったら、苦しいことだらけですよ。
その中で一番苦しかったのは……9年プレーしたサンフレッチを離れてコンサドーレに移籍したときですね。出場機会を求めて移籍したのに左膝にケガを負ってしまってベンチにも入れない状態になってしまって。
移籍した2010年は南アフリカワールドカップがありました。2006年ドイツワールドカップのアジア予選に出て、「本大会に出たい」という思いを持って4年間過ごして、Jリーグで活躍してワールドカップに出るためのアピールをしたいと思って移籍したんです。でも膝の軟骨が剥がれる大ケガをしてプレーすることもできなくなって。5月には手術もしました。
そのケガには伏線があったんです。僕は国籍が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)なので、札幌の最初のグアム合宿にビザが間に合わなくて行けなかったんですよ。みんなが1カ月間グアムで体作りをしているとき、僕は恩師のいる東京の学校で寒い中トレーニングしていました。
熊本での2次キャンプには合流できたんですけど、他の選手とはコンディションも明らかに違ってましたね。初めての移籍というのもあって、ポジションを確保するのに焦ってました。開幕直前までレギュラーで出てたんですけど、開幕直前サブに回されて余計に心乱されてしまって。
今振り返るとそんな焦る必要はなかったと思うんですけど、やはり試合に出て自分もワールドカップに行きたいという思いが強かったんです。それでちょっと無茶をしてしまって。ケガしたあとも軟骨が剥がれた状態で1カ月ぐらいプレーを続けたんです。だから手術をしても治りが遅かったんじゃないかと思います。
南アフリカワールドカップには1966年以来となる朝鮮(民主主義人民共和国)代表が出場しました。そのメンバーに在日朝鮮人の安英学(アンヨンハ)さんと鄭大世(チョンテセ)が入ってサポート役には梁勇基(リャンヨンギ)さんが選ばれたんです。
でも自分はそのチャンスすらつかめなかった。ワールドカップをテレビでしか見ることができなかった苦しみがありました。あのときのピッチに立てるような状況じゃなかったところから復帰するまでの期間が一番苦しかったかもしれないですね。
そのままプレーすることなくシーズンが終わって契約満了になりました。サンフレッチェを離れるときは何チームか話があったんですけど、コンサドーレのときはオファーをしてくれるチームが1つもなかったですね。
それで、サンフレッチェ時代にお世話になった今西和男さんがFC岐阜の社長だったので、お願いに行ってシーズン始まる直前にご厚意で入れていただきました。
「やるしかない」「なんとか復帰したい」と思ってたんですけど、再起をかけた岐阜で初めて試合に出たのは7月31日で、1年以上まともにサッカーができませんでした。「李漢宰は終わった」と思ってる人もたくさんいました。
あのときは「自分のことをまだ信頼してくれる、期待してくれる人たちのために、なんとかもう一度ピッチで自分が躍動する姿を見せたい」という、その一念でした。
それがプロ10年目の出来事で、そこからまた10年プレーできたんです。自分では日々のことで精一杯でした。自分でもプロ入りしてから10年ぐらいは自分の中でイメージできてたんですけど、その後の10年は正直イメージができなかったですね。
それからFC町田ゼルビアに移籍したんです。今でこそ素晴らしい環境で立派なクラブハウスや練習場があるんですけど、僕が来たときはグラウンドは人工芝、クラブハウスはなくてスタジアムもまだJ1基準じゃないという、ハード面含めてあまり整っていない状態でした。それでも、一緒にいる選手たちと一歩ずつ積み上げてきた結果、今があると思っています。
あの当時だと、今この状況は信じられないですけど、それでも現役時代の、ギリギリの中で日々一歩ずつ進んできたころに比べると、楽だったと思いますね。20年の現役生活で楽だったときはありませんでしたからね。
サンフレッチェ時代はいろんなポジションでプレーしたんですよ。ポジション争いがずっと厳しくて。先輩方を追い抜かなきゃいけないんですけど、若くて才能のある選手も次々に入ってきましたから。
試合に出るためにいろんな策を講じないと出場できないチームでしたね。試合に出るためには何が必要なのか、自分に足りてる部分と足りない部分は何か、長所と短所をしっかり把握して、「どうやったら自分がチームに貢献できるか」を考えた結果、自分のスタイルをいろいろ変えて、新たな李漢宰としてプレーしてました。そのノウハウがあったからこそ20年間プレーできたのかなと思います。
僕は元々ボランチとかオフェンシブハーフで、真ん中でプレーしてたんです。けれど、プロの中ではスピードに欠けている弱点があって、サイドではなかなか勝負できないコンプレックスがありました。
ただ真ん中は競争率が高すぎて、監督のミシャ(ミハイロ・ペトロヴィッチ)さんや小野剛監督から「右サイドがいないから行ってほしい」と言われたんです。それで「試合に出られるんだったらやってみよう」と決心しました。
右のアウトサイドで出る以上、J1のトップクラス、代表クラスの選手たちと戦うためにスピードの部分を工夫しながらやりました。でもチームは毎年のように外国籍選手含めてとんでもない補強してくるんですよ。
そこに打ち勝つために毎年、最初はサブからスタートして、ポジションを奪ってという日々でしたね。だからこそいろんな意味で成長できたと思います。けれどさすがに最後、右サイドのスペシャリストだったミハエル・ミキッチが来たときには「これはちょっと厳しい」と思いました(笑)。
(C)日本蹴球合同会社
■苦情が殺到した日本代表戦前の発言
1966年イングランドワールドカップの準々決勝、朝鮮vsポルトガルは高校時代に何十回も見ましたよ。前半25分までに朝鮮が3-0とリードするんですけど、そこから大会得点王のエウゼビオに4点を奪われて、結果的には3-5で負けた試合です。
初めて朝鮮代表に選ばれて平壌に行ったときは、グループリーグでイタリアを1-0と下したときの決勝点を挙げた朴斗翼(パクトゥイ)さんとお会いできたのがいい思い出です。そういうのを見て、「自分も朝鮮代表としてワールドカップに出る」という夢を小学校のときから持っていました。
僕がワールドカップ予選に出たのは2006年ドイツワールドカップのアジア予選ですね。2005年には日本とも3回、アジア3次予選(最終予選)で2回、それから東アジア選手権(現E-1カップ)で戦いました。朝鮮と日本が戦うのは1993年のドーハの時以来でしたね。あのころは今よりもお互いがピリピリしていた気がします。
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