江村美咲(フェンシング女子サーブル)
インタビュー前編(全2回)

2022年7月に世界選手権女子サーブル個人で日本女子フェンシング史上初の金メダルを獲得した江村美咲(立飛ホールディングス)。日本女子初の世界ランキング1位(2023年2月13日現在)になり、歴史をさらに塗り替えた。

東京大会に続く2度目の五輪となる2024年パリ大会では、金メダル候補に名前が挙がる江村のもとを訪ね、これまでとこれからを聞いた。前編では、フェンシングの出会いから軌跡をたどっていくーー。


フェンシング・サーブルの江村美咲

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【世界の頂点に立ち「すごく不思議」】

ーー昨夏、エジプトで開催されたフェンシング世界選手権女子サーブルで金メダルを獲得しました。「世界一」の感触はいかがでしたか?

江村美咲(以下、同) シニアの試合を回り始めた頃の世界選手権は、予選敗退して、その後はただ眺めているというような、手が届くような場所じゃないと思っていました。

だから金メダルを獲った時は、その頂点に自分が立っているのが、すごく不思議でしたし、素直にうれしかったです。

ーー世界選手権では、個人だけでなく女子サーブル団体でも銅メダルを手にしました。江村選手にとって、個人戦と団体戦の違いとは?

 私としては、プレッシャーもうれしさも団体のほうが大きいですね。やっぱり、みんながつなげてきてくれたものを、最後、自分がしっかりとしめないといけないプレッシャーがあります。

 個人で勝つのももちろんうれしいですけど、みんなで喜び合う感じがうれしさを倍増させる。団体はテンションが上がります。

 世界選手権の団体では、準決勝で(前の選手が)勝って私に回してくれたのに逆転で負けちゃったので、すごく申し訳ないと思いました。いいパフォーマンスが全然出せなかったので悔しかったです。

 団体の3位決定戦では、絶対メダルを持って帰ろうという気持ちで臨んだので、獲れた時はホッとした感じが強かったです。そう考えると、団体は個人以上に緊張しますし、プレッシャーとの戦いって感じがします。

 個人は勝っても負けても自分だけの責任なので、そうした点ではちょっと気がラクというか。そんな気がしますね。

【「ただなんとなくやっているだけ」だったフェンシング】

ーーさて、今回のインタビューでは江村選手の軌跡をたどります。フェンシングとの出会いを教えてください。

 フェンシングは、幼い頃から身近でした。出身である大分県にいた頃、父(宏二、1988年ソウル五輪フルーレ日本代表)が地元のフェンシングクラブのコーチをしていて、最初は兄が通っていたんです。

 私は小学3年の時にクラブに遊びに行って、最初はボールゲームをしたり、フェンシングと関係ないことをしていたんですけど、通ううち、フェンシングに興味を持つようになりました。

 母(孝枝、元エペ世界選手権日本代表)はどちらかと言えば、他のスポーツをやってほしかったみたいで。母が昔、バスケをちょっとやっていたのもあって、チームスポーツとかをやってほしかったようです。

ーーそうしてフェンシングを始めて、どんどんハマっていくことに?

 始めた頃は、太田雄貴さんが五輪でメダルを獲った影響が大きくて、周囲は当然のように種目はフルーレから始める時代だったんです。それで私もフルーレを最初はやっていました。

 中学1年でサーブルの試合でも優勝して、サーブルも楽しいなと思ったんですけど、そんなに本気でやるつもりはなかったんです。

 もっと言えば実は......フェンシング自体も楽しかったんですけど、当時はもっと強くなりたいという意識もなくて、ただなんとなくやっているだけで。

 フェンシングってカッコいいと思いますし、やっていると珍しがられるのがうれしくて、続けていただけだったんです。

 そんな時、福岡県のタレント発掘事業(将来のスポーツ選手を育てる事業)でフェンシングを始めたばかりの女の子たちにあっという間に抜かされてしまって。その悔しさで本気になった部分がありました。

※フェンシングには、相手の体の胴体だけを攻撃できる「フルーレ」、上半身を攻撃できる「サーブル」、体のどこを突いてもいい「エペ」の3種目がある。

【ライバルとの出会いが自分を変えた】

ーーそれからは、フェンシング一筋ですか?

 私が通っていた中学校は全員部活に入らないとならなかったんですが、私は放課後にフェンシングの練習があるので、一番頻度が少ない部活という理由で、茶道華道部に入っていました(笑)。

 今考えてみると、その頃からフェンシングをやりたい、同世代のライバルたちに負けたくない、という気持ちが強く出てきていたのかなと。

 中学3年の終わり頃に、初めて国際大会で金メダルを獲って、周りもすごく応援してくれて、期待もしてくれるようになってくれて。その時は、私も「夢は五輪です」とか、言うようになってましたね。

ーー高校は通信制(大原学園高)を選びました。その理由は?

 受験の時、迷ったんですよ。普通の高校か、通信制か。一般的な高校生活の青春も捨てがたかったんですけど......もうその頃には、フェンシングで後悔しないのはどっちだ、という考え方になっていました。

 同い年のライバルの存在を強く意識していたので、ちょっとでも差をつけたいと、競技により専念できる環境を選びました。

ーー競技における通信制高校のメリットとは?

 フェンシングにほとんどの時間を費やせたので、シニアの先輩たちと一緒に練習させてもらうことも多くなりました。

 毎日、やっぱり負けてばっかりいましたが、もっと強くなりたいと、自分が目指す位置がその頃に一段階上がったのかなと思います。

ーー逆にデメリットはありましたか?

 デメリットというわけではないんですけど。試合で海外へ行ったりして、それはそれで楽しかったんですが、学校のイベントはあんまり思い出がないんです。

 高校1年から3年までは、JOC(日本五輪委員会)エリートアカデミーに入っていたので、寮生活で寮母さんにしっかり管理されていました。

 高校は土曜日のみの通学コースだったので、学校生活に関しては、中学のほうが楽しかったかもしれないです。

ーーその後、中央大学へ進学します。この大学を選んだ理由は?

 他の大学からもいくつか声をかけていただいたんですが、中央大学はフェンシングの環境とサポート体制が整っていて、歴史もあるんです。

 その頃はまだ男子の歴史が中心でした。それで、自分が何か新しい歴史を作りたい、第一人者としてチャレンジしてみたいという理由から大学を決めました。

【多忙な大学時代に「一番伸びた」】

ーー大学生活はどうでしたか?

 寮から大学まで、ドアツードアで片道2時間くらいかかったんですが、練習して、授業に行って、また練習して、みたいなけっこうハードな感じでした。昼ご飯も駅のホームで食べるような生活を送ってたんです。

 大変だったけど、自分のなかではわりと充実していたというか、それだけ頑張ってやれているという納得感もありました。

 時間は限られましたが、授業がある日は友達と会えることがいい気分転換になっていたのかなと。

 フェンシングは、コーチが私に練習時間を合わせてくれたりして、集中してやらなきゃという意識は高まっていたと思います。一番伸びたのは大学の時でした。自由にやれる環境がよかったのかな。

ーー学部は法学部でした。勉強のほうは?

 法律系の授業はめちゃめちゃ難しかったですね。わからないから頑張って授業に出るんですが、出てもわからないっていうのが本当に困りました(笑)。

 でも英語は案外得意なのかなと思いました。海外での試合をたくさん経験してきたのもあったのかな。

ーーインタビュー後編では、東京五輪後の進化やパリ五輪に向けた思いを聞いていきたいと思います。

後編につづく>>

【プロフィール】
江村美咲 えむら・みさき 
1998年、大分県生まれ。父・宏二は1988年ソウル五輪フルーレ代表、母・孝枝はエペで世界選手権に出場。小学3年でフェンシングを始め、中学時代にフルーレからサーブルへ転向。高校時代の2014〜2017年、JOCエリートアカデミーに在籍。2018年から全日本選手権2連覇。中央大学卒業後の2021年3月にプロ宣言。2021年東京五輪では団体5位入賞、2022年の世界選手権で日本女子個人として初の金メダル。2月13日現在で世界ランキング1位。