日本女子バレー界のレジェンド
大林素子インタビュー(1)

 日本女子バレーボール元日本代表で、現在はタレントやスポーツキャスター、日本バレーボール協会の広報委員としても活躍する大林素子さん。女子バレー界のレジェンドである大林さんに、自身のバレー人生を振り返ってもらった。

 連載の第1回は、「大きすぎていじめられた」子ども時代、バレーに本気で取り組むきっかけになった中学時代のある試合について聞いた。


女子バレーの元日本代表で、現在は解説やタレントなど幅広く活躍する大林さん

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――大林さんがバレーを始めたきっかけは、有名なアニメ『アタックNo.1』だったそうですね。やはり幼い頃から背が高かったんですか?

「幼稚園の頃から周りの子たちより頭ひとつ大きかったですね。でも、それが原因でいつもいじめられていました。小学4年生の頃にランドセルが似合わなくなって手提げのカバンで登校するようになり、6年生で170cmに。当時から芸能界で活躍するのが夢で、『アイドルになりたい』と思っていましたが、『でかい女はアイドルになんかなれない』と言われて、死にたいと考えてしまうほど深く傷ついたことがあります。

 家のなかに閉じこもってテレビばかり見ていたんですが、そんななかで出会ったのが『アタックNo.1』でした。主人公の鮎原こずえちゃんに感情移入して、夢中になって見ましたね。父は学生時代に野球をやっていて、母は東京五輪の走り高跳びの選手を目指していました。叶わなかった夢を娘に託すという感じで、私にも何かスポーツをやらせたいと思っていたそうなんですけど、それがバレーボール選手になったきっかけです」

――クラブなどには入らなかったんですか?

「私が通っていた小学校や地域には、バレーができるクラブみたいなのはなかったんです。だから本格的に始めたのは中学に入ってバレー部に入部してからですね。バレーは人気種目で、部員が1学年で20人以上いました。

 ただ、私はどちらかというと運動が苦手なほうで、練習も嫌いでずっとサボっていました。部活の時間が近づくと、『膝が痛い気がする』『今日は頭が痛いかも』といった感じで具合が悪くなっていくような感じでした。

 当時は年功序列が厳しい時代でもあり、試合に出るのは3年生で、1、2年は球拾いとランニング、空気椅子なんかもやっていましたね。しんどくて耐えられないから休みたいんですが......練習を休むためには理由が必要なので、それを母に書いてもらって先生に渡していました。架空の塾に通っていることになっていたこともありますね(笑)」

――中学時代は練習をしないままだったんですか?

「分岐点になったのは、秋に1年生だけが出場する新人戦です。この大会は私も楽しみだったんですが、相変わらず練習は休んだりサボったりしていた。なのに、いきなりスタメンに抜擢されたんです。選ばれた理由はわからないけど、他の部員には『いいよね、もっちゃんは大きくて』などと言われていました。

 でも、出られるのはうれしいから張りきって試合に臨んだら......。スパイクが手に当たらなくて私ひとりだけが1点もとれず、相手の攻撃も1本も拾えませんでした。でも、最後までベンチには下げられず、コートの上に立ち続けたんです」

――相当、悔しかったでしょうね。

「悔しさはもちろん、恥ずかしかったし情けなかった。でも、試合後に顧問の作道講一郎先生からは『大林、お前は落ち込んでいるようだけど、そんな資格はないよ。君は落ち込んでいいほど練習してないじゃないか』と言われて。当たり前のことではあるんですが、そこで自分に対してショックを受けました。痛い目を見たことで、ようやく『やらなきゃダメなんだ』と気づかされたんです。

 もしその試合に出ていなかったら、もしくは1、2回ミスをして交代させられていたら、『あーダメだった。つまらなかったな』で終わっていたでしょうね。でも、監督はあえて私をコートに立たせ続けてくれた。その試合の勝利を棒に振ってでも、私に『やらなきゃ』という意識を叩き込んでくれたんです。その日を境に生まれ変わり、練習もマジメにやるようになりました」

――そのことについて、監督と話をしたことはありますか?

「話をしたのは何年か経ったあとでしたね。その時に監督も『大林に"今の自分"を知ってほしかったし、何か感じてほしかったんだ』という意図を聞きました。もしかしたら他に、『どうにもならない選手がいても、それをカバーする必要があることをチームメイトに教えたい』という考えもあったのかもしれません。バレーボールはチームスポーツで、みんなが完璧にプレーできるわけじゃありませんから。とにかく、その時の監督の采配には今も感謝しています」

――マジメに練習するようになって、メキメキと成長していったのでしょうか。

「いえ、まともにできるようになるまでは数カ月、半年くらいはかかりましたかね。気持ちを切り替えて練習しても、最初はまったくできなくて、しんどいから『嫌だな。やっぱり休もうかな』となりかけるわけです。でもそこで、『ここで休むと、またあの時みたいになる。あの恥ずかしい思いをすることになる』と思いとどまることができました。

 私はその後の人生でも、何か大変なことがあった時に『あの、ひどかった時に比べたら』と心のなかで唱えるんですが、それはこの頃から使い始めました。つらい記憶があるからこそ、『それよりは大丈夫』と前を向ける。そのうちに、"スイッチ"も切り替えられるようにもなっていきました。たとえば、『とりあえず今日だけしっかり頑張ろう。その代わり、明日から1週間は絶対に休んでやる』といったように。

 そうやって"その日"を頑張れると、休もうと思っていたはずの次の日も頑張れるんです。部活の練習も『休むのが当たり前』だったのが、休むことに罪悪感が生まれるようになりました。練習をやりだしてからは『このままやめたら、またいじめられてしまう』という危機感もありましたし、『いじめられた人を見返したい』という気持ちも強かった。その思いは、今でも私の"頑張るためのエネルギー源"になっています」

――中学1年秋のひとつの試合が、大林さんの人生を大きく変えることになったんですね。

「実は、中学時代にもうひとつ、運命を変える出来事があったんです。それは、日立や全日本女子の監督も務めた山田重雄先生に送った手紙がきっかけになりました」

(第2回:「サインがほしくて」出した手紙が招いた人生の転機。日立の練習に参加して「久美さんに睨まれました(笑)」>>)

◆大林素子さん 公式Twitter>>:@motoko_pink 公式Instagram>>:@m.oobayashi