『なんもり法律事務所』にて。左は南和行さん(42)、右は吉田昌史さん(41) 撮影/齋藤周造

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「僕、同性愛者なんやけど─」

【写真】和行さんと吉田さんの結婚式、理解を深める兄と母の友達、ほか

 南ヤヱさんが、今は弁護士として活躍する次男の和行さんからそう告白されたのは、2000年初夏のころだった。家族そろっての法事からの帰り道、電車の中でのことであったという。

母と息子の言い争い

 あの日のカミングアウトを思い出して、ヤヱさんが言う。

「南海電鉄の電車の中で、私と和行と長男の輝行の3人で、確か立っていたと思うんですよ。長男に聞くと、私はそのとき、泣いたと。私は覚えていないんですけど。そのあと長男が“そんなもん、電車の中で言うな!”と言って。とにかく座りたい一心で、天下茶屋駅の、おうどん屋さんに入ったような気がします」

 兄の輝行さんも振り返る。

「母親が取り乱していたのを覚えています。ハラハラと泣いていたように思いますね。和行が言うには、私は家に帰ってから“(同性愛は)国によっては死刑になる! そうならないだけ幸運に思え!”そんなひどいことを言ったらしいです(苦笑)」

 やさしい性格で成績もよかった和行さんは、小学生のころから女の子にモテモテだった。バレンタインデーにはチョコレートを10個も抱えて帰ってきたことがある。そんな息子も24歳。“そろそろ特別な女性を紹介してくれてもいい年齢なのに……”そう思っていた矢先のことだった。

「私は頭が真っ白になったというより、“この子、なにを言ってるんやろ!?”と。戸惑いというか、ショックというか、息子が悪いこと、恥ずかしいことを言っているという意識しかありませんでした」

 衝撃のこの日から、わが子の性的指向を理解し、受け入れる、心の旅が始まることとなる─。

◇  ◇  ◇  ◇

 カミングアウトした当時、和行さんは京都大学農学部の大学院生で、京都のワンルームマンションでひとり暮らしをしていた。電車内での突然のカミングアウトは、法事をきっかけに、“気持ちは言葉にして伝えておかないと、家族親族といえど伝わらず、誤解されたままになってしまうことがある”そう思い至ったからだったという。

 だが、それ以降、大阪に帰省してヤヱさんと顔を合わせるたびに、言い争いになった。

「同性愛は犯罪でもなければ、恥ずかしいことでもない!」そう主張する息子と、「同性愛なんてはしかのようなもの。素敵な女性と出会えれば、はしかが治るように忘れられるはず!」そう繰り返す母。

 仮に女性と付き合ったとしても、同性愛者である以上、相手を不幸にするだけと和行さんが訴えても、ヤヱさんは聞く耳を持たなかった。

母の心配、息子の不安

 当時、ヤヱさんと同居していた輝行さんがこう思い出す。

「“なんでこんなことになってしもうたんやろ?”そんな心配の仕方でした。“私の教育が間違っていたのか?”そう自分を責めていましたね」

 ヤヱさんが振り返る。

「そのころはLGBTのことが今ほど新聞に載ることもなかったし、私も同性愛はハレンチなことと思っていました。だからそんなにすんなりとは、受け入れられませんでした」

 心を許し、実の姉や兄嫁と並んで相談したひとりが、高校時代からの親友の松田桂子さん(75)だった。

「“ちょっと聞いてほしいことがあるの……”そう言って電話がかかってきました。“法事のあとに、和行がこんなことを言ったんやけど、どうしよう?”そんな感じの相談やったね」

 ヤヱさんには衝撃的だった告白も、実は松田さんには意外でなかった。

 和行さんが中高校生のころだろうか、松田さんがヤヱさんに電話をすると、ときには不在のこともある。その年ごろの男の子といえば、“母は留守です”程度の応対で電話を切ってしまいがちだ。

「ところが和くんは、“母は今どこそこに出かけていて”と言ったあと、ちゃんと話し相手になってくれるんです。やさしいし、話しやすいの。学校に行っているときも女の子のお友達が多いと聞いていたから、“もしかして?”という感じはあった。だから私はそれほど驚かずに、“ああ、そうなんかな”と受け止めることができましたね」

 そしてこう答えたという。

「“そういうことで心配せんでいいよ”そう言ったように思います。私は人が人を好きになるって、異性とか異性でないとかはあまり関係ないと思っていたから」

 息子の性的指向を受け入れられるとは、考えもしなかった。だがほんのちょっとだけ、ヤヱさんの気持ちが楽になった。

 平和だった家庭に、“同性愛者”という嵐を持ち込むこととなった和行さん。

 そんな和行さんがゲイであることを自覚したのは、小学2年生のときだった。自分自身も相当な葛藤があったという。

「自分は病気ではないかとか、自分は“欠陥商品”なんだろうかとか思ったり。男の人にときめいたりすることをマイナスにばかり考えていました。ゲイの友達ができ、性的な体験をしてからも、“自分は社会の真ん中を歩けない人間なんだ”というような気持ちでもありました」

 兄の輝行さんがこんなエピソードを披露する。

「昔いっとき、大学時代に彼女ができたと家に連れてきたことがあったんです。今考えると世間に合わせていけるよう、努力してたんやなあ、と」

 そんな和行さんがパートナーの吉田昌史さんと出会ったのは、カミングアウト直後の2000年の夏。和行さんが京都大学農学部大学院の2年生、吉田さんが同大法学部の大学院1年生で、和行さんが主宰していたゲイの京大生たちの交流サイトを通じて出会ったという。

会うたびに盛り上がる2人

 和行さんが2人の出会いを、大阪人らしいサービス精神を発揮しつつ披露する。

「(吉田さんが)“中学高校と水泳部でした”と掲示板に書いていて。それを見て“上物が来たっ!”(笑)」

 水泳部員の引き締まったボディに、焼けた素肌。掲示板はにわかに色めき立ったという。とはいえ、

「鳴り物入りで掲示板に登場した吉田くんは、思いのほかイモコロリで(笑)」

 そんな吉田さんに、和行さんは運命のようなものを感じていたという。

「法学部だとも書いてあったんです。実は僕が大学4年の1998年に亡くなった父が弁護士で、自分も弁護士に向いているんじゃないかと思っていました。ですが、トントンと理系の農学部に進んでしまって、弁護士の仕事とは離れてしまった。

 それで僕は、弁護士とか法律を勉強しているような人には僕にはできないことをしている人”というような憧れがあったんです」

 ぜひ会おうということになり、待ち合わせてお茶でも飲もうと学食へ向かう道すがら、吉田さんに出身高校を尋ねると、ともに大阪府立天王寺高校で、さらには兄同士が同級生ということがわかった。共通の知人も多く、会うたびに話が盛り上がる。そのうち、吉田さんが両親を早くに亡くし、おばあさんの介護をしながら学ぶ苦学生であることも知った。

 話は合うし、共通点も多い。男女だったら結婚を意識し、付き合いを始めるところだ。だが同性同士となると、そう簡単にはいかない。

 吉田さんが「好きなら付き合えばいいやん」とシンプルに考える一方、男同士で付き合うことの意味にこだわったのは、和行さんのほうだった。

「僕にとって付き合うっていうのは、男女が結婚するからこそ必要な段階というイメージ。だから“(男同士だと)デートしたり、遊びに行ってSEXするような関係でいるしかないじゃん”という感じでいたんです。実際、家にいるときだけが恋人同士で、外を歩くときには“地元の後輩”みたいにしているゲイカップルもたくさんいます。二重生活です。

 でも吉田くんとやったら、将来を一緒にできるんじゃないか、一緒に飲みに行って楽しい、SEXできてうれしいだけじゃなく、日常生活を一緒に過ごすことができるんじゃないかと、知り合って最初のころから思えたんです」

 吉田さんのご両親は他界しており、2人の関係を説得する親の数が少ないことには正直ホッとしたと打ち明ける。

「それに母は、吉田くんのことをきっと気に入ると思いました。吉田くんのすごくまじめなところや、ご両親を亡くされて苦学されていることとかです。母が“いい子やね”と言ってくれるような感じがあったんです」

 将来への期待が芽生え始めた翌2001年4月、和行さんは大阪の建材メーカーに就職。京都のワンルームマンションを引き払い、大阪に引っ越すことになった。実家は手狭だったので、目の前のマンションに部屋を借りることに。

彼氏の母の冷たい態度

 ヤヱさんはここで初めて、息子の同性の恋人と対面することとなる。

 それは同年3月、和行さんの引っ越しでのことだった。

 荷ほどきを手伝おうと吉田さんが大阪の引っ越し先に到着したが、運送会社のトラックがやってこない。肌寒い中、まだ電気も通じていない部屋にいることもないと、2人で誰もいない実家に行き、荷物の到着を待っていた。そこにヤヱさんが帰宅したのだ。

 この瞬間の、初対面2人の記憶は微妙に食い違う。ヤヱさんは、その場面がほとんど思い出せないという。

「吉田くんが手伝いにきてくれていたみたいなんですよ。でも和行は、“この人が吉田くんで僕のパートナー”というような紹介は、してくれなかったように思います」

 一方、吉田さんの記憶では、その場の空気がたちまち冷たいものになったという。

「そのときは友達として紹介されたんです。でも(ただの友達ではないと)わかったんだと思います。一応、“晩ごはん、食べてって”と誘われたけど、僕の記憶では、(ヤヱさんは)すっごく冷たかったという印象しかなくて、“いいです”と断って帰って。そのあと、“帰ってけぇへんと言ってたやん! あんな態度とられて、もう2度と会わへんから、会わすな!”そう怒鳴ったのを覚えています」

 お互いに最悪の感情で別れた1年後の2002年3月、和行さんは入社した建材メーカーを1年たたずして退職する。アルバイトをしながら予備校に通い、吉田さんとともにロースクールに入学し、弁護士を目指すためだった。

 だが、これは、当時のヤヱさんには救いとなる。

「無我夢中で司法試験を受けることで、同性愛なんかきっと忘れて治ってくれる。そう思ったんです」

 2004年4月、2人そろってめでたく大阪市立大のロースクールに合格。ヤヱさんは和行さんから、昼食用に2人前のお弁当作りを頼まれた。

「毎日、外で食べるとお金がかかるでしょ? 和行はお弁当を食べて吉田くんはお弁当がないなんて、そんな残酷なことはできない。それで“いいよ、2人分作るのも同じだから”。抵抗はなかったです」

 吉田さんに冷たくすることもできた。そうすることで別れに誘導する方法だってあったはずだ。

「そんなことは微塵も考えなかった。結婚しても離婚する夫婦もあるぐらいやから、お互いの気持ちが変わって“別れましょう”ということはあるかもしれない。でも、別れさせるために冷たいことをするなんて、発想もしなかった。“人の道理”として、普通の人ならそう思うはずですよ」“2度と会わへん!”と怒った吉田さんの心情にも、変化が起こり始めていた。

「入学直後の6月ごろに、たこ焼きパーティーをするという話があって、僕も呼ばれたんです。“どうしようかなあ……”と思って。

 “2度と会わすな!”とは言ったけど、お弁当を作ってくれているし、お礼を言ったほうがいい、言わなきゃいけない、とは思っていて。それでお礼を言ったら、(ヤヱさんは)“そんなの全然!”と。軽い感じやったと思います」

 実は吉田さんは料理が得意で、ロースクールに入学した年の年末に、手作りしたおせち料理をお礼がわりにヤヱさん宅に届けたことがある。お互いに“ありがたい”“お礼を”と思いながらも、ともにどう接していいかわからない状態での、しゃちほこばった挨拶が続いた。

“こだわり”がすーっと消えた瞬間

 当時を振り返り、ヤヱさんには思うことがある。

「(料理の得意な)吉田くんが私のことが嫌で、“自分がなんとかするからいい!”でなくて、私のお弁当食べてもええと思っていてくれた。これは喜ばなあかんかったな、と。私を受け入れてくれていたんだと。最近になってそう思うようになりましたね」

 ロースクール通学中、1日も休まずに2人のお弁当を作り続けたヤヱさんの心に2人への理解が見え始めたのは、吉田さんが全国8位の見事な成績で、司法試験にストレート合格を果たした2006年9月のことだった。

 和行さんからの、“僕は司法試験に落ちたけど、吉田くんが通ったから、どこかごはんでも連れて行ってあげて”そんなリクエストに応え、3人で大阪ミナミの老舗『はり重』へ。和やかな雰囲気のもと、お祝いの膳を囲んだ。吉田さんは司法修習生として12月から1年間、裁判所や検察庁、弁護士事務所で研修を積まなければならない。ヤヱさんが、

「吉田さんのご両親が亡くなっていて、早くちゃんとなったほうが安心だから、“ああ、本当によかった!”と」

 兄の輝行さんのわだかまりも解け始めていた。

「吉田くんと何度か会ううち、人のよさを感じたんです。和行より数倍しっかりしているし(笑)。なんだかすーっと、こだわりが消えていた」

 ヤヱさんが今もよく覚えていることがある。

 息子の恋人はわずかな回数しか家には来ていない。それなのに陶器が大好きなのを察知して、何回かペアのコーヒーカップをプレゼントしてくれたのだ。その繊細さと思いやり、そしてやさしさ。

「亡くなった主人が、息子が思春期に入りかけたころに言っていたことがあるんです。“子どもが結婚したいと連れてきた人は、悪い人じゃなかったら認めなきゃアカン”。じっくりとよく考えてみれば、吉田くんは和行が選んだ人なんや、と……」

 ヤヱさんの心を解かしつつあったもの。それは異性同性の別ではなく、人間としての資質。

 つまりは、やさしさや思いやり、誠実さだったのだ。

出会いから10年の決心

 ヤヱさんの理解も深まり始めた2007年のことだった。司法修習生として多忙な毎日を送っていた吉田さんが体調不良を訴え、倒れてしまった。

 突然の病気は、結婚もできなければ交際を公言できない状況を、2人に改めて考えさせることとなった。

 例えば、異性同士ならば、結婚はしていなくても、誰はばかることなくパートナーをサポートすることができる。 

 ところが同性カップルとなると、医師に病状ひとつ尋ねるにも、2人の関係から説明しなければならないのだ。

 吉田さんの体調不良は修習期間を終えた2007年11月以降も続き、弁護士事務所に就職したのちも休みがちな日々を送っていた。“事務所に迷惑をかけてしまっている”という思いを抱えていた吉田さんは、勤務先からの退職を決意する。

 こうした苦しみもあれば、喜びもあった。

 2008年9月、和行さんが吉田さんから2年遅れで、司法試験に見事合格を果たしたのだ。

 翌2009年には吉田さんの病も癒え、新しい弁護士事務所で再スタートを切ることに。こののち2人は、新たな展開を迎えることとなる。

『NPO法人EMA日本』のHPによれば、2019年5月現在、同性婚を認めているのは、世界のおよそ20%に当たる26の国と地域。5月17日に台湾が承認。コスタリカも2020年5月までに承認予定だ。ちなみに日本は、これに含まれていない。

 出会いから10年目の2010年の夏、法的には同性同士の結婚が認められない中、結婚式を挙げようと提案したのは、吉田さんだったという。

 2人が生活をともにして久しい。それぞれが所属していた法律事務所ではゲイであることは隠してはいなかった。

「それなのに、昔の友達のほうが知らなかったりするわけなんです。その使い分けが僕はだんだん嫌になってきて、みんなに言いたいと。結婚式を挙げれば、パッとお披露目ができるなあ、と」

 イメージしたのは、クリスマスのころ、レストランを借り切って人前式で行う結婚式。今でこそ同性カップルウエルカムの結婚式場は事欠かない。だが2010年当時は、まだまだ大胆なことだった。

 “レストランは同性同士の結婚式を受け入れてくれるんだろうか?”“電話して聞いてよ”“いや、ランチを食べに行ったついでに……”

 そんな躊躇を重ねているうち、繁忙期12月のレストランは予約で次々に埋まっていってしまう。気を取り直して翌2011年の4月、桜の咲くころの挙式を決めた。

理解してもらうための努力を続けて

 選んだのは、大阪の大川沿いにある洒落たイタリアンレストラン。4月にはテラスから見事な桜並木を眺められる。

 だが着々と結婚式の準備を進める2人を横目に、ヤヱさんの心境はいまだ複雑だった。

 前出の友人、松田さんが、そのころのヤヱさんの心を代弁する。

「“やっぱり自分の育て方が誤っていたんだろうか……?”とか、電話で相談されましたね。結婚式で着る服にも悩んでいて。式服って、自分の気持ちが表れるもの。“私は何を着るべきかしら?”って。2人のことを受け入れつつも、まだ戸惑いや不安があったんだと思います」

 そんな気持ちを察した松田さんは、ヤヱさんに内緒で和行さんあてに手紙を書く。こんな文面であったという。

《異性であれ同性であれ、人生の伴侶を見つけるって大変なことです。吉田くんと巡り逢えてよかった。これからバッシングを受けることもあると思うけど、それは和くんだけじゃない。お母さんも人に色々言われながら生きていくことになるでしょう。だからお母さんのことも、ちゃんと考えてあげて。

 自分たちは正直に生きられて幸せだと、お母さんや周りに知らせてあげて。今はまだ混乱しているけれど、あなたを育てたお母さんだから、ちゃんと理解してくれるはず。そのための努力だけはきちんとしてね》

 ─理解してもらうための努力を続けて─

 和行さんはこの言葉を心に留め、結婚式当日を迎える。

 2011年4月9日、満開の桜の中、2人は列席者80名を前に結婚の誓いを述べて指輪を交換し、夫夫となった。

 ありきたりな結婚式であり、披露宴であったと2人は言う。

 牧師役の友人の司式のあと、出会いのヒストリービデオが上映され、お決まりのヤヱさんへの花束贈呈。2人にとって、最高の結婚式となった。

心からの理解と後悔

 ヤヱさんが回想する。

「和やかな、いい式だったんですよ。2人が当時働いていた事務所のボスから法曹関係の人もみんなにこやかにお祝いをしてくれて。中学時代の同級生も、2人ぐらいかな、振り袖を着て出席してくれていましたね。うちは私と長男の輝行夫婦とその子ども。吉田くんのお兄ちゃんも出席してくれましたね」

 ヤヱさんが2人の関係を納得し、心から受け入れたのは、この結婚式のときだったという。

「これは(和行さんが異性愛には)もう戻らないと覚悟した。これだけたくさんの人が理解して受け入れてくれるなら、私もそんなに心配せんでいいか、と。心配はこれでもう終わり、と思いました」

 輝行さんがこう回想する。

「こういう生き方があるんだと、ストンと思えた時期が母にあったように思うんです。それからはすごく強くなった。迷ってウジウジしていたところがなくなって、体裁のため“理解したように振る舞う”でなくて、心から理解したんだと思います」

 とはいえ、後悔もある。

 結婚式に既婚女性の式服である留め袖でなく、ツーピースを着ていったことだ。

「つい最近になって“和行、留め袖を着てほしかったんやろなあ”と思いました。あの子、卒業式に着物着ていったらすごく喜んだし。私が着物を着たりしてキレイにしているの、好きやったんです」

 式には親戚は呼ばなかった。

「親戚には声もかけなかった。兄夫婦にも、東京の姉夫婦にも、言うてもいない。声をかけたらきっと来たと思います。考えたらかわいそうに」

 吉田さんにも後悔が。

「おばあさんには説明したかったんだけど、80代後半だったから“今さら言うのも”というのもあって……」

 人生には、なんでもないことができなかったり、踏み出すことをためらうことがしばしばある。そしてずっとのちになって“なんでそうしたんだろう?”と自分自身をいぶかしむ。

 2011年と'19年とでは、わずか8年でありながら、時代も考え方も、大きく異なる。2人の思い残しも、そうしたもののひとつなのだろう─。

息子が3人いる感じ

 結婚式後の2013年、2人は所属していた弁護士事務所から独立、共同で大阪の南森町に『なんもり法律事務所』を開設した。現在、ヤヱさんはここに木曜を除く週4日勤務、2人の仕事をアシストする毎日を送っている。

 仕事中は両弁護士を“南先生”“吉田先生”と呼ぶ。だが、仕事を離れれば、親子だ。

「長男の輝行とで、息子が3人いる感じ。あの夫夫は和行が引っ張っているように見えるけど、ホントは吉田くんが引っ張ってると私はにらんでる(笑)。いい夫夫ですよ」

 母親というものはとかく、息子の配偶者は癪に障るものらしいといいますが……?

「吉田くんにはないねえ。でも、たまに2人の学生時代の女友達が子連れで遊びに来て、吉田くんにだけ料理を作らせていたりすると、“吉田くんにばっか作らせて!”って。ああ、これが姑根性ってやつか、って(笑)」

 そして、息子の夫にこう言って目を細める。

「吉田くんのお母さんに、今の吉田くんを見せてあげたいと思いますわ。息子さんは立派で優秀、そしてやさしい息子さんに育ちましたって」

 幸せな結婚に、異性婚も同性婚もない─。

 ヤヱさんの心の旅の到着地、ここに極まる。

取材・文/千羽ひとみ(せんばひとみ)ドキュメントから料理、経済まで幅広い分野を手がける。これまでに7歳から105歳までさまざまな年齢と分野の人を取材。「ライターと呼ばれるものの、本当はリスナー。話を聞くのが仕事」が持論