ユーロ2016は、最後にまたひとつ美しい敗者を誕生させそうなムードだった。決勝戦。C・ロナウドが怪我で担架に担がれて退場した瞬間、ポルトガルの勝利を予想した人はどれほどいただろうか。いなかったと思う。

 勝敗への興味は、すっかり失われようとしていた。エンタメ性についても同様。C・ロナウドのいないポルトガルを、開催国フランスが容赦なく攻め立てる姿を見て、胸が弾むことはなかった。

 スタッド・ドゥ・フランスを埋めたフランス人も、心なしか応援のトーンを下げたように見えた。彼らはけっこう正直な反応をした。C・ロナウドが担架に乗せられ退場していくシーンでは、温かい拍手を浴びせかけ、スーパースターに対し敬意を表していた。

 大幅な戦力ダウンを強いられたポルトガルが、どこまで粘るか。どれほど美しい姿を披露できるか。関心はその1点に絞られていた。

 ところが、ポルトガルはこちらの予想を大きく覆した。延長後半4分、交代出場のエデルが放った一撃で、美しい敗者ではなく勝者に輝いてしまった。

 美しい敗者ならぬ美しい勝者に。

「勝つ時は少々汚くてもいいが、敗れる時は美しく」とは、いまはなきクライフの言葉だが、これは敗者のあるべき姿を謳ったもの。勝者のあるべき姿について語ったものではない。「汚くてもいいが」は、美しいを引き立たせるための表現になる。

 勝者は強者とほぼ同義語。美しいという感じではないが、弱者が勝者に輝くと、美しさを伴う。ユーロとポルトガルで想起するのは、ユーロ2004ポルトガル大会決勝で、地元ポルトガルを破りまさかの優勝を飾ったギリシャに僕は、それを少し感じた。美しいサッカーを見せたわけではないが、痛快劇の主役として世の中を仰天させた。その時、引き立て役に回ったポルトガルが12年後の舞台で、まさかの勝者に輝くとは。

 一方、準優勝に終わったフランス。美しき敗者にもなれなかった。C・ロナウドをラフプレイで退場に追い込んだ時点で、世の中のファンを敵に回すことになった。試合の興味を半減させたという意味で罪は大きいが、肝心なサッカーそのものの魅力にも欠けていた。

 僕らの年代には、フランス代表にいいイメージを持っているファンが多くいる。80年代、プラティニを中心に展開したパスサッカーの影響だ。82年スペイン大会、86年メキシコ大会でフランス代表はいずれも準決勝で敗退したが、その敗れ去る姿は、まさに「美しい」の一言だった。同じ頃のブラジルにもそれは言える。サッカーは勝利だけがすべてではない。美しい敗戦も優勝に匹敵する価値があることを彼らは我々に知らしめてくれた。それは日本人にとってカルチャーショックそのものだった。

 その後、日本代表がW杯本大会にコンスタントに出場するようになり、日本はサッカーに、当事者目線で触れ合う機会が激増。勝利至上主義、結果至上主義が幅を利かせていった。80年代のフランス的な価値観は、みるみる萎んでいった。バランスが悪いというか、サッカーを見る目に余裕がなくなっている。これが、W杯本大会に出場するようになってからの日本の傾向だ。

 美しいサッカーは、常駐しているわけでない。テレビ画面を通して伝わりにくい、空気感のようなものでもある。発見しにくいもの。

 フランス代表からもすっかり拝めなくなっている。フランスは98年W杯、ユーロ2000を立て続けに制し、強者となった。その頃から80年代の美しさは拝みにくくなっているが、現在はさらに拍車がかかっている。それは、アフリカ系選手の存在感が増していることと大きな関係がある。ポグマやシソッコは確かにフィジカルで、凄い選手なのだけれど、サッカー的かと言われると必ずしも100%イエスとは言えない。バランス的にチームに1人で十分。その数が増えれば増えるほど、パワーが雑なものに見えてくる。サッカーに必要な繊細さが表現しづらくなるように思える。