サダム・フセインのクラブ相手にゴールを奪うことはタブーだった。1985年、中近東最高のストライカーだったアドナン・ハマドは、その禁を破り、翌年のメキシコW杯に出場するイラク代表への扉を閉ざされた。24歳のときだった。
 かえってよかったかもしれない。1次リーグで惨敗したイラク代表チームは、帰国後一人残らず独裁者一族から制裁を受けたからだ。

「古い話さ。サダムの息子のサディズムについての本も書かれたぐらいだがね。今は前を向くことが必要だよ」

 指導者として経験を重ね、47歳になったハマドは、2月に母国のフル代表監督に就任した。表彰台まであと1歩と迫ったアテネ五輪では五輪代表も率いていた。昨年アジアカップ覇者にはなったが、イラク・サッカー界を覆う陰は濃いままだ。

「今でも独裁体制当時のことは、誰も話したがらないよ。困難は家族内で解決するしかなかった。
 イラク・スポーツ界も多大な犠牲を払った。国中のスタジアムがアメリカ海軍の補給部隊基地にされてしまったから、現在の代表チームは練習するのに外国へ行かなければならない」(続く)