マクラーレンの歴史には、あらゆる場面にスーパースターの名が散りばめられている(撮影:尾形文繁)

マクラーレンについて説明しようと思うととても多面的で、表現に困る。重要なトピックがさまざまに絡み合っていて、おそらくそのすべてに精通している人はほとんどいない。


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東洋経済オンラインに書く以上、高価なスーパーカーの性能がどれだけすごいかを書いても仕方がないので、2011年に最初のモデルをラインオフしてから2016年までのたった6年でスーパーカービジネスを売り上げ1000億円にまで成長させたそのビジネス面を前後編の2回にわたって取り上げたい。

ただ、やっかいなことにその背景としては、長くレースシーンで活躍してきたマクラーレン・ブランドの神話的側面が極めて大きい。だからまずはそのブランドがどう作られ、その中でマクラーレンがいったい何を核としてビジネスを組み立てたのか、という観点から始めよう。

マクラーレンとは何か?

ブルース・マクラーレンというF1黎明期の重大革命に立ち会ったレーシングドライバーを起点に、F1、ル・マン、カンナムなどさまざまな世界的レースを制したレーシングカーコンストラクターの顔を持ち、20世紀の到達点としてのロードカー「マクラーレンF1」を産んだロードカーメーカーであり、2009年にマクラーレン・オートモーティブと名前を変えて新生後の現在はスーパーカー&スポーツカーメーカーとして、創業から10年足らずの間に驚異的な成長を遂げている新興自動車メーカーでもある。

その歴史にはあらゆる場面にスーパースターの名がちりばめられている。特にドライバーは数えればキリがない。スポット参戦ドライバーを除外しても、デニス・ハルム、マーク・ダナヒュー、エマーソン・フィッティパルディ、ニキ・ラウダ、アラン・プロスト、アイルトン・セナ。ここまで数えて止めてしまうのは、挙げて行けば本当にキリがないし、筆者の都合でセナの名前までたどり着きたかったからだ。


マクラーレン・セナ」は、伝説のF1レーサー、アイルトン・セナの名を冠したモデルだ(撮影:尾形文繁)

今回発表したフラッグシップモデル「マクラーレン・セナ」の説明にはこれで足りる。ドライバーだけではない。クルマを作る人たちの側にも、ジョン・クーパー、ジョン・バーナード、ゴードン・マレー、エイドリアン・ニューウィの名が連なる。

ひとまず駆け足でその原点であるF1ドライバーでありコンストラクターの創業者であるブルース・マクラーレンから話を始めてみよう。

McLarenという姓はスコットランドを起源に持つ。彼の国では「Mc」は「息子」と言う意味で、つまりは「Laren」の息子。ラーレン一族を意味する姓となる。ブルースの曽祖父の代にニュージーランドに移住。ニュージーランドの国内レースで実績を上げたブルースは、英国へのレース留学を勝ち取る。そして1959年にクーパーチームからF1デビューした。

クーパー・カー・カンパニーとはジョン・クーパーが父とともに設立したレーシングカーコンストラクターであり、日本人に最もなじみがあるのはBMC(後のローバー)「ミニ」の高性能版であるミニ・クーパーだろう。

このクーパーは1959年と翌1960年にF1のコンストラクターズチャンピオンを獲得するが、その原動力となったのが、ミッドシップレイアウトである。F1にミッドシップ革命をもたらしたのがこのクーパーF1であり、後にロータスがそれを引き継いで黄金時代を築いた。そのF1史上の重要な技術革命に立ち会ったドライバーのひとりがブルース・マクラーレンであった。

ブルースは1966年に独立し、自らの名を冠したF1コンストラクターを創立する。そのベースになったのは当然クーパーのクルマ作りだったはずだ。残念ながら、ブルースは1970年にカンナム用マシンのテスト中に事故死を遂げるが、彼の名を冠したチームはその後各種レースで名をとどろかせた。

日本では当時最強のホンダエンジンに加えて、アラン・プロストとアイルトン・セナのドリームチーム「マクラーレン・ホンダ」が破竹の勢いで16戦15勝を記録した1988年のF1「MP4/4」が最も有名だろう。このMP4シリーズは1981年にジョン・バーナードの設計によるカーボンモノコックを採用しており、これが現在のマクラーレン市販車の「ミッドシップ+カーボンシャシー」という方程式のスタートラインとなっている。

最初のロードカーが決めたマクラーレンの価値

さて、この少し後にもうひとつのプロジェクトがスタートした。マクラーレン製ロードカー計画だ。F1デザイナーとしてつねに「鬼才」とうたわれるゴードン・マレーが、ブルース・マクラーレンの見果てぬ夢であったロードカー生産を託されて1993年に世に送り出した「マクラーレンF1」である。当時すでに生産車でもカーボンシャシーに先行例はあった。フェラーリF40がそれだが、F40の主構造体は旧来からある鋼管スペースフレームであり、バルクヘッドなどの補強材としてカーボンが使われたにすぎなかった。


マクラーレン・セナ」も全身がカーボン化されている(撮影:尾形文繁)

しかし、マクラーレンF1は本気も本気、サイドシルやバルクヘッドのみならず、ドアやエアインテークが設けられたルーフ部までのフルモノコックが熱可塑性のプリプレグを使ったオートクレーブ成形法で作られている。40以上のパーツに分割され、最終的には接着によって組み上げられるとはいえ、このプリプレグは高価な上に釜で時間をかけて加熱して硬化させる必要があり、しかも加熱中に変形が起こって歩留まりが悪かったため、これだけの複雑な構造すべてをカーボン化した例はない。

マクラーレン自身の説明によれば当時1台のシャシーを生産するためにはなんと3000時間という途方もない時間が必要だった。現在ではレジントランスモールの一体成型によって、わずか4時間で生産できるようになっている。

本来量産に向く手法ではないながら、技術革新によって昨今はフルカーボンモノコックを採用する例も増えつつあるが、当時の水準を見れば1995年に発売されたフェラーリF50ですら、キャビンの下半分のみにカーボン構成体を用いるバスタブ型シャシーで、ルーフまでのカーボン化はされていない。

カーボンモノコックは、すでにF1の世界で立証されたとおり、徹底した軽量と高剛性、安全性を高い次元でバランスさせたければ当然の選択肢であり、それを市販車に用いるならルーフまでカーボンで形成することは誰でも考えつくことだが、著しく低下する生産性や高騰する生産コストを考えれば、断念するのが常識だ。

スーパーカーの設計上の課題は単純化するとこういうことになる。前後方向では、運動性能のためにホイールベースを短くしたいにもかかわらず、最高速を担保するために巨大なエンジンを背負う必要がある。短いホイールベースにエンジンと人をどう共存させるのか? 左右方向で言えば剛性確保のために前後輪間のねじれを阻止する大断面の構造部材をキャビンに縦貫させる必要があり、かつ高性能ゆえに幅の広いタイヤが必須となる。


限られた空間に対して機械と人との場所の奪い合いが発生するのが常だったが…(撮影:尾形文繁)

なりゆきで作れば車幅がどんどん増えるが、道路幅の制約から野放図に広げるわけにはいかない。そして空力の都合で車高も下げたい。つまり限られた空間に対して機械と人との熾烈な場所の奪い合いが発生する。

その結果、この種のクルマは、結果的にドライバーのポジションにシワ寄せが行くことが慣例になっていた。ゴードン・マレーという人はやはり鬼才と呼ぶにふさわしく、この奪い合いに新しいソリューションを用意した。ひとつはすでに述べたとおり、ルーフを含めた外骨格に応力を負担させることで、大断面の貫通構造材が不要になるカーボンモノコック構造だ。車の幅いっぱいまで広げた構造材の中に運転席を設けて人を座らせたと考えても良い。

非合理的なフォームでは良い結果は得られない

中央に運転席、左右にそれぞれ助手席を設け、運転席のみを前進させることで人体の最大幅部位である肩と腰が重なることを防いだ。横方向のスペース問題をカーボンモノコックによって解決し、さらにシートアレンジによって、従来2人並列でも厳しかったキャビンに3人掛けを成立させた。

また同時にこのオフセットした横3人掛けのレイアウトは、ドライバーを中央に座らせることで、フロントタイヤに蹴られてペダルレイアウトが不自由になることを回避し、理想的なドライビングポジションを保証することを狙ったレイアウトでもあった。人体の運動において、非合理的なフォームでは良い結果は得られない。それはどんなスポーツでも同じである。マレーは、レースというフィールドで、ドライバーが意のままに操縦できなければ勝てるクルマにならないことを熟知していたのである。

その思想が端的に表れている部分はほかにもある。当時1億円のプライスタグが下げられたこの富裕層をターゲットとするクルマに、ブレーキの倍力装置(ブースター)やパワステを装備することをマレーは拒んだ。操作系のフィードバックに雑味が混じることを嫌ったのである。当然ブレーキは筋力勝負になるし、ステアリングも片手でクルクル回せない。

そんな安楽よりももっと大事なものがある。それは、本当はレースカーのデザインを続けたかったマレーが、社命でロードカーを作らされることに対する反骨だったのではないかと思う。そこに貫かれた「レースカーと寸分違わぬ思想」という概念こそが以後のマクラーレンロードカーの重要なモチーフになっていくのだ。

驚異的な成長

こうしてレースシーンでのマクラーレンの伝説は、ロードカーの世界でも確立された。つまりマクラーレンはロードカーの世界に、金持ちにおもねらないリアルなレーシングカーのフィロソフィーを持ち込んだことになる。


マクラーレンはロードカーの世界に、リアルなレーシングカーのフィロソフィーを持ち込んだ(撮影:尾形文繁)

マクラーレンF1はレースバージョンなどのバリエーションモデルを追加しつつ1998年に生産を終える。以後、マクラーレンは表立った活動を休止しつつも、メルセデス・ベンツのSLRマクラーレンなどの開発を受託していたが、2010年にそれまでのマクラーレン・カーズからマクラーレン・オートモーティブに社名を改め、2011年に突如マクラーレンMP4-12Cを発売する。

マクラーレンが「カーボンモノセル」と呼ぶレジントランスファーモールディング工法によるカーボンシャシーにV8ツインターボユニットを載せた新たなスーパーカーで、以後着々とモデルラインを充実させてきた。

現在マクラーレンでは3つの商品シリーズを展開しており、ロードモデル全12車種が、アルティメッドシリーズ3車種、スーパーシリーズ5車種、スポーツシリーズ4車種に分かれている。総販売台数は2016年実績で3286台。参考までに先行するライバル社と比較してみると、フェラーリの2016年実績は8014台。同じくランボルギーニは3457台となる。フェラーリとの差はまだ大きいがランボルギーニとはすでにほぼ並んでいる。販売台数が最も多いのは北米だが、アジアでも順調な成長を遂げているという。

経営指標を見ると、2016年のマクラーレンの売上高は973億円。営業利益は98億5400万円。営業利益率10%。1台当たり利益は300万円となる。

マクラーレンのすべての車は英国サリー州のマクラーレン・テクノロジー・センターで1日最大20台がハンドメードで組み立てられており、今年度中にはヨークシャー州に2つ目の生産設備がオープンする。新工場の最大の狙いはカーボンファイバー素材の内製化だ。

これらの計画はマクラーレンの中期計画「Track22」に織り込まれており、2022年までに新モデルならびに派生モデルを15車種投入し、うち半数をハイブリッド化する計画だという。

マクラーレンは昨年10月英国の代表的成長企業に選定された。この短期間での成功と成長の理由については、後編に予定しているマクラーレンオートモーテイブ・アジアパシフィック担当マネージング・ディレクター、ジョージ・ビッグス氏へのインタビューで明らかにしたい。