『中央の背の高い少女が朴槿恵

「逮捕された朴槿恵は、歴代で最も強硬な反日大統領でした」
 韓国に詳しい研究者がそう語る。

「金泳三、金大中、盧武鉉、李明博と続いた大統領は、就任初期に『過去は問わない未来志向』を日韓関係の方針として掲げ、支持率の低下とともに、途中から一気に反日へ転ずるパターンを繰り返してきました。ところが、朴槿恵だけは就任以前からずっと強固な反日姿勢をとってきたのです」

 朴槿恵はいかにして反日となったのか。じつは、朴槿恵が大統領に就任した当初、日本では日韓関係が修復するという期待感のほうが強かった。それも無理はない。彼女の出自を見れば、親日であるほうがむしろ自然なのだ。

 高木正雄。朴槿恵の父・朴正煕元大統領の日本名だ。日本統治下の貧しい農家に生まれた朴正煕は、小学校を優秀な成績で卒業すると、日本人教師の熱心な勧めにより、師範学校に進学した。

 3年間教師をした後、志願の血書までしたためて満州国の軍官学校に入学。その後、東京の陸軍士官学校に進学している。卒業式では日本人を含めた代表として答辞を読んだ。その後、関東軍中尉として終戦を迎える。

 終戦後、朴正煕は朝鮮半島に戻り、朝鮮戦争勃発とともに軍役に復帰する。1952年生まれの朴槿恵は、自叙伝でそのころの父の姿をこう書いている。

《私から見て、父は国を守る正義の使者だった。軍服姿の父は、テレビに出てくるどんな俳優よりもすてきで格好よかった》

 その父の軍歴が日本陸軍からスタートしたものだったことを朴槿恵が知らないはずはない。さらに、父・朴正煕が、安倍晋三総理の祖父・岸信介の尽力によって1965年に日韓基本条約を結び、日本の資金供与によって「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長の基礎を作ったことも知っているはずだ。

 1970年代後半、福田赳夫元首相が訪韓した際の朴正煕親日ぶりを、同行した石原慎太郎元都知事がこう明かしている。

朴正煕大統領と会った時、朴さんや彼の閣僚たちと皆で酒を飲みながら日本語で話をしていたのです。(略)そのうち閣僚たちの間から「日本人は生意気だ。朝鮮に来て今までの名前を変えろなんて言った」などという批判が出た。すると朴大統領は「まあまあ、みんなちょっと落ち着きなさい」と周囲をなだめてから、「私は日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない」と言い出したので、皆が静まり返ったことがある》(金完燮著『日韓「禁断の歴史」』)

■かつて韓国には親日派があふれていた

 外交評論家の加瀬英明氏は、1960年代の韓国は「親日派」であふれていたと言う。

「僕は国交が結ばれる前の1964年に韓国を訪れて以来、何度も韓国へ行っていますが、街を歩いていて僕が日本人だとわかると『一杯飲め』と勧められたものです。当時の韓国は貧しかったので、『日本統治時代のほうがよっぽどよかった』と公然と言う人も多かったですね」

 加瀬氏は朴正煕にこそ面会していないが、金泳三、金大中の2人の元大統領とは何回か会ったことがある。

「日本軍人だったのは朴正煕だけではありません。金泳三も金大中も、旧日本軍人で日本名を名乗っていた。2人とも自分が学んだ学校の日本人の恩師を青瓦台(大統領官邸)まで招いて、たいへんな歓待をしています。朴槿恵の母親も日本の女学校の卒業生です。日本語も生け花も上手な知日家と、当時の新聞に書いてあります」

 こうした家庭環境の中で育った朴槿恵が、もともとは親日派だったことは十分考えられる。だが、自叙伝にあるのは、大統領の娘としての自覚や少女時代の思い出ばかりだ。

 朴槿恵は「戦争の話が出てくる歴史小説がとても好きだった」と告白している。最初はデュマの『三銃士』、父から勧められて『三国志』に夢中になったという。

 朴槿恵がかつて公開した学生時代の通信簿を見てみると、成績はたいへん優秀だったことがわかる。父と進路の話もした。

《私は電子工学を専攻したいと答えた。父が理由を訊くので、青瓦台にいらした博士が「小さなトランジスタ1つが20〜30ドルもして、アタッシェケース1つ分で何万ドルにもなる。大韓民国は電子産業に活路を見出すべきだ』と言ったことに触れ、こう答えた。「産業の担い手になって国に寄与したいです」》(自叙伝より)

 その言葉どおり、西江大学の電子工学科に進学する。理系の勉強に打ち込むかたわら、高校時代から語学の勉強を進め、英語、フランス語、中国語、スペイン語をマスターしている。家庭環境を考えれば、おそらくは日本語も使えるはずだ。

 同大学の卒業生がこう話す。

「西江大学はカトリック系で、日本でいえば上智大学に似ています。出席は非常に厳しく、勉強、勉強の毎日なんです」

 朴槿恵は、中学からカトリック系の厳格な学校に通い、家でも母親の厳しいしつけを受けた。その結果、高校の通信簿に「勤勉で正義感が強い」と書かれるほど、生真面目な性格に育った。

 その人生に大きな転機が訪れるのは1974年8月のことだ。フランス留学中に、《私の偶像》と慕っていた母・陸英修が、在日韓国人・文世光の凶弾にたおれたのだ。朴槿恵は母の代わりに22歳でファーストレディとなった。そして、5年後の1979年10月、今度は父・朴正煕も側近によって射殺されてしまう。

朴槿恵は父親が亡くなってから変わったんだと思います。暗殺という衝撃だけじゃなく、側近がみんな離れていったショックも大きかったはずです。そういう経験を経て人間不信になっ
た。心を許せる人物が周囲にいなくて、電話で指示を出しているらしい。これでは大統領としてのリーダーシップは発揮できないでしょう」(前出・韓国に詳しい研究者)

親日だった朴正煕反日教育を徹底させる

 朴槿恵反日にしたのは、意外にも父・朴正煕が推し進めた徹底した反日教育にあった。

朴正煕は、日本に対しては親日的な顔を見せていました。それで日本の援助を引き出し、漢江の奇跡を成し遂げたんです。しかし、国内向けには反日教育をどんどん強めていきました。いわば、表と裏を使い分けてバランスを取っていたわけですが、この教育を受けた朴槿恵は、普通のあまり知識のない人と同じように、無批判に反日教育に染まってしまった。朴槿恵反日はほとんど感情論のレベルですが、親の言いなりで育った影響もあるのでしょう」(同前)

 そういえば、朴槿恵の高校時代の歴史の点数は、3年間の平均で87点と優秀である。大学でも「国史概説」はもちろんA評価だ。勉強をすればするほど反日に染まってしまったのか。

 とはいえ、別な見方もある。選挙に勝つためのポーズでことさらにそういう姿勢を取らなければいけなかったという説だ。韓国では「386世代」がもっとも反日的だといわれている。1990年代に「30」歳代で、「’80」年代に大学生活を送った「’60」年代生まれの人間たちのことだ。

 1952年生まれの朴槿恵の1つ下の世代だ。しかし、この世代が政官財のほとんどの指導層を占めているため、朴槿恵反日を演じざるをえなかったというのだ。

 その胸のうちはわからない。いま、朴槿恵は3m四方もない小さな独房に入って、1食150円の食事を食べている。韓国きってのお嬢さまは、そのなかでいったい何を思うのか――。