下地幹郎氏(衆議院議員・維新の党・元国民新党幹事長・元内閣特命相)

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■今年の3月から始まった交渉の末に

【塩田潮】沖縄県の米軍普天間基地の移設問題で、安倍晋三内閣と沖縄県翁長雄志知事とが対立し、話し合いが進まない状態が長く続いていましたが、8月4日、菅義偉官房長官が辺野古の新基地建設作業の1カ月中断を電撃的に発表しました。

【下地幹郎(衆議院議員・維新の党・元内閣特命相)】去年11月の沖縄県知事選挙で翁長さんが圧勝して新知事となった後、政府と向き合ってきましたが、菅さんや安倍首相との会談を見ても、尋常ではない関係となっていたので、私は交渉の時間をつくるのがいいと思い、双方に提案するといったことをやらせていただいた。

【塩田】8月5日付の「沖縄タイムス・プラス」のウェブ記事は「5月下旬、菅氏と当選同期で親しい下地幹郎氏(維新)の呼び掛けで菅氏、安慶田光男副知事、外務、防衛幹部の計5氏が都内で顔をそろえた。席上、下地氏が『普天間基地移設交渉プラン』と書かれた紙を菅氏へ差し出し、一時中断を切り出した。プランには工事を停止した上で交渉期間を設置、政府側の窓口は菅氏とする―などが盛り込まれていた」と報じています。

【下地】そこは今、話をする段階ではありません。もう少ししてから……。

【塩田】この記事が報じた経緯は事実ですか。

【下地】事実ですよ。

【塩田】新基地建設の工事を一時停止して協議を、という提案はいつ頃から。

【下地】3月初め頃からです。会話が成り立っていないのだから、なんとかしなければ、と思った。私は両方に話しかける機会がありますから、積み上げてきたわけです。

【塩田】3月頃から働きかけて、8月の工事中断決定まで、時間を要した理由は。

【下地】この場合、アメリカの了解を求めないということはあり得ないと思います。向こうは「それじゃあ1カ月、待ちましょう」という程度で済む話ではない。

【塩田】1996年4月に当時の橋本龍太郎首相とアメリカのウォルター・モンデール駐日大使との間で普天間基地全面返還の合意が成立しましたが、それから19年余が過ぎました。

【下地】アメリカとの信頼がなかったら、ここまで19年もかかっているものを、さらに引き延ばすのかという話になり、さまざまなことが起こります。1カ月、工事を停めて政府と沖縄県が交渉するのは大変な決断です。私はそのエネルギーを高く評価しています。

【塩田】アメリカの了解を取り付けるのに、下地さんもいろいろと努力されたのでは。

【下地】私はそういうことはしていません。政府がやるべきことです。首相官邸ですよ。強力なリーダーシップがない限り無理です。外務省の力だけでは簡単ではないと思う。

■「工事中断・協議」期間1カ月の理由

【塩田】安倍内閣は今国会で集団的自衛権の行使容認に伴う安全保障関連法案の成立を目指していますが、特に7月に衆議院で法案を可決した前後から、批判が高まり、内閣支持率も急落しました。逆風が強くなってきたので、危機感を抱いた安倍政権が、沖縄の基地移設問題でも工事中断に踏み切る決断をしたのでは、と見る人もいます。

【下地】3月からやっている話です。安保法案とは直接、関係はありません。むしろ安保法案の問題が出てきたので、「工事中断・協議」という話が流れるのではないかと思いましたが、首相官邸はちゃんと約束を守りました。

一方で、「1カ月の中断なんて、工事を強行するつもりの政府側のパフォーマンス」とか、「裁判闘争も辞さずという構えの翁長知事が、裁判では負けそうだから、妥協したのでは」といった声もあります。両方に対してネガティブな見方がありますが、それを乗り越えて何かを生み出そうということで、稀に見る政治決断ですよ。

【塩田】「工事中断・協議」に漕ぎ着けるのに、一番高い壁は何だったのですか。

【下地】出口戦略が簡単に見つからないことです。普通は出口を予想しながら進めるのですが、この会談は出口が見えません。

【塩田】「工事中断・協議」の期間を1カ月とした理由は。

【下地】19年間の積み上げの中で、もう決断すべきところまできています。2カ月とか3カ月にしたら何か展望が開けるかというと、そんなことはないと思います。集中的にやれば、決裂する場合も10日、何か変わることになる場合も10日で終わります。ですが、実際はそう簡単ではない。1カ月という時間を目いっぱい使わないと解決できません。

【塩田】1カ月間の協議で、具体的にどんな話し合いを行うことになりますか。

【下地】協議は5回やります。1回目は、沖縄の基地の存在意義などについて、お互いに認識を話し合いました。翁長知事は「日米安保体制は沖縄だけで背負うものですか」と言い、政府側は「現在の沖縄のプレゼンスを維持したい」と主張しました。2回目は、閣僚も入れた会議を開きました。3回目は、双方が妥協的な考え方を持って臨むかどうかが一番大きなポイントになります。ここで協議の行方が見えてくるかなという感じです。

うまくいけば、4回目で戦略的な話に入り、戦略上、アメリカ側が呑めるかどうかを打診する。アメリカ側の返事が届いた上で、5回目の話をする。だけど、場合によってはもう1回延長というシナリオで動いています。表の協議が5回だとすると、裏で15回くらいの交渉があり、どう話を詰めるのか、そこでやっていると思います。

【塩田】協議の行方をどう展望していますか。

【下地】翁長知事は「辺野古阻止」を唱え続けていますが、沖縄から米軍基地を全部出したいのか、普天間の基地を県外に出したいのか、辺野古さえ止めればいいのか、頭の中の構図がまだわかりません。翁長さんのバックに共産党や社民党がいます。社民党は沖縄から基地を全部出せという主張ですが、これでは話になりません。翁長さんの考えはどっちなのか、1カ月間の協議でそれをまず示して、次のステップに入っていく。そういうふうに、結果を生み出しながら会談を積み上げ、結論を出すということになると思います。

■協議決裂、最悪のシナリオとは

【塩田】政府は、普天間基地撤去には辺野古移設が唯一の解決方法と言い続けています。

【下地】政府が最終的に何を望んでいるかというと、日本が沖縄の基地問題でざわめいて、日米安保体制が混乱しているとか、日米関係の構造が悪くなっているとか、安全保障の枠組みについて近隣諸国に悪いメッセージを与えるといったことにならなければいいんです。辺野古エリアに基地がなければ、在沖の米軍基地、あるいは在沖の海兵隊が成立しないという発想に政府が立つのかどうか。その点も議論していけばいいと思うんです。

「唯一の解決方法」と言いますが、何をもって「唯一」と言うのか。一方で、普天間基地は世界一危険というけど、その基準は何か。普天間基地は飛行回数が2万9000回ですが、那覇空港の14万回のうち、30%が軍用機で、4万回を超えています。軍用機だから危ないということはないでしょう。というふうに、「危険」と「唯一」という二つの言葉には整合性がない。二つの根拠は成立していないのに、政府は成立しているかのようにずっと言い切っていますが、正しい選択肢かどうか。私は翁長さんの基地に対する考え方と政府の主張の整合性を合わせる会議にすべきではないかと思っています。

【塩田】1カ月の中断で、協議は9月上旬までですが、見通しはいかがですか。

【下地】最悪のシナリオは、協議が決裂して、翁長知事が辺野古の埋め立てを取り消し、裁判に持ち込んで法廷闘争となるケースです。最高裁まで行って、判決がどうなるかを見て、それからということになります。この裁判は、沖縄県が簡単に勝てるものではなく、結果的に国が勝つ可能性が高い。しかし、国は政治的に勝てるのかというと、そうはいきません。安全保障は法律で決めるものではなく、民意が決めるものですから。

決裂したら、翁長知事は今年11月に知事選を実施してもう一回、打って出る。同時に、ギリシャやアイルランドのように、県民投票をやるでしょう。結果は見えています。翁長さんは去年11月の知事選のときよりも強くなっているから、対抗できる人は出てこないし、県民投票も「辺野古に賛成か反対か」のワンイシューでやりますから、国は勝てない。

それでは、翁長知事が再選され、県民投票が終わった後、政府は反対派排除のために機動隊を入れ、押し切ってやれるかどうか。自由国家のアメリカで、それで抑止力なのか、安全保障なのかという声が上がる。沖縄では、嘉手納基地もやめろ、海兵隊は出ていけという論理になる。それでも政府は機動隊を入れて基地建設をやりますかと言ったら、それはできないと思います。

ということは、両者ともわかっていると思うから、私は今度の協議に期待しています。翁長知事も、自分の考え方と降りやすい部分を提示できるところまできているのではないか。政府も、新たな提案が一個もないというようなものではないと思っています。

(このインタビューは2015年の8月7日と20日に行いました)

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下地幹郎(しもじ・みきお)
衆議院議員・維新の党・元国民新党幹事長・元内閣特命相
1961年8月、沖縄県平良市(現宮古島市)生まれ(現在、54歳)。父・下地米一は元平良市長。沖縄県立宮古高校を経て、中央学院大学商学部商学科卒。父が創業した大米建設に勤務した後、1996年総選挙に沖縄1区から自民党公認で出馬し、比例九州ブロックで初当選(以後、当選5回)。自民党では小渕派に所属した。2003年総選挙で落選した後、自民党を離党。05年総選挙に沖縄1区から無所属(民主党推薦)で出て返り咲いた。地域政党「そうぞう」を結成して代表に就任するが、08年に国民新党に入党。10年に幹事長となる。12年10月に野田佳彦内閣の内閣府特命担当相に。だが、12月の総選挙で落選し、13年に国民新党を離党した。14年11月の沖縄県知事選挙に出馬して落選。14年総選挙に維新の党公認で出馬して復活を遂げた。著書は『サトウキビ畑からきた大臣―郵政と沖縄をめぐる連立政権三年三ヵ月』『解決―沖縄ミッション 米軍基地過重負担の漸進的軽減』など。

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(ノンフィクション作家 塩田潮=文 尾崎三朗=撮影)