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現在放送中のNHK大河ドラマ『光る君へ』。吉高由里子さん演じる主人公・紫式部が書き上げた『源氏物語』は、1000年以上にわたって人びとに愛されてきました。駒澤大学文学部の松井健児教授によると「『源氏物語』の登場人物の言葉に注目することで、紫式部がキャラクターの個性をいかに大切に、巧みに描き分けているかが実感できる」そうで――。そこで今回は、松井教授が源氏物語の原文から100の言葉を厳選した著書『美しい原文で読む-源氏物語の恋のことば100』より一部抜粋し、物語の魅力に迫ります。

【書影】厳選されたフレーズをたどるだけで、物語全体の流れがわかる!松井健児『美しい原文で読む-源氏物語の恋のことば100』

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近江の君の言葉

<巻名>常夏

<原文>大御大壺(おおみおおつぼ)取(と)りにも、つか(こ)うまつりなむ(ん)

<現代語訳>トイレ掃除だっていたしますわ

内大臣に昇進した頭中将(とうのちゅうじょう)は、ライバルの源氏が、疎遠になっていた美しい娘を六条院に迎え入れたことを知ります。

頭中将が、自分にもそんな娘がいたはずだと、捜し求めてきたのが近江(おうみ)の君です。

ところが会ってみると、礼儀作法も知らず、早口で落ち着きのない様子にがっかりします。

姫君の飾らない心

頭中将は「わたしにはいま身近に召使う者もいないので、あなたにそのお役目をとも思ったのですが、さすがにそういうわけにもいきませんので……」と、本心とは裏腹に、いかにも思いやっているような挨拶をします。

すると近江の君は、「いえいえ、どうぞおかまいなく、トイレ掃除だって、なんだっていたしますわ」と応(こた)えます。

はなはだ姫君らしくない言いまわしですが、近江の君のけなげさがよくあらわれた言葉です。

近江の君は、頭中将に熱意を伝えようと一生懸命なのですが、それが上流社会の常識からはずれてしまっていることに気が付きません。

頭中将は、こらえきれず大笑いして「それはあなたには、ふさわしくないお役目でしょう」と、娘であるにもかかわらず、最後まで軽んじる態度は変わりません。

もっとも、読者に笑われるのは、最初は近江の君かもしれませんが、じつは、その近江の君を笑う女房たちや頭中将こそが滑稽なのだと語り手は述べているのです。

『源氏物語』の道化役

貴族社会は、礼儀作法や約束事によって成り立つ社会です。それが世のなかの調和や、洗煉(せんれん)された身ごなしの基本となりますが、それだけでは生き生きとした感受性や、新鮮な発想は生まれません。

近江の君は、『源氏物語』の道化役です。それだけに、その言葉の一つひとつに、社会規範の生み出す停滞感をうちやぶるパワーがあります。


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近江の君は、「今姫君(いまひめぎみ)」「今君(いまぎみ)」「今の御(おん)むすめ」と、語られます。

新たにやってきた者、ニューフェイスなのです。若者や新人には、その社会の常識にとらわれない、心の自由があります。

近江の君の愛嬌

また近江の君は、愛嬌(あいきょう)があると何度もいわれます。可愛らしいのです。

愛嬌は、愛敬(あいぎょう)で、もとは仏教語です。

愛と敬(うやま)い、情け深さや、優美さについてもいいますが、つまりは、心が閉じていないこと、オープンハートであることです。

近江の君のような人物は、しばしば厄介者としてうとんじられますが、じつはこのような人物こそが、停滞した社会を進展させる原動力になるのです。

※本稿は、『美しい原文で読む-源氏物語の恋のことば100』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。