(写真:Usis / PIXTA)

人の命を左右することもある医療情報。SNS上では私たちの不安につけこんだ、根拠に乏しい情報があふれている。『週刊東洋経済』7月6日号の第1特集は「不安につけこむ『医療情報』の罠」。何を信じ、何を疑えばいいのか。


「遺伝子検査でお悩みを解消! 福岡市子育て応援!」

これは、福岡市のふるさと納税紹介ホームページに掲載されている、ある返礼品の売り文句だ。

中身は子ども向け遺伝子検査キットで、寄付金額は5万5000円から全9種類。最も高い30万7000円の検査キットは「記憶力」「リスニング力」「愛情要求」「絶対音感」など、被検者の19の能力が鑑定できるという。

米国や欧州と異なり、日本では民間の遺伝子検査に関する規制がない。そのため、科学的根拠が不明な遺伝子検査キットが、野放し状態で利用されているのが実態だ。

学会は自粛するよう求めてきた

今の状況を懸念する専門家は多い。遺伝子医療に関連する学会は、子どもに対する不必要な遺伝子検査を自粛するよう求めてきた。2003年に関連10学会が共同で発表したガイドラインでは、子どもへの遺伝子検査に対し「検査結果により直ちに治療・予防措置が可能な場合や緊急を要する場合を除き、本人が成人に達するまで保留するべきである」と明記している。

福岡市によると、子ども向け遺伝子検査キットが返礼品リストに入ったのは昨年6月。公的機関が科学的根拠の不十分な遺伝子検査を提供することについては「選定の段階で、国と県が定めた基準を満たしていれば、すべて返礼品として登録している」と回答した。子ども向け遺伝子検査キットを「福岡市子育て応援!」と紹介していることについては、「事業者が作成した文章」と説明した(取材後、この文言はホームページから削除された)。


今年3月には、日本医学会などが民間の遺伝子検査について「科学的根拠が極めて不十分」として、政府に規制のあり方を検討するよう提言した。提言書の検討委員会で委員長を務めた信州大学医学部の福嶋義光特任教授は、こう話す。

「子どもの能力は遺伝子よりも育った環境など後天的な要素の影響のほうが大きい。検査の責任者となる医師の名前や科学的根拠となるデータも明示されていない。医療行為ではなく占いレベルだ」

厚労省と経産省の暗闘

今年4月には、東京都内の保育園が「子育てに役立つ」として子どもの遺伝子検査を受けることを呼びかけ、保護者の3割が応じていたことが毎日新聞の報道で発覚した。これを受けて加藤鮎子こども政策担当相は「子どもの教育・保育を担う施設が遺伝子検査を推奨することは極めて慎重にしてほしい」と注意喚起したばかりだ。

にもかかわらず、なぜ、子ども向けの遺伝子検査が広まっているのか。その背景にあるのが、遺伝子検査をめぐる厚生労働省と経済産業省の長年の暗闘だ。

現在、医療機関が実施する遺伝子検査は厚労省が所管している。使用する検査キットも同省の承認が必要で、ほかにもさまざまな規制がある。一方、経産省が所管する民間の遺伝子検査は自主規制のみ。企業の判断に委ねられている。

厚労省関係者は「厚労省は規制をかけたいが、経済成長を重視する経産省が消極的という対立が続いていて、結果的に野放し状態になった」と話す。民間の遺伝子検査会社の社員も「所管が経産省だから、日本で遺伝子検査ビジネスが広がった」と認める。

民間企業で構成される遺伝子検査の業界団体も、独自に定めたガイドラインで未成年への遺伝子検査に自粛を求めている。だが、ガイドラインに違反しても罰則はなく、そもそも業界団体に所属していない検査会社も多い。


学会、医師会、業界団体などが未成年の遺伝子検査自粛を求めている
(出所)東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター「遺伝子検査を買おうかどうか迷っている方へのチェックリスト」

子どもの将来に悪影響を与えかねない

今の状況が続くことは、子どもの将来に悪影響を与えかねない。

中国では、乳幼児の時点で子どもの才能を親が調べる遺伝子検査が流行している。鑑定で「記憶が得意ではない」と判定されたことで、医師や弁護士のような専門的職業を諦めさせる親もいるという。認定遺伝カウンセラーで、『遺伝子検査のモラル』の共著者である青木美保氏は言う。

科学的根拠が不十分なのに、誤解を招き、子どもの将来に影響を与える鑑定結果を出すことは倫理的な問題が大きい。また、医学的に本当に必要な遺伝子検査にも不信感が広がり、遺伝子医療の信頼を損ねかねない」

医学的な遺伝子検査では、特定の遺伝子変異が引き起こす病気を診断し、予防医療を実施する場合がある。その一例として知られているのが、ハリウッド俳優のアンジェリーナ・ジョリーが、乳がんや卵巣がんなどの発症確率を高める「BRCA1」という遺伝子に変異があり、2つの乳房と卵巣を切除する手術を受けたことだ。こうした検査には、十分な説明と本人の理解が欠かせない。青木氏は、「検査を受けてもらう前には、成人では本人に1時間ほどカウンセリングをする。未成年者を検査するときも、両親とその子の年齢に合わせた資料を作成し、よりよい医学的な選択ができるよう支援している」と話す。

それが民間の遺伝子検査では、鑑定結果は郵送か、インターネット上で確認することがほとんどだ。近年は、ゲノム研究の成果で高血圧や糖尿病などの遺伝要因が数多く明らかになっている。福嶋氏は「遺伝情報をどう解釈するかは、医学の発展で変わる可能性がある。民間の遺伝子検査は、そのアフターケアもない」と指摘する。

「言われていることはよくわかっている」

こういった批判に、民間の検査会社はどう答えるのか。

福岡市のふるさと納税返礼品に遺伝子検査キットを提供している「DNA FACTOR」の創業者で、同社取締役の米田真耶人氏は、「子どもの可能性を広げるためのツールとして活用してもらっている」と話す。学会のガイドラインなどで未成年者への検査自粛が求められていることは知っているとしたうえで、同社はこれまで2万2314人に遺伝子検査を実施し、うち8147人が子どもだったという(23年3月時点)。能力に関する遺伝子検査について専門家から「占いのようなもの」と指摘されていることについては「全然否定しないし、言われていることはよくわかっている」(米田氏)と話した。

子どもが対象の遺伝子検査は、同社以外にも化粧品メーカーのDHCなど複数の企業がインターネットで販売している。日本の遺伝子検査は、科学的根拠のあるものと占いレベルのものが一般の人に判別できない混沌とした状態にある。そして、福岡市のふるさと納税サイトには、子ども向け遺伝子キットが今でも掲載されたままだ。


(西岡 千史 : ライター)